五日間の夢の跡

乙乃詢

プロローグ

 目の前で穴へと吸い込まれていく鉄球を眺める。鮮やかに光るLEDの光が、焦点の合わない俺の瞳をぼんやりと照らす。現実から目を背けるかのように目蓋を閉じ暗闇へと逃避するが、今俺が持つのはこの堕落しきったどうにもならない現実だけであることを思い出し、鉄球を眺める作業に戻る。無心で紙幣を挿し入れ、機械が無感情にそれを飲み込んでいく。周囲の騒音に対して俺の聴覚はとうの昔に麻痺していた。

 実家で飼い犬に餌を与えていた時を思い出す。もう名前も忘れてしまった、どこにでもいるような雑種犬。アイツは俺のことを飼い主として見ていなかった。父と母、妹にはとても懐いていて尻尾をブンブンと振りながら擦り寄っていたが、俺が名前を読んだ時はまるで見向きもしなかった。餌をチラつかせた時だけ、のそのそと近寄ってきてモソモソと食べて、また母の元へと戻っていく。その間も、こちらをチラリとも見ず、いつしか俺もただ作業のように餌を差し出す機械のようになっていた。餌を食べ終わったあとの「用は済んだ」とばかりに背を向けて去っていくソイツを見ていると、おそらく俺のことは勝手に餌を出してくれる自動販売機的な何かだと認識しているのではないかと思ってしまう。ソイツの中では、俺のことはソイツ自身も含めたカーストの中で最下位に位置付けられているだろうことは間違いない。

 

 昔から勉強はできた。

 小学生の時はたいした勉強をせずとも大体の教科でほぼ満点を取れていたし、中学、高校でも学年上位十人には入る程度の学力は持っていた。

 運動も人並みにはできたが、運動系の部活に入ることはなかった。体育会系特有の、あの独特のノリが得意ではなかったのだ。

 その代わりというわけではないが、高校では文芸部だった。文芸部とは名ばかりでほとんど活動を行わないような、幽霊部員ならぬ幽霊部活だった。その高校は、生徒は必ずどこかしらの部活に所属しなければならないという謎のルールがあったため、俺のようなどこの部活にも興味がなく、人付き合いも苦手な人間の隠蓑には最適だった。俺と同じような人種の人間が、他に五人ほどいた。無論、顔は一度も見たことがなかった。

 高校三年生の時、部の活動として小説を書くこととなった。これまでたいした活動もなく名前だけの部として存続していたのだが、部の顧問が変わり、何かひとつくらいは部としての活動実績が欲しいということで、一方的に決められた。

 これが、俺にとって人生の分岐点だった。

 俺がこのときに書いた話は、どこにでもあるような設定の、なんの変哲もない内容のファンタジー小説だった。しかし、それがなぜかコンクールで入賞してしまった。おそらく、昔から何事も無難にこなしてしまう性格が功を奏したのか、知らないうちに読みやすく人の心にスッと入っていくような内容になっていたのかもしれない。

 ともかく俺は、コンクールの入賞をきっかけに自分には小説家の才能があるという勘違いを犯してしまったのだ。

 高校を卒業後、大学には進学せずにアルバイトで生計を立てながら小説を書いていた。昔から暇なときにはよく物語を空想していたため、ネタには困らなかった。とくに趣味もなく、アルバイトをしているとき以外は常に小説を書いていた。あらゆる出版社のコンテストに応募するも全く引っ掛からなかったが、出版社はまだ俺の才能に気づいていないだけだ、と根拠のない自信に溢れていた。そんな時、一本の作品が某有名出版社の新人賞を受賞した。二十歳の時のことだった。

 

 処女作はとてつもないヒットだった。続々と重版され、文庫化もされた。同じ時期に実写映画化もされ、その時期に旬だった有名俳優が主演を務めた。日本中が続編を心待ちにした。当時続けていたコンビニのアルバイトも辞め、執筆に専念することにした。

 しかし、以降の作品は全くヒットしなかった。実写映画化された翌年に続編を発表するも、前作の爆発的ヒットが嘘であるかのように、全く売れなかった。その後も趣向を変えジャンルを変え、いくつか作品を買いたものの、発行部数はどんどん落ちていき、とうとうプロットすら通らなくなった。その頃には編集も俺の作品に大した期待を持っていなかったということは俺の目から見ても明らかだったし、だんだんと原稿を催促されることもなくなった。

 

 俺は腐っていた。今では執筆活動は一切行っておらず、パチンコで金を溶かし、帰り道のコンビニで買った酒をあおりながら帰宅する。それだけだった。なにもやる気が起きなかった。朝起きて、飯を食って、寝るだけ。生活費や食料は実家からの仕送りがあり、親のすねをかじりながら生きている。今まさにこの時、自分と同世代の人間がバリバリと働いて、家庭を持って幸せな生活を送っているという事実から目を背けるため、今日も無心になって流れていく銀色の玉を眺める。

 店を出ると、外はすでに薄暗かった。まもなく日が落ちる時間のはずだが、排ガスのような雲が空一面を覆っており、太陽がどの位置にあるのかさっぱりわからない。

 帰り道、いつものようにコンビニで酒を買い、歩きながら酒をあおっていると、ぱらぱらと雨が降ってきた。雨は嫌いではない。薄暗く、ひんやりと冷たい世界に全身が包み込まれると、こんなどうしようもない自分でも世界は受け入れてくれているような気分になり、全身に染み込む雨粒が心地よく感じる。

 雨はどんどんと強くなり、身につけた衣類はたっぷりと水を吸って重くなっていた。芯まで冷えた身体を引きずるように歩いていると、見慣れたアパートが見えて来た。十八歳で実家を出て移り住んできてから八年が経とうとしている。当時は希望に満ち溢れていたが、今では満ちた希望も干からびてしまった。渇いて底の方に残った下らない意地だけが、俺をアパートに縛り付けていた。

 今日は日曜日のため、アパート前のゴミ収集スペースには翌日回収されるゴミ袋がいくつも積み上がっている。

 アパートに近づくにつれて、そのスペースに何かゴミ袋以外のものが置かれているのが見えて来た。三メートルほどまで近づいたときにようやく気づいた。それはどうやら人影らしい。


 膝を抱えて座る、全身ずぶ濡れの少女だった。

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