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女がけだものに喰われた現場は郊外に建つ何の変哲もない平屋だった。車は最寄りのパーキングに停めて酒の入ったコンビニ袋をぶら下げて歩いた。
「そういえば公園の防犯カメラには映ってたそうですよ、喰われる瞬間」
ゴシック体のKEEP OUTと近隣住民の視線に怯える俺を尻目に合鍵でするりと現場に侵入した鹿波は意地悪く言った。
「じゃあ警察は件のけだものの正体は分かってるのか?」
俺は報道されていない情報を鹿波が開陳するのに驚きもせず言った。
「いやいや見えないんです。警察は暗くて画質が悪いから判別不能ということにしてるらしいけどね。言い方は変だけど、はっきり映ってましたよ。透明な怪物が防犯カメラの前で仕事帰りの若い女をむさぼり喰うところが」
脱いだ靴を再び履きかけたが、俺の腕は鹿波にレスラー並の馬鹿力で固定されていた。
「幽霊が視えるなら透明の怪物も視えるだろって魂胆か?」
役立たずのセキュリティシステムが俺の中でウンウンと黙示録のラッパのごとく警報を吹き鳴らし始めた。
「虎は平気だけど見えない怪物はダメってどういう脳ミソしてんスか? 一回カチ割って中見たいな」
俺も俺のキテレツな脳ミソがどうなっているのか気になるが、分かるのはバグっているということだけだ。
アルコールがどこにどう作用するのか不明だが、酒精に濁った脳裏のスクリーンは視えないはずの諸々を勝手に映し出す。時として俺に気づいた連中は俺に話しかけてくる。世の中に視えないものが闊歩していて、そいつらは人々の隣に気づかぬうちに忍び寄っていたりすることを俺は知っている。
感触はないのに体中を蟻が這いまわっているような恐怖に耐えるために俺は酒を呑んで誤魔化す。そうすると俺の体表を蟻が這いまわっていることに気づく。あとはもう気を失うまで酒を呑むしかない。
俺はアル中のボンクラとして軽蔑される。だが、俺から見れば世の中の人間どもは自分で自分のことを理解していて、しかも自分の行動を適切にコントロールできると思い込んでいる狂人の群れだ。
「知るか。俺が見てえよ」
もしバケモンがいるとしたらとっくに喰われているだろうと高を括り、生活感のない洋室に置かれたマットの無いベッドに大の字に寝転がった。ベッドと床は痩せこけた俺の体重にすら耐えかねて悲鳴のような軋み声をあげた。
部屋に入った時から気づいてはいたが、ちょうどベッドの真上の天井には巨大な絵画が据えつけられていた。裸身に毛皮を羽織った女性が軽くひねった腰に手を当ててこちらを射すくめている。
「毛皮を着た女だ」
「下手くそな絵ですね」
天井をさす俺の指を視線で追った鹿波が答えた。
「そうなのか? 結構上手いように見えるが、誰の絵だろう」
「いや、素人が描いたものでしょ。先輩は美術の素養がないですからね。せいぜいが美大卒だけど、特に芽も出なかった画家もどきの作じゃないですか」
美術の素養がないと言われてむっとしたが、事実なので黙っていた。下手なのかも知れないが、絵画の女の挑発的な視線は下半身を熱くさせる何かがあった。
黙っていると鹿波がウィスキーを並々とついだ紙コップを渡してくる。
「変な絵があるだけのただの空き家だろ」
紙コップを強く握ると酒がこぼれてジーンズの上に染みを作った。
「じゃあ、さっさと呑んでくださいよ。ビビッてんすか?」
「ビビッてはないが、嫌な気がする」
「それはビビッてるっていうんですよ」
うるせえと聞こえない程度に口にしながら、ウィスキーをあおった。喉がヒリヒリと焼け、胃が瞬時にカッと燃え上がる。味や香りよりも、この焦げつきがたまらなかった。
俺は黙ったまま、コップの中身をぐいぐいと呑み干した。
「毎度、親の仇みたいに呑みますね」
四十度近い酒をコップ一杯一気に飲めば、俺がいくらアルコールに強いといっても酔いがまわるのは早い。まわるというよりもこん棒で殴られるのに近い。こめかみにフックを喰らうようなものだ。
「うおー!」
「うるせえな、この馬鹿。呑むとやけくそのテンションになるんだから」
ショック症状で涙がボロボロとこぼれ、胃の中身が逆流してくる。俺はクソを垂れるときのように踏ん張って食道を締めた。敗北した吐しゃ物は重力に負けて引き戻されていった。
俺は立ち上がった。目が充血しているのか、部屋の中が真っ赤に見える。赤い壁紙の部屋がメリーゴーラウンドのように回転し始める。いや、これはコーヒーカップだな。そんなものとは二十年来ご無沙汰だが。
「お前、回転してるぞ」
回転していない鹿波に俺は言った。回転していないが、回転しているのが分かった。何故なら回転しているから。
「回転してるのは先輩の腐れ脳みそですが」
鹿波が回転しながら言う。俺はゲッタゲッタ笑った。
紙コップを突き出すと、鹿波が酌をした。容赦なく注ぎやがる。
俺は視界が真っ赤なのも、部屋が回転しているのも気にせず、酒を喰らった。
怖くなんてねえぞ。
立ち上がってその場から動かずにダッシュする。
「気でも狂ったんですか? というか悪化した?」
俺は首を横にぶんぶん振りながら走った。
「飲酒は短距離走だ。健康的な運動が、酒を素早くまわらせる」
「近所迷惑だからドタバタすんじゃねえよ」
鹿波のドスを利かせた一喝で、俺はすごすごと走るのをやめた。飲酒に関する持論を一席打とうと思ったが、前に同じ話をしたかも知れないと気づいて喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。同じ話をするやつはつまらん。
床に落っこちたつまみのローストビーフを拾って口に運ぶ。
「これ、味がしねえな」
もっちゅもっちゅと口を動かしながら俺は言った。
「皮が噛みきれねえ」
酒を飲むと味が分からなくなる。
「そりゃ味なんてしねえでしょ。あんた空気喰ってるよ」
俺は口の中身を手のひらに吐き出して酒精に濁った眼でよく観察した。そもそもつまみなど買っていない。
皮のついた生肉だった。皮にはほんのりと産毛が生えている。
きゃあと女子のような悲鳴がまろびでた。
紙コップを床に投げ捨てて、自分の喉に指を突っ込むが、汗のしょっぱい味がするだけで先ほどまで襲っていた吐き気は欠片もよみがえってこなかった。
「あーあー、散らかして。帰りに掃除してくださいよ」
俺の眼が充血しているわけではなく、部屋は本当に真っ赤だった。回転はいつの間にか止まっていた。室内には肉片が飛び散っている。
俺はがたがた震えながら鹿波に抱き着いた。
「だからとち狂ってんじゃねえ!」
キレた鹿波の肘が鍛えられない腋下の急所に入る。
俺は引きはがされたが、鹿波の腕をつかんだまま、顎を振って部屋をよく見るよう促した。言葉は喉で交通渋滞を引き起こしていた。
「……なるほどね。これはひどいわ」
俺が触れていれば、他人にもこの光景が視えるらしい。
「手を、握っててもいいか?」
返事は掌底のかたちで鼻に直撃し、俺はふらふらと引き下がった。
「金払うんだから一人でやれ」
涙目になった俺に、鹿波がウィスキーを瓶ごと押しつけた。
ラッパ呑みで酒をかっ喰らいながら、俺は赤い部屋をにらみつけた。来るなら来やがれ。やっぱ来なくてもいいが。
身体と精神の震えを止めてくれるのはアルコールだけだった。酒がすべてだ。
肉片がチューボー時代の生物の実験で電気を流した死んだカエルの脚のようにびくびくと痙攣した。それぞれが一つの生き物のようにうぞうぞとうごめいて床を這い進んだ。
俺の喉がひゅっと音を立てて、手がベッドの隣に腰かけていた鹿波に伸びたが、ヤツは俺から十分に距離を取っていたので手は空を切った。
スローモーの逆再生で飛び散った肉片が一か所に集まり、こんもりと山を作る。それが垂直に伸びあがる。滴れ落ちた水滴の逆回しに似ている。
裸の女だった。さいわい顔はボコボコに殴られて腫れ上がっており、目が合う心配はなかった。しかし、俺は横の鹿波を見た。ヤツはニコニコしながら下手くそな鼻歌なのか鼻息なのか分からんものをすうすう鳴らしていた。
諦めて視線を戻すと、裸の女は服を着た裸の女になっていた。服はところどころがほつれたワンピースで、血にまみれていた。
女が卒中にでもなったように予備動作なく前のめりに倒れた。ジャガイモのような顔がぐいと持ち上がり、四つん這いになった女がゴキブリじみた高速移動で俺の足元に迫った。
「女ァ!」
語彙の破壊された叫び声をあげ、俺は逃げようとしたが、身体はぴくりとも動かなかった。
俺の脳の七割は恐怖で占められており、残り三割は小便を漏らすところを鹿波に見られたら恥ずかしくて生きていけないと思って膀胱を制するのに注力していた。
のけぞって大股開きになった俺の脚の間をくぐって、ズタボロの女はベッドの下に潜り込んだ。
「下、下!」
俺は自分の股の間を指して言った。
はーん、と鹿波は息を漏らして俺をベッドから蹴り転がした。俺の頭は庭に面したガラス戸にぶち当たったが、アルコールのせいで痛みは感じなかった。
ヤツはベッドを玄関の方へ引きずった。細腕のどこにそんな力が秘められているのか。
俺は怒るのも忘れて尻を床につけたまま反対の壁際ににじり寄って目を閉じていたが、鹿波に頬をひっぱたかれて目を開けた。
ベッドの下には何もなかった。
俺は急に立ち上がって胸を張ったが、酒のせいで足元がふらついていた。
二人でベッドのあった場所を見ると、俺の眼には赤い手形が一つ、床に貼りついているのが分かった。
殴るなよ、と前置きして鹿波の腕を握った。少々強すぎたせいでヤツは目の色を変えたが、手形が視えると気にしないことに決めてくれたようだった。
腰の引けた俺をしり目に、ずんずんと進んだ鹿波は、赤い手形を思いきり踏みつけた。
がたっと音がして、フローリングの板が一か所浮き上がった。
「行け」
「俺?」
「いいから行け」
おっかなびっくりしゃがんで、俺は外れた板を取り除けた。その下には取っ手が隠されていた。
嫌だったが、あまり怖がっているとダサいなと思って、勢いよく取っ手を引いた。
目の前の床が跳ね上がって、俺の顎にアッパーカットをお見舞いした。眼球に線香花火が押しつけられてぱちぱち光った。のけぞった後、痛みで前のめりに戻った俺は開いた穴に転げ落ちていった。この時ばかりは酔いも痛みを緩和してはくれなかった。
暗闇が俺に地獄車を喰らわせて、階段の段それぞれに叩きつけた。締めはコンクリの床で、そこで俺の意識も闇に飲み込まれた。
夢をみていた。椅子に縛りつけられている。つんと臭いが鼻をついた。誰かが俺に灯油をぶっかけている。まさか火をつけるつもりか?
「バカ、やめろ! 死ぬだろ!」
俺が目を覚ますと、二階から目薬を差すように、鹿波が立ったままコンクリに寝転んだ俺の顔にウィスキーを垂らしていた。酒精が眼球を焼いて、俺は悲鳴にならない声をあげた。
俺が慌てるのが面白いらしく、満面の笑みを浮かべている。俺よりヤツの方が頭がおかしい。
「なんで酒なんだよ、ミネラルウォーターあっただろ」
「あれはわたしの分なので」
「……俺のチェイサーだと思ってた」
だとしても酒はないだろ。膝に頭をのせて、唇を水で湿らせるとか、そういうなんかもっとあるだろ。
「マジで死ぬとこだったんだぞ。目を覚まさなかったらどうする!」
「そしたら、ここ閉めて帰りました」
俺が死ぬことなど、どうとも思っていないらしい。良心の欠如、道徳の腐敗、おお神よ、このイカレポンチを救いたまえ。
部屋は思った以上に広かった。何に使うのか知りたくもない小型のタンクと作業台、小さな手洗い場、表面がズタズタに傷ついた木の長机、そしてクソデカい頑丈な檻がしつらえられていた。
檻の中は空だった。
空の檻をみつめてほっとへたり込んだままの俺の首根っこをつかんで、鹿波が怪力で作業台の方を向かせて引き上げた。ずるずると立ち上がる。頭を打ったせいで脚にあまり力が入らない。
視ないふりをしていたが、作業台の脇に先ほどの女の霊が立って、引き出しを指していた。
「伝えたいことが、あったんだね……」
鹿波がなぜか優しげな声音でつぶやく。お前、そんなキャラじゃないだろ。俺はあいつの肉を喰わされたんだぞ。
俺の右手首を握って万力のように締め上げながら、鹿波は女の霊に向かって歩み寄った。
嫌がる俺も引きずられて近づく。女は腫れ上がった顔からじくじくと血と膿で作ったねるねるねるねを流していた。
鹿波はそのまま近づいて、右手に隠し持っていた振出し式の特殊警棒で女の霊の横っ面をホームランした。
女の頭がスイカ割りのスイカのように砕けて爆発した。吹き飛んだ血と膿と肉片が降りかかり、俺は気が遠くなった。突風とぎゃおんという叫びが俺と鹿波を襲い、女の身体は吹き飛んで壁を通り抜けて消えた。
必死に顔を拭う俺に鹿波が声をかけた。手首はもう放している。
「もう大丈夫っすよ」
「大丈夫じゃねえだろ! なんかちょっと良い雰囲気出してたのはなんだったんだよ」
鹿波は小首をかしげた。
「不意打ちは交渉の基本でしょ」
こいつにとっては戦争も政治の一形態か。『戦争論』を愛読するヤクザだ。
「幽霊相手だぞ。普通効かないと思うだろ」
「暴力が効かないなら、どうしようもないから諦めましょう」
「坊さんに経文を唱えてもらうとか色々あるだろ」
「先輩は坊主ですか? わたしは修道女ですか?」
九字くらいなら切れるぞと思ったが、イラついた様子の鹿波が女の霊をぶっ飛ばした警棒を揺らし始めたので俺は黙った。
俺が黙ったので満足した鹿波は引き出しを開けて、中から二冊のノートを取り出した。それ以外にはボールペンと風俗求人の広告が入ったポケットティッシュだけだった。
鹿波は地下室をカシャカシャとスマホで撮影し、俺はそれをポケーと眺めていた。働きものの肝臓が高速でアルコールを分解するせいで、酔いは急速に醒め始めていた。代わりにドラム式洗濯機に放り込まれた後のように、身体の節々が痛み始め、頭の頂点を鈍痛がノックしてくる。
鹿波が不動産屋らしい手際の良さでテキパキと原状復帰するのを無言で手伝い、俺たちは鍵を閉めてお化け屋敷から退散した。もちろん二冊のノートは鹿波の手の中にあった。
偶因狂疾 巨勢亜蘭 @allan_cosse
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