【Ⅱ】—2 繋がり

「お姉ちゃんは、夜まで裏通りにいたんですね。副長さん……セトさんに保護してもらわなければ、お姉ちゃんまで酷い目に遭ったかもしれない。だから……ありがとうございます」


 やっとのことで聞こえるほどの弱々しい声は、ランテの胸をたいそう震わせた。


「お姉ちゃんは……意志が強いし、行動力がある人だから、セトさんについていきたくないと思ったら、すぐにそうしていると思うんです。だから……お姉ちゃんがついていくと決めてきた人だから、今回のこともどうしようもなかったんだって、信じる、けれど」


 堪えようとした涙は、止めきれずにまた流れ落ちる。やっとのことで声を絞り出して、ユイカは続く言葉を紡いだ。


「ごめんなさい。どうしても、どうしてって、思っちゃって。どうしてお姉ちゃんがいるのに、話せないのって……どうして守ってくれなかったの、どうして止めてくれなかったの、どうして……それがそう決まっていることだとしても、そんなに冷静に報告ができるのって、どうしても」


「ユイカさん、セトは——」


「ランテ」


 セトは穏やかにランテを制する。言葉を飲み込みはしたけれど、ユウラの洗礼がどれだけセトの心に暗い影を落としているか、本当は知って欲しかった。


「すみません。妻も、いきなりのことで気が動転しているのだと思います」


「いえ、ご家族として当然の反応だと思います。ましてや四年ぶりの再会ですし」


 申し訳なさそうなソノに首を振って応じ、セトはそうあるべき返答をした。元々感情の起伏が大きな方ではなかったが、こんなにも感情を殺せる人ではなかった。ランテには分かる彼の異変は、どうしたってユイカには伝わらない。


「こんな状態になっても、お姉ちゃんは、まだ戦わされるんですか」


 ユイカの次の言は、明らかに敵意のようなものを内包していた。


「いえ。洗礼を受けた状態で戦場に立つのは危険だと考えていますから」


「だったら」


 ぎゅっと膝元のドレスが両手で握り締められる。顔を上げたユイカは、セトを射貫くように見つめて言った。


「お姉ちゃんを、返してください」


 隣で微かに息がつかれる。これまでの会話は、この言葉を引き出すためのものだったのだろうか。


「ご主人もそれで構わないのなら」


「私の方は、ユイカの思うようにと思っております」


「分かりました。洗礼を受けた者に命令できる方法は、血縁のユイカさんにしか教えられません。ユイカさんも、どんなに信頼していても、他の方には教えないようにお願いします。それから、ユウラは洗礼を受けてはいても、腕のある槍使いです。そうならないことを願ってはいますが、いざというときは彼女に守ってもらってください。ユウラも妹を守るために槍を振るえるなら本望だと思うので。後は、彼女には何より自衛を優先させるよう伝えてあります。ないとは思いますが、危害を加えようとしたら、彼女は抵抗するということをお知りおきください」


 ここまでよどみなく話して、セトは席を立った。


「ユウラはそのままで。お前が元に戻る手段が見つかるまで、ここでユイカさんと自分を守って暮らしてくれ」


 彼にならおうとしたユウラを制し、淡々と聞こえる口調でそう伝える。それからユイカに目を移した。


「ユイカさん、立てそうなら部屋の隅にお願いします。お二人に席を外していただくよりはその方がと思うので」


 ふらりと立ち上がって部屋の隅に向かったユイカと、彼女に続いたセトを見送ってから、ランテはユウラを見つめる。ソノとトウガを順番に視界に入れて「ちょっとだけすみません」と断ってから、ランテはユウラの正面へ行き、膝を突いて座って見上げた。


「ユウラ、やっぱりユウラじゃないと駄目なんだ。戻ってきて、ユウラ」


 空洞のような瞳にランテは映っているけれど、ユウラは無反応だ。


「セトがおかしくて、でもオレじゃ駄目なんだ。もうユウラじゃないと、ユウラがいてくれないと」


 じき、ユウラの深い紅の双眸はランテから外された。近づいてきた者に敵意があるかだけ確かめ、そうでなかったならば関心を失うのだろう。やはり、ランテにはどうにもできないのだろうか。また泣きたくなってくる。


「やっぱり、セトは一番ユウラの言うことに耳を傾けるんだ。ユウラ、セトを、助けて……」


 話しているうちに縋る気持ちが強くなっていって、最後には目がうるんで声が震えた。それでもユウラはランテに目を向けることすらしない。洗礼が、一体どういう仕組みで為されているのかランテには分からないが、ユウラの心が完全に消え去ったわけではないと信じていたかった。だからこそ悔しさが募る。ランテのこの言葉では、ユウラの心には届かないということだ。


「ランテ、戻ろう。長居するのも悪いし、オレたちにも仕事がある」


 次の言葉を探そうとしたときに、セトから声がかかった。ユウラの心に響く言葉を見つけるには、あまりに時間がなかった。


「セト……やっぱり、ユウラを置いてくの?」


「家族がそう望んでる」


 にべもなく言い、彼はランテとユウラのいるソファを通り過ぎると、扉の前まで歩んで頭を下げた。


「突然失礼いたしました。何かこちらで進展があれば、また伺います」


 客人の別れの挨拶を受けて、トウガがやや躊躇ちゅうちょしながらも応接室の扉を開いた。セトは彼に改めて会釈すると、そのまま部屋を後にしてしまう。どうしようかと焦りながら悩んで、ランテはユウラをもう一度見上げた。


「ユウラ、セトが行っちゃう……」


 ユウラはやはりランテを見ようともしない。焦燥が諦観に変わって、ランテが顔を俯けたそのときだった。


「え」


 すくっと、ユウラが立ち上がる。皆が唖然とする中彼女は歩を進めて、セトを追いかけていく。


「お姉ちゃん!」


 一番に我に返って走ったユイカを見て、ランテも急いで立ち上がった。扉を潜り抜けて廊下の先を見る。


 後ろからセトの左手を取って、ユウラは静かにたたずんでいた。


 セトは、しばらくの間、振り向かずにいた。少しして、振り返らないまま、ごく微かに感情をにじませた声で呼ぶ。


「ユウラ」


 彼が中々振り返ろうとしなかったのは、おそらく、振り返ってユウラのあの空の瞳を見たくなかったからだろう。こうして振り返らずにいれば、その間はずっと、ユウラが自らの意志で手を取ったのだと信じていられる。呼ばれて返事をしないユウラは、やはりいつものユウラでないのは明らかだったから、その祈りが届かないことはランテのみならずセトにももう伝わっていただろうけれど。


「妹の傍にいてやれよ。お前が妹を探し続けていたのと同じ間だけ、妹はお前を待ち続けていたんだから」


 先程から、セトの声には濾過ろかしきれなかった感情がほのかに宿り続けている。その感情の正体を知れるほどの濃度ではなかったが、存在は確かに認知できた。やはり、ユウラなのだとランテは確信する。今のセトに何かができるのは、もうユウラしかいない。


 やっと、セトは振り返った。ユウラの瞳を見下ろした翡翠がわずかに陰る。分かっていたことだろうけれど、こうして何度も現実を突きつけられるのは、その度新しい苦しみがあるに決まっていた。


「洗礼を受けた人は、自発的な行動を取れないって聞きました。お姉ちゃんは、どうして?」


 セトを止めたユウラを見て足を止めたらしいユイカが、やおらセトに問うた。セトはなおも少しの間ユウラに目を留めてから、ユイカに視線を移す。


「おそらく、優先度の高い命令に、私から離れないようにというものがあったのだと思います」


 また彼はユウラを見た。


「ユウラ。オレが戻るまで、ユイカさんの指示に従って欲しい」


 それにもユウラは従わなかった。セトの腕を握ったままだ。


「……この間は、これでいけたんだけどな」


 リイザにユウラを託したときのことだろう。セトに見えるのは困惑だけだったが、ランテの内側では期待が溢れ始めていた。もしかしたらユウラは、自分の意志でセトについていこうとしているのかもしれない。


「お姉ちゃん……セトさんと行きたいの?」


 妹の問いに答える声はなかったが、離れない腕が答えの代わりになっていて、ユイカは黙り込む。応接間から出てきたソノとトウガが、ランテのすぐ後ろに立つまで沈黙は続いた。


「ランテさん」


「えっ」


 自分の名が呼ばれたのが意外で、ランテは声を上げてしまった。ユイカは振り返って、ランテの方を見つめている。


「セトさんは、お姉ちゃんのことを、大事に思ってくれているでしょうか」


 どうしてランテに聞くのだろうとは思ったが、その質問ならば簡単に答えることができた。


「はい。それは、とても。絶対にそうです」


「そうですか」


 頷いたユイカは、目元を震わせて、泣きそうな顔で笑った。


「お姉ちゃんが、セトさんと一緒にいた理由が分かる気がする」


 やはり堪え切れなかったか、流れ落ちてきた涙を細い指で拭って、彼女は続ける。


「今のセトさん、両親が亡くなってからのお姉ちゃんにそっくり。自分は大丈夫、頑張れるって言い聞かせながら、哀しいのも苦しいのも全部隠して、一人で何でもやろうとしちゃう感じ。きっとお姉ちゃんは、セトさんに自分に似たところを感じたから、これまでついてきていたし、今もついていこうとしているんだね」


 もう一度同じように微笑んで、ユイカはセトの傍まで歩んだ。


「セトさん、さっきは酷いことを言ってすみませんでした。お姉ちゃんは、セトさんの傍にいたいんだろうと思います。だからお姉ちゃんを、連れて行ってあげてください。それで……お姉ちゃんが元に戻ったら、またお姉ちゃんをここに連れてきて欲しいです。お願いできますか」


 セトはすぐには答えない。掴まれた腕を見つめて、珍しく少しの間思考を止めているように見えた。


「……分かりました」


 表情は変わらない。けれども今度は、声が含んでいる感情の正体が分かった気がした。ランテが感じ取ったものが正しいかは分からないが、苦しそうだった。彼にとっては、ユウラが傍にいる方が負担は——心理的な面も含めて——大きいのかもしれない。それでもランテは、こうなって良かったと疑いようもなくそう思えていた。セトのためにも、ユウラのためにも。


 繋がれたままの手を見つめる。切られなかった繋がりが、何かになるように。そこを見つめて、ランテは一心に祈り続けた。

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