一日目

 床に脱ぎ捨てられた衣類を手に取る。水気を吸って重くなったグレーのスウェットは、かなり使い込まれているのか、所々にある糸のほつれ目立った。

 手にした衣類を洗濯機に放り込む。同じように水を吸って重たくなった、先ほどまで俺が着ていた衣類も一緒に放り込むと、蓋を閉じてボタンを操作する。徐々に早くなっていくモーター音に次第に異音が混じり始めるが、この洗濯機は俺が入居当初からある備え付けのものであるから仕方ない。そろそろ寿命だろう。

 背後にある風呂場から床を叩くシャワーの水音がする。中に人がいて使用されている状態というのを客観的に見たのは初めてで、なんだか不思議な感覚だった。その異常な光景の中にある曇りガラスには、不自然に細く、小さな人影が映っていた。

 ワンルームの部屋に戻り、ベッドに身体を投げ出す。なんなんだこの状況は、と思わず呟く。

 いつものようにパチンコで金を溶かして、帰り道に酒を買い、家に着く頃にはいい感じに酔いが回ってそのままベッドに倒れ込む、そうなるはずだった。

 しかし今日は運悪く帰り道で雨が降ってしまい、全身ずぶ濡れで身体が冷え切ってしまったが故に酔いの回りが不十分で、意識がはっきりしていた。そのせいであんなものを見つけてしまったんだ。



 ゴミ袋に埋もれるようにうずくまる、少女。

 丸めた背中に貼り付いたグレーのスウェットは、水分を含んでアスファルトのような色に変色していた。深くうな垂れた頭部からは黒々とした髪の毛が海藻のように垂れ下がり、先端からはとめどなく水滴が滴っていた。

 面倒ごとは真っ平だ、という感想が真っ先に頭に浮かんだ。

 なぜこんなところにいるのか。迷子か、虐待の類か。何にせよ、関わったらロクな事がないのはわかりきっていた。幸いにも、ここは住宅街のど真ん中だ。親切で温かい家庭を持つ女の人や、一人暮らしで暇を持て余した婆さんあたりが声をかけるだろう。俺みたいな無精髭を生やした怪しげな男が声をかけたら、問答無用で誘拐未遂犯だ。下手に触らないのが吉である。

 目を合わせないようにして歩を進める。うずくまる少女の足元を通り過ぎると、微かに漂う生ゴミの腐った臭いが鼻に残った。不快感がこみ上げて来る。それが悪臭に対してなのか、それ以外の何かに対してなのかはわからなかった。

 歩を止めて顔を上げる。日は完全に落ちていた。外灯が放つ光は心許なく、影を落とした郵便ポストが静かに俺を責めているかのようだった。アパートの隣のコンビニエンスストアから漏れる煌々とした明かりが無人の駐車場を無情に照らしていた。十月末の雨降る夜。辺りには人はいない。

 俺の脚は、コンクリートに根を生やしたように動くことを拒否していた。それを無理やり引きずって身体を反転させる。自分の脚ではなく、何か鉛の塊をぶら下げているように感じた。

 どうせ俺の人生は既に終わっている。いまさら児童誘拐を疑われ警察の世話になろうとも、失うものはほとんど何もない。そう自分に言い聞かせなければ動くことすらできない、情けない男だった。

 おい、と声を出そうとして空気の抜けるような音が出た。人と関わらないように生きてきたため、声を出すのは久しぶりだった。最後に会話をしたのはいつだっただろう。

 足元に影が落ちたのを感じて、うな垂れていた少女が顔を上げる。二重の瞳が上目遣いで俺を見上げていた。瞳の奥は、漆黒に澱んでいた。

「なにをしている」

 言ってしまってから、もう少し何か気の利いた言い方はなかったのかと早くも後悔の念がこみ上げてきたが、どうにでもなれと蓋をすることにした。

 少しだけ、少女の目が大きく見開かれた。目線を逸らし、視線を左右に彷徨わせる。

 流石にこの距離で聞こえていないフリは無理があるだろう。

「聞こえないのか。お前だよ。グレーのスウェットを着てずぶ濡れになっている、オマエ」

 少女は自分の爪先の辺りに視線を戻し、じっと動かない。

 いい加減寒くなってきた。いくら自分に対して無頓着な俺でも我慢の限界がある。

 もう放っておいて部屋に入ろうかと思っていると、少女が膝を抱えている腕にキュッと力を込めて、静かに口を開いた。

「なにも…」

 蚊の鳴くように小さく、かすれた声。その声は心なしか震えていた。

「なにも…していない」

 そうかい。と言って危うく部屋に引っ込むところだった。

 わかっている。ここで引っ込んで、温かいシャワーを浴びて、電子レンジでチンした冷凍パスタかなんかを食いながらテレビを見て、布団に潜って温まりながら眠ろうとしたところで、頭のどこかでコイツのことが気になってしょうがない状態になるんだ。俺は小心者だから。そうなるのが嫌だから関わらないでおこうとしたのだ。声をかけてしまった時点で、俺の負けなのだ。コイツをどうにかしないことには、俺に安息は訪れない。

「とりあえず、ウチに来い。風邪をひく。俺が」

 えっ、という狼狽えたような声が聞こえたような気がしたが、無視をして踵を返す。

 ゴミ収集スペースを曲がった所にアパートがある。左側には一階の部屋の扉が五つ並んでおり、右側には二階に登るための階段がある。二階にも同じだけの数の部屋があるはずだ。

 俺の部屋は一階の、一番奥。目立たないところにあって、住人と顔を合わせるのが鬱陶しい俺にとっては住みやすい位置だった。

 体重をかけるたびにグジュグジュと水の染み出す足元を不快に思いながらも、いつもより気持ちゆっくりとした速さで部屋へと向かう。後ろから泥を踏みしめる音が聞こえるため、一応ついて来てはいるようだ。

 ポケットから鍵を取り出し、若干錆ついて茶色くなった鍵穴へと差し込む。滑らかには入っていかず、鍵を縦に横にわずかに振動させながら、ようやく奥まで差し込んだ。そのうち鍵が入らなくなって締め出されそうな気がするが、その時はその時で考えようと思い、特に修理出そうとは考えていない。

 鍵を開けてドアを開いた。振り返ると少女は、ちゃんとそこにいた。三メートルほど離れた位置で、ズボンの裾を握りしめて背中を丸めている。

 こうして立った状態でまじまじと見ると、想像以上に細く、小さかった。八歳か九歳くらいだろうか。この高カロリー時代に、少女は病的なまでに痩せていた。

「入っていいぞ」

 そう言わないと、恐らく少女は永遠にこの部屋に入ろうとしない気がした。自分のテリトリーと相手のテリトリー、それを遵守するタイプに感じた。他人とは一定の距離を保ち、壁を作るタイプ。過去に会って来た、そういうタイプの人間と細かな動作や仕草が似ているように感じた。

 いそいそと少女が部屋へと上がる。

 少女が入ったことを確認すると俺も後に続き、洗面所から適当なタオルを取って自分の頭を拭いた。

「とりあえず風邪引くからシャワー浴びてきたらいい。服洗っとくから、脱いだらその辺に置いといて」

 少女は借りて来た猫のように身体を縮こまらせていた。辺りを右に左に見回すと、最小限の動きで静かに、無言で洗面所に引っ込んでいく。

 引き戸の閉まる音が控えめに聞こえ、続いて訪れる静寂。心臓の鼓動がやけに大きく響いて耳に届いていた。心臓を激しく脈打たせることで、小心者の俺でもなけなしの見栄を生み出していたようだ。そんな事ができるとは、二十数年生きてきて初めて知った。

 水に濡れて重くなった服とズボンを脱ぎ捨てると、ベットの上に座り込み、頭を抱えて大きくため息をついた。

 

 

 慣れないことが重なり知らぬうちに疲れていたのか、ベッドに倒れ込んだまま微睡んでいたところに風呂場の扉の開く音がした。ヒタヒタという足音が近づいてくる。

 重い身体を無理やり起こすと、黄色いタオルを巻いて突っ立っている少女がいた。身体を縮めるように身体の前で両手を握りしめ、足元に視線を彷徨わせている。

 時間にして数秒、少女のことを見ていたようだ。ハッとして立ち上がり、少女の横を抜けて洗面所に向かう。

「洗濯機の上の着替えを置いておいただろう」

 着古したシャツとスウェットのズボン。下着はどうにもならなかったので隣のコンビニで買ってきた。

「それ着て良かったんですか」

「じゃなきゃこんなとこに置いておかないわ」

 洗面所から顔を出すと少女の小さい背中が見えた。一瞬ギョッとしたが、目を逸らしながら着替えを投げ渡すと、バサリと少女の足元に落ちる音がした。

 引き戸を閉める。洗濯機は脱水モードに入っていて、激しく回転するモーター音が響いていた。耳の奥でザワザワと音がする。頭の中では不快な感情が渦巻いていた。少女の腕は病的なまでに白く、その肌に似つかわしくないほど青黒いものが、対比するように所々に浮かんでいた。二の腕にはミミズが這うように、いくつか真新しい傷がついていた。タオルの上から覗く小さな背中には、紫色に変色した、三角形の痕が、少なくとも見える範囲で二つあった。何をすればそのような形の痕が背中にできるのかは、考えたくもなかった。

 俺はすでに停止していた洗濯機にもたれ、吐き気を堪えるのでやっとだった。

 

 

 バスタオルで髪の毛を拭いながら洗面所を出ると、部屋の隅、テレビ台との間に少女は座り込んでいた。膝を抱えて限界まで身体をコンパクトにして身動ぎひとつしない。寝てしまったのかと思ったが、俯いて垂れる髪の毛から覗く目は、まっすぐ足の先を見つめていた。意識的か無意識にかはわからないが、自分の存在を消そうとしているように感じた。声をかけようか迷ったが、こんな状態で話しをしようとしたところで無視をされるかあしらわれるのが関の山だろう。

 湯を沸かし、大量に買い置きしていたカップ麺を棚から取り出す。チラチラと様子を伺っていたが、その間少女はピクリとも動かなかった。

 お湯を入れた容器を二つ、箸を二膳、ワンルームに置かれたベッドのそばにある、テーブルの上に置いた。

「とりあえず食えよ。何も食ってないんだろう」

 ベッドに腰掛け、自分の分のカップ麺の蓋を開ける。少女はチラリとこちらを見たが、強がるかのようにそっぽを向く。しかし目線がチラチラとカップ麺の方に言っているのは丸わかりだった。

 世話が焼ける。もう一つの容器の蓋を取り去るとその上に箸を一膳おいて、少女の方に押しやった。

 スパイスの匂いが部屋に広がった。味の好みがわからなかったため、子供はだいたい好きだろうという偏った俺の考えのもと、カレーをチョイスした。その選択は正しかったと思う。

 俺のやれることはやった。麺が伸びてしまわぬ内に、自分の麺をすすり始める。

 少しの間強がっていた少女だったが、しばらくするとどこからか敗北を知らせるかのような腹の音が聞こえてきた。チラリとその方向を見ると、膝を抱える腕に力が入り、肩を竦めて顔を膝にうずめていた。やがて膝を抱えた体勢のままズリズリとテーブルの側まで身体を引きずってくると、「いただきます」という消え入るような声が聞こえて容器の上に置かれた箸を手に取る。

 始め少女は二、三本ずつツルツルと麺を啜っていたが。やがてズルズルと勢いよく麺をすすり始めた。気づくと、その瞳から水滴がボロボロと容器の中に落ち、両方の鼻からも水も垂らしていた。やれやれ、とティッシュペーパーを二枚ほど引き抜くと今にも落ちていきそうな鼻水を拭ってやる。そんなこともお構いなしに、一心不乱に麺を啜っていた。

 声をかけてからずっと張っていた肩の張りが幾分かマシになっているように見えた。

「お前、名前は?」

 ピクリと肩を震わせ、つるりと控えめに麺を啜った。木の実を詰め込んだリスのような顔で、赤くなった目を上目遣いにこちらをじっと見ていた。

「俺はショウジ。神沢ショウジ。神沢でもショウジでも好きなように呼んでくれ。で、お前の名前は?」

 少女の口の中身はすでに無くなっていたが、一度ゴクリと唾を飲み込むと、薄く口を開いた。

「河部…サヤ…です」

「なるほど、サヤちゃんね」

 互いの名前を知るのは大事だ。自分の名前を開示することで敵意がないことを示す事ができる。相手にとっても、パーソナルデータを明かすことで、その相手に心を開いていくきっかけになる。

 そこからポツポツと、少女は自分のことを話し出した。

 

 河部サヤ、十一歳。年齢の割に異様に小柄な少女は、同じマンションの二階に住んでいるらしい。両親と三人暮らし。ただし父親は、実の父親ではなかった。彼女が五歳の時に、実の父親とは死別した。細かい馴れ初めなどは彼女は知るよしもなかったが、死別してから半年ほどして今の父親が家に出入りするようになり、さらにその半年後には一緒に住むようになった。

 家に出入りするようになった当時は、その男は大変に優しかったらしい。家に来る時には必ずケーキを持ってきてくれて、ニコニコと微笑みながら話しかけてきたりしていた。しかし、実の父親が亡くなって間も無い状態で心の整理がついていなかったサヤは、その突然やってきた見知らぬ男にどう接したらいいかわからず、心を開くことができなかった。そうしている内に、母の「これからはこの人がお父さんよ」という言葉とともに、男は家に住み始めた。恐らく、父親のいない寂しさを感じて欲しくないという母親の思いで、結婚を急いだのだと思う。しかし、それが間違いだった。

 その日から男の態度が一変した。

 酒癖が悪く、酔うと手にしたコップやリモコンを投げつけてきた。気に入らない事があると、殴る蹴るも日常だった。最初は暴力の対象は母親が中心で、サヤに対してはせいぜい物を投げつけてくる程度だった。しかし、暴力の対象が彼女の方へシフトしていくには、そんなに時間は掛からなかったらしい。

 男が家に住み始めて一年後。既にこの頃にはサヤの身体中はアザだらけで、年中長袖の服を着ていた。最初は娘を庇っていた母親も、庇う事で暴力が過激になるのと、矛先が自分にも向く事を恐れ、その頃には見ないフリに徹していた。サヤが殴られ、蹴られ、なじられている間、母親は部屋の隅で耳を塞ぎ、俯いて震えていたそうだ。

 男の暴力はだんだんとエスカレートしていった。

 ある日、男が投げたガラスのコップがサヤの右目を直撃した。幸いにも視力に影響はでなかったが、コップの当たった部分には青痣ができていた。それまで男は服を着ても隠す事ができない、顔面や手は避けて暴力を振るってきた。アザができてしまっては虐待している事が周りに知られてしまう。アザが治るまで、サヤは学校を休まさせられた。

 これがきっかけだったんだと思う。それまで男には「虐待が知られてはまずい」というなけなしの理性が残っていたが、その一件で「何かあったら学校を休ませればいいんだ」という事がわかり、そのなけなしの理性すら霧散した。

 その日から、サヤへの虐待はさらに酷いものとなっていった。

 タバコを腕に押し付けられる事もあった。ボールペンで太腿を何度も突かれた。虫の居処が悪い時は、殴られて泣いているとさらに興奮し、熱したアイロンを背中に押し当てられた事も、一度や二度ではなかった。

 相変わらず顔や手は出来るだけ避けるようにしていたようだったが、それでも勢い余って見える位置に傷ができてしまった時は学校を休んだ。傷が治ると学校に行き、その内にまた傷ができると学校を休む。段々と学校を休む間隔が短くなっていき、そしてとうとう学校に行かなくなった。最初のうちは先生が家庭訪問に来ていたが、部屋から出たくないというサヤの態度に(無論、それも男の命令によるものだったわけだが)先生も徐々に訪れなくなった。

 サヤが学校に行く必要がなくなると、もう男を縛るものはなかった。

 カッターで腕の皮膚を切りつけられた。指をホッチキスで留められた。爪を剥がされた。ペンチで歯を抜かれた。鼻頭を拳で殴られ鼻血が止まらなくなった事もあった。ゴルフクラブで脚を殴られた時は見たことのない色に変色し腫れ上がったが、骨折までには至らなかったようで、放置されて、そのうち治った。

 母親は、そんな蹂躙されている娘を、遠い目をして眺めていたそうだ。

 

 そこまで話すと、彼女は口を閉ざし、また麺をすすり始めた。その目には何の感情も浮かんでいなかった。まるで、遠い国の見知らぬ子供がこんな目にあっているんですよ、とでも言っているかのような、他人事であるかのよな言い草に、俺は言葉を失った。今の話は日本で起きた事なのか。それどころか、俺が彼女と出会うまで、進行形で行われていた所業だというのか。

 先程の話を思い出して彼女の手元を見ると、その指先にある爪は全て歪な形をしていた。

 

 

「もう寝るぞ」

 クローゼットから冬用の布団を引っ張り出しながら言う。少し時期としては早いが、予備の布団がないため仕方がない。

「俺は床で寝るからベッド使っていいよ」

 電気を消そうと手を伸ばすが、サヤはすでに定位置と化している、部屋の隅の壁にもたれたまま動こうとしない。

「サヤちゃん?」

「ここでいいです」

 身体を小さく縮めた。首を傾けて頭を壁に預ける。

「この方が慣れているので、このままでいいです」

 一瞬、蛍光灯の唸りが部屋を支配した。この子は一体、どんな環境で生活していたのか。眠る時ですら、安息の時間はなかったというのか。今も俺の頭上でのうのうと酒を飲んでいるであろう男のことを思うと怒りがこみ上げてきた。

 クローゼットから出したばかりの布団を彼女に押し付ける。

「気が向いたら、ベッド使っていいからな」

 それだけいうと、少し迷って静かにサヤの頭に手を乗せた。彼女はピクリと肩を震わせる。

 電気を消すと、ベッドから掛け布団を引っ張り下ろして、ベットの脇の床に横になった。

 電気が消える瞬間にちらりと見えた、驚きにわずかに見開かれたサヤの瞳を、俺は気づかなかったことにした。

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