【Ⅰ】—3 対極

 階段を上り切って、屋上に出る。北地方で感じるものより温い夜風が、ランテを掠めて過ぎ去っていった。中央の建物は皆明るいからか、見上げた空はやや霞んで見える。エルティで見上げた星空は、もっとずっと鮮やかだった。


「答えを先延ばしにしても不安にさせるだけだろうから、結論から先に言うよ。オレは、あのときお前が言ったことを、善の押しつけだとは思ってない」


 端の柵まで歩いてからランテを振り返り、背をそこに預けたセトは、端的に質問に答えて微笑んだ。そうして付け加える。


「お前でも、揺さぶられたりするんだな」


「オレでもって」


「褒めてるんだよ。お前は強いって」


 笑みを深くしてからそう述べて、その後セトはランテから視線を外した。


「押しつけだとは思っていないし、お前の中でオレがそういう人間に見えてたってことは、嬉しく思ってる」


 かなり含みのある言葉だと感じた。セトはやはり微笑んでいたけれど、ランテと視線を合わせようとしないことがとても気にかかる。そもそも否と答えるだけならば、あの場で十分なはずだ。セトは何の話をするつもりで、わざわざ屋上までランテを連れて来たのだろう。


「あの場では、揺れなかったんだよな。全く」


「あの場では?」


「ベイデルハルクには、少し前に同じ話をされててさ。その時は、揺れた……というか、揺れるじゃ済まなかった」


 また視線が落ちる。翡翠の双眸は、闇しか存在しない足元に何かを探すごとく彷徨った。


「枠を壊すのもいいかって、一時期……お前に会うまで、本気で思ってた」


「……でもそれはっ!」


 微笑みに、ごくわずかに自嘲が混ざり込んだ気がした。何だか無性に自分が傷つけられたような感じがして、思わずランテは声を張り上げてしまう。声は思っていた以上に大きくなり、裏返りもする。それではっと気づいて、急いで鎮めた。


「それは、ユウラのことがあったからじゃ?」


「それは確かにあったし、オレもそこに理由を作ろうとしていたけど、それだけなら二回目に言われたときにもまた揺れてたと思うんだよな」


 ゆるりと上がった瞳が久しぶりにランテに向けられる。そこに何も読み取ることができなかったのは、暗いせいだと思いたかった。


「何で揺れなかったのか、起きてから考えてたんだけどさ。世界のあり方を知ったことが一番大きい気がしてて」


「……うん」


「あの事実を聞いたとき、オレはむしろ……嬉しいって言うと語弊がありそうだけど、それに近いものを感じたんだよ。自分と他の人間との間に、これまで思っていたほどの隔たりはないって思えた気がした。自分の生まれのことを知ってからは、初めてのことで」


 気づくと、またセトの視線が逸れている。どこかの庭から風に運ばれてきたらしい花びらを——長いこと弄ばれ続けたのだろう、あちこちが傷んでいた——目で追いかけ、見送ってから、彼は続けた。


「その後に枠を壊さないかと持ちかけられても、全く……自分でも驚くほどに揺れなかった。ユウラのことは何も解決してないのに。結局のところオレは、ユウラのためだとかテイトのためだとか、そういう大義名分を作ろうとしていただけで、本当のところは自分が楽になりたいがために——」


 その先を言わないで欲しいと思った。ランテのためではなくて、セトのために。しかし、彼が言葉を止めることはなく。


「お前を売るところだった」


 ささやくように言われた声は、なぜか、とても響いた。そんな気がしただけかもしれないけれど。


「……セト……」


 それ以上、何を言っていいのか分からなかった。先ほどの言葉を述べる瞬間だけ全ての表情を消していたセトが、ここでまた、いつもの微笑みを浮かべる。


「ランテ。オレはそういう人間だ。お前が思ってくれてるような立派な人間でも善良な人間でもない。これまでのことだって、人のためになりたいと思っていたつもりで、その実自分のために……自分に何とか価値を持たせようとして、無理ばかり繰り返してたんだよ、オレは。多分な」


 この間モナーダと話したときにランテが考えたことは、間違っていなかった。やはりセトは周りの人間を重く見、その人間を守ることで己に価値を見出していた。今回それが叶わず、彼はもう彼自身を見限ってしまったのだ。だからこんなことを言うのだ。セトのこの不自然なほどの落ち着きは、自分に期待することを完全にやめたからこそ抱けるものだったのだ。


 全くセトらしくない、短慮な結論に至っているとランテは思った。十分に自分を振り返ったように聞こえるけれど、そんな言い方をしているけれど、結論ありきで論拠を収集していることはランテにだって分かる。セトが二度目のベイデルハルクの勧誘に耳を貸さなかったのは、もう彼が一人ではなくなっていたからだ。戦って倒すという選択肢が目の前にできていたからこそ、彼はベイデルハルクの提案を受け入れなかった。それを直前に得た感情に結びつけて利己的な選択だったとするのは暴論だ。セトが己を無価値だと信じ込もうとしているから、そんな結論になってしまうのだ。


「違う、セト、違うよ、セトは」


 気がはやって、言葉がき止められてしまう。感情ばかりが溢れ出して言葉にならない。その隙に、セトはどんどん独りで先を行ってしまう。


「お前がオレを良く見てくれているのは、お前自身が善人で……それから、強いからだ、ランテ。人は自分を通して相手を見るだろ? お前の中で、お前の一部がオレに投影されてる。特にお前は主観的に物を見る方だから、余計影響を受けやすいんだろうな。オレは、お前とは違う。……お前みたいにはなれない」


 形になりかけていた言葉が、途端に崩れてしまった。気づいてしまった。多分、セトに止めを与えたのはランテだった。セトは、ランテのあの言を聞いて——セトとベイデルハルクを一緒にするなというあの発言だ——ランテが想像していたセトの心中と、実際に自分が抱えている感情との齟齬そごを突きつけられた。そこで嫌でも自分を振り返らないといけなくなってしまったのだ。


 ベイデルハルクの言うことは正しかった。セトは違うと言ってくれたが、ランテのやったことは善の押しつけだった。それが、最後の最後でセトを追い詰めた。ランテが今、どれほどセトの考えを否定しようとも、もうそれは押しつけになってしまう。セトの中でランテは今「自分と違って善い考えを持てる人」になってしまっているから、何を言っても最早彼に響くまい。彼の中で、ランテはもう対極の存在になっているのだから。


「……何で、オレにこんな話するの」


 こんなくだらないことしか言えない自分に呆れ果てる。でも、セトがこのことをランテに伝えた真意はせめて知っておきたかった。


「頼みたいことがあってさ」


 セトの語り口は、いつまで経っても、虚しくなるほどに平静だった。


「もうオレは自分を信じられない。今までの判断だってどこまで正しかったか分からないし、これからのことは、もっと。それで」


 ランテを見つめる両の瞳も、どこまでも凪ぎ渡っている。


「オレが間違ったら、正して欲しい。お前に」


 セトから寄せられた言葉を、ランテは何度も何度も反芻はんすうして理解しようと努めた。そうしてみても、なぜセトがランテにそれを求めるのか、ちっとも見えてこない。


「どうして、オレに」


「今のところ、理をって物を考えることはできてる……と思う、一応。だけど、オレ自身は正しいかどうか考えたつもりでも、正しい人間から見たら正しくない方向に進んでいくことがあるかもしれない。だから、そのときはいさめて欲しい。今、周りにそれができて、かつ信頼できる人間はお前しかいないんだよ、ランテ。頼む」


 もっと別のことで頼りにされていたのだったら、どんなに嬉しかっただろう。頼られたかったけれど、こういう頼られ方を求めていたわけではなかった。


「もっと相応ふさわしい人間が上に立てればそれがいいんだろうけど、今は誰が代表を務めるかで揉めている場合でもないしさ。落ち着くまでは、オレがやるつもりでいる。務まる限りはな」


 セトが今こうして精神的に落ち着いていること、その状態で役目を全うしようとしていること。それは感情を完全に廃して客観的に状況を見つめ、今は自らがその状態でその位置に収まるのが最も合理的だからそうしているに過ぎない。求められている役割を担うため——冷静な判断力を取り戻すため、不要なものを軒並み捨てた。今セトがこうしてここに立っているのは、ただ『必要とされているから』、その一点ゆえでしかない。今や責任感と使命感だけが、彼をどうにか支えている。


 ハリアルは、ここまで見越していたのだろうか。セトが危ういながらもギリギリのところで自分を保っているのは、完全にハリアルの功だった。しかし、『相応しい者』が他に現れたら——彼を支える重圧を失えば——セトは今度こそいなくなってしまう。それまでに、セトにもう一度自分を信じたいと思わせなければならない。


「……分かった」


 ぽつりと、ランテは言った。


「分かった。セトがそうして欲しいなら、そうする」


 今の状況でもセトが大きな過ちを犯すことはないと、ランテには信じられる。しかし、ランテが正すと言うことでセトが安心するのなら、それでいいと思った。今自分が何か言うことは、より彼を惑わせることになろう。だからランテはただそう答えて、うつむいた。

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