二日目

 懐かしい匂いがした。

 荒んだ心がそっとほぐされるような、優しい匂いだった。

 以前にも嗅いだことのある匂い。学生時代を思い出した。

 あの頃は何も考えず、ただ目の前のことだけ見ていればよかった。それ以外のことは、全て大人に任せておけばよかった。

 前の晩に夜更かしをしていたせいで起きたら遅刻ギリギリの時間だった時、急いで階段を駆け下りると必ず母親が朝食を作って待っていた。ごめん急ぐから朝ご飯いらない、と言うと呆れた顔をした母は、必ず肩を竦ませて「せめてお味噌汁くらいは飲んで行きなさい」と言った。茶碗に盛られた白米を味噌汁の中に放り込んで、十秒ほどで胃に流し込む俺を、母は後ろで口元を綻ばせながら眺めていた。今となっては遠い過去のように思う。

 実家を離れて約十年、引っ越した当初はアルバイトに追われ、処女作がヒットしてからは取材に執筆に多忙を極めていたため実家に顔を出す余裕などなかった。その後、一転して仕事がなくなくなると仕送りをしてもらっている負い目もあり、ますます実家に顔を出しづらくなって今に至る。母親の手料理は、十年間食べていない。

 やがて意識がはっきりしてくると、どうやらこの懐かしさを感じる匂いは夢ではなく現実で漂う匂いだと、ぼんやりとだが認識できた。

 身体を起こそうとして背骨が軋しみ、力なく呻きながら掛け布団に突っ伏した。さすがにフローリングに直寝は無謀だったようだ。今夜は掛け布団を身体に巻きつけて寝ようか。ミノムシのような姿でモゾモゾと蠢く滑稽な姿を想像すると、なるほど俺にぴったりかもしれないと思った。

 なんとか身体を起こし、部屋を見渡すとサヤの姿が見当たらなかった。耳をすますとキッチンの方から微かに物音が聞こえてくる。先ほどから感じるこの心地よい匂いに惹かれてキッチンへ向かうと、コンロの前に立ったサヤがフライパンに卵を割り入れようとしているタイミングだった。

「おはよう」

 と声をかけるとサヤはビクリと肩を震わせ小さく飛び上がり、その反動で卵に指を深く突っ込んでしまったようで、「あぁ…」という嘆きとともに無残にも割れてしまった黄身の残骸が白身と共にフライパンへと落下していった。

「あ…お…はようございます」

 背中を丸めて挙動不審に視線を彷徨わせながらカクカクと頭を縦に振っている。近所のケーキ屋の店先にこんな動きをする置物があったなと思い出していた。

「あの…昨日はありがとうございました、それで、その、失礼とは思ったんですけど、食材を見つけたのでお礼にと思い朝ごはんを作っていて…」

 何に対しての言い訳なのかよくわからない言葉を早口でまくし立てているサヤの前には形の悪い目玉焼きが乗ったプライパンと、その横には味噌汁の鍋が並んでいた。具材はワカメしか入っていないことから、恐らく実家から送られてきた仕送りの箱から掘り出してきたのだろう。普段自炊をするとしても米を炊くのと卵を焼くくらいしかしないため、それ以外の日持ちする食材は箱に封印したままとなっていた。

「飯、作れるんだ」

 純粋に感心した。何を隠そう俺は味噌汁の作り方すら知らない。こっちに越してきてすぐの頃、一度だけ味噌汁を作ってみたことがあった。具材を入れたお湯に味噌を溶かして飲んでみたら、味噌がお湯に溶けた味しかしなかった。当たり前といえば当たり前なのだが、それでは世のお母さんたちはどのようにして美味しい味噌汁を作っているのか不思議に思っていた。

「私、家ではご飯を作るのが仕事だったので…」

 仕事。手伝いではなく、仕事。まだ見ぬサヤの父親のゲスな顔がイメージされた。食事当番なのに自分は満足な食事が許されない状況というのが、俺には理解ができなかった。

「そうか。すげぇな」

 と言ってサヤの頭に手を乗せてグリグリと動かす。

「あ、あの…」

 何か言いたげな声に俺はハッとなり、手を下ろした。

「ああすまん、つい。距離感のわからないおっさんで」

「いえ…ちょっと慣れなかっただけで…ありがとうございます」

 尻すぼみに声が小さくなりながらも、微かにはにかむ口元に、胸が少し締め付けられた。

 

 

 テレビに映る新人アナウンサーがコロッケを片手に商店街の紹介をしていた。最近よく見る地方アナウンサーで、美人な顔といよりは愛嬌のある笑顔が特徴的な、えくぼがチャームポイントの可愛らしい顔だった。

「お待たせしました」

 目の前に置かれた茶碗に盛られたご飯からは湯気が立っており、その横に置かれた皿に乗っている目玉焼きの上で形の良い半熟の黄身が揺れていた。もう一往復して俺の味噌汁と自身の分の目玉焼きの皿を置いて行ったサヤの後ろ姿をチラリと見て、自然な動きで皿を取り替える。

 ちょうど戻ってきたサヤの「あっ」と言う声を無視して形の悪い目玉焼きを醤油漬けにする。

「目玉焼きには何をかける派?醤油?ソース?」

 と言う特に意味のない問いかけに、サヤは何か言いたげに口をモゴモゴと動かして、やがて何か諦めたような顔をして

「…醤油」

 とだけ呟いた。

「そうか、奇遇だな。俺もだ」

 箸で細かくちぎった卵白を口に放り込む。その向かいで複雑そうな表情をしていたサヤが、半熟の黄身の中央に開けられた穴に目掛けて醤油を垂らしていた。

 味噌汁を一口啜ると、懐かしい味がした。

「うまいな」

 思わずそう呟くと、ありがとうございます、とサヤの小さな声が聞こえた。

「俺も前に自分で味噌汁を作ろうとしたことあったんだけどさ。薄めた味噌の味しかなくて、以来作ってない」

 と言いながら顔を上げると、サヤはつぶらな瞳をさらに丸くしていた。頭上に浮かぶクエスチョンマークが、俺には見える。

「それ、出汁入れました?」

「ダシ?出汁って、豚骨とかの出汁?」

 数秒固まったサヤはやがてプッと吹き出して、顔を伏せて肩を震わせ始める。どこかのツボに入ったのか、その肩の震えがやがてお腹を抱えた笑い声へと変わるのにさほど時間は掛からなかった。何に対して笑われたのかイマイチよくわからなかったが、サヤがここに来てから初めて見せた笑顔に、俺は満更でもなかった。

 

 

 出汁が入っているらしい味噌汁を啜っていると、サヤが手を止めてじっとどこかを見つめているのに気がついた。その視線の先にはテレビがあり、今年閉園の決まった遊園地の特集が流れていた。五駅ほど離れた場所にある、よく知った遊園地だった。

「どうしたんだ?」

 上の空な状態からなかなか戻ってこないため声をかけると、サヤはハッとした様子でこちらに向き直る。

「懐かしいなと思って。昔、お父さんが生きていた頃に一度だけ遊びに行ったんです。だけどその時は私の身長が足りなくて絶叫マシンに乗れなくて。結局再チャレンジできなかったなと思って…」

 サヤはエヘヘと寂しそうに口元を歪ませた。

 昨日の話だと五歳の時に父親と死別したとのことだったから、確かにその年齢だと絶叫系マシンの身長制限には届かないだろう。そしてその後まもなくして例の男が家にやってきて、人間以下の扱いをされて生きてきた。普通に生きていれば、乗るチャンスなどいくらでもあっただろうに。

 残った味噌汁を流し込んで、意を決して立ち上がる。

「よし。出かけるぞ」

 俺が突然立ち上がったことに驚いて、固まって目を丸くしたサヤと目が合う。

「はい、えと…いってらっしゃい…?」

「違う。一緒に出かけるんだよ。遊園地行くぞ」

 何を言っているのかわからない、とサヤの顔に書いてあったが、俺自身も自分が何を言っているのかわからなかった。わからなかったが、そうしなければいけない気がした。そうしたかった。ただ、それだけだった。

「さっさと食え。そんな格好で遊園地に行けないだろう。途中で適当に何か服買ってくぞ」

「いや、でも私…」

「言い訳は聞かない。早くしろ」

 子供相手には多少強引に言ったほうが良い、という持論を持っている。そして、その持論を昨晩の内に身をもって体感していたサヤは焦るようにして箸を進めた。

 早くしないといけない。家出した小学生の娘が一晩戻ってこないと、さすがに親なら探し回るだろう。そのうちに捜索願いも出るかもしれない。その場合、保護された際に虐待のことも明らかになってしまうため、実際に捜索願が出されるかは五分五分だが、どちらにせよ早いに越したことはない。

 サヤが朝食を平らげるのを待つ間、服屋に向かうまでサヤに着せておく服はどうしようかとタンスを漁ることにした。

 

 

 景色が右から左へ流れていく。最後に電車に乗ったのはいつだっただろうと思い出そうとして五年前まで記憶を遡ったところで、考えるのが面倒になってやめた。少なくとも、まだ俺の本が世間に求められていた頃は利用していたはずだ。出版社との打ち合わせを行わなくなってからは利用した覚えがない。普段あまり見ない景色に、無意識のうちに過ぎ去る風景をまじまじと眺めてしまう。

 それは隣にいる少女も同様なようで、深々とかぶった黒いキャップによってこちらからは表情は見えないが、その顔は窓がある正面をじっと見据えている。ベージュのカーディガンに包まれた小さな手は、俺の左腕を強く抱いた状態で頑なだった。平日の昼間ということもあって電車の中は人がまばらであったが、久しぶりの外出で緊張している様子であるのは明らかである。

 電車に乗る前に向かった駅前のショッピングモールでは、外出の緊張よりも気分の高揚が勝っていたようで、年齢相応にはしゃぐ姿を拝むことができた。服屋の前まで連れてきて「じゃあ」とコーヒーを飲みに行こうとして「え、選んでくださいよ」と言い、困惑する俺の気持ちをよそに大いに引っ張り回してくれた。

 正直、女性のファッションのことなんてよくわからない上に、それが子供服となると俺の対応可能な範疇をとうに超えていたが、そんなものはお構いなしだった。まるで自分自身が着せ替え人形であるかのように服を取り替えては俺に感想を求めてくるサヤに「ああ」とか「おお」とか反応しているうちに、白いシャツにベージュのカーディガンを羽織り、黒タイツにチェックのスカートを履くという出で立ちで落ち着いた。

 出来るだけ顔を隠す必要があるため適当な帽子を見繕ってレジに持っていこうとしたところで、我に帰った様子のサヤが突然遠慮するような態度を見せたため、無視して強引に会計を済ませた。子供が大人に遠慮するなんざ十年早い、と言ってやった。

 そうして買った服に着替えて電車に乗り、今に至る。

 駅に足を踏み入れてからずっと、俺の左腕はサヤ専用の手すりと化していた。

 あと二駅ほどで目的の駅に到着する。元々、遊園地というものにあまり馴染みがない上に、俺自身も目的の遊園地に行くのは初めてということもあって、少々緊張してきた。

 一度深呼吸してふと左を見ると、俺の腕を抱いたままのサヤの頭が舟を漕いでいた。昨夜は部屋の壁にもたれて寝ていたが、そんな体勢で満足に寝られるはずかないのだ。

 ため息をつきながらもせめて到着まではそっとしておこうと思い、窓の外に視線を戻す。登り切った太陽がわずかに沈み始めたところだった。

 

 

 遊園地の名前がそのまま駅名となっているだけあって、改札を出た眼前にはテーマパークへの入口がそびえ立っていた。頭上に広がっていたのはリボンを模したアーチ状の造形物で、看板の役割を果たしているらしく、遊園地の名前とともに”Welcome”の文字が並んでいた。所々に錆があるものの、赤や青に彩られたその造形は、まるでファンタジーの世界へ続くゲートのようだった。

 受付でチケットを買い、あまり慣れない経験に年甲斐もなく目を泳がせながらゲートを潜る。隣では、ダッコちゃん人形よろしく俺の腕にしがみついたまま同じようにキョロキョロと挙動不審に視線を動かすサヤがいた。もう少し年相応にはしゃいだりしても良さそうだと思ったが、恐らく彼女の脳内は只今渋滞中なのだろう。

 ゲートを抜けると、現実から遊離したような世界が広がっており、夢でも見ているのかと錯覚して、しばらく立ちすくんだ。色とりどりの造形、高くそびえるアトラクション、巨大な乗り物が右に左に揺さぶられている様に遠近感もおかしくなり、酒で酔っぱらった時の高揚に近いような感覚に陥った。時間にすると数秒だったかもしれない。我に帰り「行くか」と言うと、同じように惚けていたらしいサヤは口を半開きにしたままコクリとうなずき、夢遊病者のような足取りで、俺の手を引っ張って行った。

 そこからは時間が怒涛のように過ぎ去って行った。

 助走がわりに、ベタではあるがコーヒーカップに乗ったが運の尽き。徐々に景色が動き出し、中央に取り付けられた銀色のハンドルを回すようサヤに促したところ、ぐんぐんと加速してゆく様がどこかのツボに入ったらしく、心ここに在らずだった入園時の様子はカップの回転とともにどこかに飛んで行っていた。さらに数分後には俺の意識が飛びそうになっていた。

 コーヒーカップの回転でサヤのエンジンも回り出したらしく、次はあれ、次はこれ、とグロッキー寸前の俺の気などお構いなしに引っ張り回してくれた。コーヒーカップの件でなんとなく予想はしていたが、どうやらサヤは意外にも絶叫系が得意であるらしい。

 再挑戦を夢見ていた念願のジェットコースターに乗ったところいたく気に入り、結局三回乗る羽目になった。コーヒーカップの件でなんとなく気づいていたが、どうやら俺は絶叫系が苦手らしい。一回目で体力が半分ほど持っていかれたため辞退を申請したが、ウチのお嬢様からのお許しは出なかった。フラフラになりながらもなんとか耐え凌ぎ、ソフトクリームを使った餌付け作戦でどうにか休憩時間を稼ぐと、仕返しのためにお化け屋敷に向かった。

 年季が入っておどろおどろしさが付加されたように見える建物を前に強がりながらもやんわりと拒否の意思を主張するサヤを、俺は半ば引きずるようにして倒壊しかけた(ような見た目の)建物に入って行った。真っ暗で不気味な音が流れる建物内では、電車の中とは比にならないほどの強さで、ずっと背中にしがみつかれていた。お化け役の脅かしがあるたびの背中に顔を埋めたまま飛び跳ね、体重をかけてグイグイと俺は押されてあっという間に出口に到着していた。少々大人気なかったように思うが、正直言うとその時、俺はガラにもなくはしゃいでいた。童心に帰ったような気分だった。少し口を尖らせて涙目になっていたサヤに「ごめんごめん」と言って頭を撫でてやると、無言のまま腕を引っ張られ。もう一度ジェットコースターに乗せられた。

 

 一通りのアトラクションを制覇し、体力の残量が尽きかけの俺たちは、最後に観覧車に乗っていた。まもなく閉園時間、窓から見える夜景は控えめに、遠くまで広がっていた。この辺りは高い建物が少ないため、頂上ともなるとどこまででも遠くまで見渡せるような気になってくる。

「どうだった。遊園地は」

 少し眠そうな目をしたサヤは、少し口元を緩ませた。

「とても楽しかったです。こんな経験、二度とできないと思ってた」

 ちょっと鼻を擦ったサヤは窓の外を見て、

「ショウジさんのおかげです」

 と言った。

「驚いたな。名前、覚えていたのか」

「当たり前ですよ。そこまで馬鹿じゃありません」

 そっぽを向いたまま、口を尖らせる。どうやらこいつは照れると口を尖らせる癖があるらしい。顔が少し赤く見えたのは、観覧車を装飾している赤色LEDのせいだけではないはずだ。

「なあ。写真撮らないか。記念の、一緒の写真」

 顔を外に向けたままのサヤが、目線だけでチラリとこちらを見る。もっと慌てたり驚いたりするかと思ったのだが、意外な反応だった。

「…仕方ないなぁ」

 やけに棒読みな返事と共に立ち上がってそそくさと俺の隣に移動して来る。大根役者もいいところだ。

「写真撮るのなんて久しぶり」

 と言いながら手櫛で髪の毛を整える。

「別にそんな構えなくてもいいよ。俺も写真なんて普段撮らないし」

「女の子は写真写り気にするんですー」

 と言いながら腕に抱きついてくる。昼間の電車の中は良いとして、なんだか距離感が近くないだろうか。そう思いつつも、娘がいたらこんな感じなんだろうか、と普段味わえない感覚を楽しんでいる自分もいた。

 そうして写真を撮り、夢の国は終わりを迎えた。

 帰り道、夕飯は何が良いと言う問いかけに「ハンバーガーが食べたい」との返事を頂き、もう少し良いものを…と提案しても頑として譲る気配が感じられなかったため、せめてもと普段あまりいかないようなハンバーガーショップで食事を取った。サヤはハンバーガーを食べるのも幼少期以来だったらしく、口の端をケチャップで汚しながら黙々とかじりついていた。こういう夕飯もたまにはいいか、と自分を納得させポテトを口に放り込んだ。

 

 

 家に着く頃には体力が切れかけていて、足元がおぼつかなかった。一方でサヤは電車の中で少し寝たおかげで元気に鼻歌を歌う程度には体力を回復させたようで、軽快な足取りだった。俺は両手に当面の食料の入った買い物袋を下げていたことを考慮しても、子供の体力は恐ろしいと思った。

 玄関の鍵を開け、先に部屋に上がったサヤの後に続こうとした時、何やら頭上から騒がしい声が聞こえてきた。靴を脱いでフローリングに足を乗せたサヤの肩がビクリと跳ね、その体勢のまま固まる。ドアが開くような音がして、くぐもっていた声が明瞭に聞こえて来る。

「アホか!てめぇなにやってんだよ!」

 ドスを効かせたような荒々しい男の声。続いて女性の声も聞こえたが、か細く力ない声だったためなんと言っているのかは聞き取れなかった。

「ったく…サツに見つけられたら面倒なことになるだろうが…」

 荒々しい音を立てて、声の主が階段を降りてくる。金属の軋む耳障りな音が、頭の中を揺さぶってくるようだった。

 部屋に入ろうとしていた体勢から半歩下がりアパートの出口の方を覗き込むと、大柄でスキンヘッドの男が角を曲がっていくところだった。視線を戻すと身体を震わせたサヤが自分の身体を抱くようにして、身体を縮めて蹲っていた。

「…親父か?」

 返事はない。が、身体の震えに呼応する様に上下に動く頭が、肯定の意思を示しているように見えた。

「大丈夫だ。もういない。コンビニにでも行ったんだろう」

 玄関に買い物袋を置くと、サヤの肩に手を添えて立ち上がらせる。

「ほら。今日はもう寝よう。とりあえず着替えておいで」

 背中を押して、すぐ右手にある洗面室へと誘導する。浴室乾燥機で乾かした、昨日洗濯したスウェットを手渡した。洗面台から出て後ろ手で引き戸を閉めると、扉に寄りかかり脱力する。サヤがあんな半グレのような男と五年も暮らしていたのかと思うとゾッとした。俺としては五秒として一緒にいたくないタイプの人種だ。サヤのことはいずれ親元に返さなければならないとは考えていた。しかし、環境が悪すぎる。今の父親の姿をこの目で確認して、その思いがより一層増した。サヤのためを思った時にどうするのが正解なのか、俺にはわからなかった。

 

 十五分ほど経っただろうか、あまりにも遅いので一度様子を見に行こうかと考えていると、着替えを終えたサヤが洗面所から出て来た。

「ごめんなさい。突然のことだったからびっくりしちゃって」

 落ち着いた様子で、おずおずと出てきたその顔は少し恥ずかしそうに笑っていた。まだ少し震えている手元からは虚勢を張っているのが丸わかりだった。

「寝たら忘れる。今日はちゃんとベッド使え。文句を言うのは勝手だが俺は聞き流すからな」

 突っ立っているサヤを横から抱え上げ、狼狽る様子を無視してベッドの上に放り投げる。入れ替わりにベッドの上に畳んで置いておいた掛け布団を引きずり下ろしながら、電灯を消そうと紐に手を伸ばす。不意に、引っ張っていた布団が何かに引っかかるような感触があった。振り返ると、じっとこちらを見据えるサヤが布団の掴んで引っ張っている。

「ショウジさんのベッドなのに、ショウジさんが床に寝るのはおかしい。今朝は身体痛そうにしていたし」

 もっともな事を言われた。今朝の呻き声を聞かれていたのか。

「いいんだよ。お前を床に寝かせるわけにもいかないだろう」

「一緒に寝ればいいじゃないですか」

 とんでもない事を言われた。

 

 結局、押し問答が続いた末に俺が折れた。考えてみたら今日一日ずっとべったりだったのだから、今更なにを言っているのだという感じもする。

 電気の消えた室内を、カーテンの隙間から差し込む外灯の光が微かに照らしていた。

 途中で逃げ出さないようにというよくわからない理由で、俺は壁際に寝させられた。そんな俺はせめてもの足掻きで壁を向いて寝ることにした。

 どこか遠くで救急車のサイレンが鳴っているようだ。音が段々と遠ざかると、やがてまた静寂が訪れる。

 かなり疲れていてすぐ眠ることができると思ったのだが、寝る時間には少し早かった事と、隣に人がいるというイレギュラーな状況もあって全く眠れる気配がなかった。

 たまに微睡んできたかと思えば、寝返りだろうか、隣で時折動く人間の気配に意識が引き戻されてしまう。

 アナログ時計の秒針の音が、やけに大きく響いていた。

 また一度、ベッドの軋む音と共に、少しマットレスが沈み込んだ。

「…ショウジさん、起きていますか?」

 静かに囁くようなその声に、何かを探るような意図を感じた。

 俺は返事をしなかった。俺は寝ているのだ、と背中で主張する。

 そう主張している背中に、温かいものを感じた。続いて脇腹のあたりに何かが滑り込んでくる。目線だけで下をチラリと見ると、腕だった。その手は俺のシャツを力強く握っていた。

 背中に熱い吐息がかかるのを感じる、その部分だけ湿度が上がっているようだった。

 時計の針の音はもう聞こえていなかった。代わりに静かにすすり泣く声が、背中を通じて響いてきた。

 

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