【Ⅷ】 告白
ランテはミゼの手を引いて、あの場所へ——ランテとミゼが初めて会った、そしてその後も毎晩の約束の場所となった例の中庭の片隅へ——連れ出した。
ここへミゼと共に来るのは、随分と久し振りになった。毎夜、ミゼの姿がないか確かめに来ては落胆する日々を繰り返していた。かすかに湿気た草の香は、一人でいるときに嗅ぐものと同じ香でも、ミゼが傍にいると懐かしいような感じがする。
「大丈夫?」
ベイデルハルクと騎士長は追ってこなかったが、ミゼの顔色は青いままだ。ランテの手を握り返す指はずっと脅えている。
「ええ……ありがとう、ランテ。本当にありがとう」
「それはいいんだ。でも、あの二人はミゼから何を聞き出そうとしてたんだろう? それに、どこかに連れて行こうとしていたみたいに見えたけど」
ミゼは、ランテから指を解いた。その手を胸にやって一歩足を引く。困ったような迷ったような瞳が、震えながらランテを見上げた。
「ごめんなさい、ランテ」
「話せないってこと?」
本当なら、話して欲しいと詰め寄りたかった。どうしても、自分は、自分のことだけは、信じて支えにして欲しかった。でなければ一体、ミゼはどこに寄りかかればよいのか。
それでもミゼの瞳から惑いは消えない。もう片方の手も胸元の手に緩やかに添えられる。救いを求めかけた片手を、もう一方が
「いいえ、私、ランテのことは心から信頼してるわ。だから話せないのではなくて、話したくないだけなの。話せばあなたまで巻き込んでしまうから」
陰った声を聞いていると、唐突に悔しさが膨れ上がって、ランテの胸を満たした。ミゼが今、何かに——ベイデルハルクや騎士長の、何かとてつもない邪悪な企みに——立ち向かおうとしていることは、ランテにだって分かる。だったらどうしてミゼは、一緒に戦ってと言ってくれないのだろうか。話をすることさえ
「オレは話して欲しい」
最後の願いをかけて、ランテは絶対に言うまいと決めていた言葉を口にした。だが、ミゼは静かに首を振るだけだ。
「駄目よ、ランテ。城下町であなたを待っていらっしゃるご両親のためにも、あなたを危険に晒すわけにはいかないもの。お願い、分かって」
ミゼのことは、もうよく知っている。彼女が思いつめたように口にした言葉に、嘘がないことは分かっている。だからこそすがりついてもらえないことが、悲しくてもどかしかった。
全身の震えを必死に堪えて立つミゼを見る。両の袖が強く握り締められているのを認める。そうしているミゼはとても独りだった。
言おうと、そう決めた。
「ミゼがオレのためを思ってくれてるのはよく分かった。だけど、ミゼ、だったらオレの気持ちも分かって欲しい」
「ランテの気持ち?」
「ミゼの力になりたい」
「……ランテ」
「ミゼ、オレは」
ミゼのことならよく知っている。きっと誰よりたくさん分かっている。だから、苦しめるだけだと気づいていた。永遠に殺しておくべき思いだと理解していた。傍にいられるなら、それで構わなかった。
だけど、これは違う。違うんだ、ミゼ。だから言うよ。
逃げようとした紫の瞳を、先に捕まえた。ずっとずっと募らせてきた心の全てを、短いその一言に、刻みつけるようにして託す。
「ミゼが好きだ」
美しい紫の瞳は、ゆっくり見開かれて、そうして徐々に潤んでいった。潤んで、溜まって、溢れそうになって、その寸前で顔が背けられる。
「間違ってたらごめん。でも、ミゼもきっと同じ気持ちでいてくれてるんじゃないかな」
髪で隠れた目元が、指でそっと拭われた。その手を優しく取る。涙で濡れた両の瞳がゆっくりとランテを映した。
泣きかけたミゼなら、何度か見てきた。だけどミゼは、これまで一度も、少なくともランテの前では泣かなかった。そのミゼが、泣いている。
開かれた唇は、しばらくの間言葉を紡がない。また新しい涙が溜まって、流れ落ちた。
「ランテ、私は」
「違ってた?」
「私は……私は……っ」
堪え切れなかった嗚咽に華奢な両肩が震える。そのまま崩れ落ちてしまいそうなミゼを支えた。やはり、苦しませてしまったのだろうか。どうしたらいいか分からなくなって、ランテは慌てながら言葉を継いだ。
「違っててもいいんだ。オレが勝手に、そうだったらいいなって思ってただけだから。困らせたならごめん。とにかく、オレがミゼのために何かしていたい理由を分かっててもらいたかっただけで」
不器用ながらもランテはありのままの自分の思いを吐露したが、ミゼは答えない。ランテに両肩を支えられながら、懸命に嗚咽を殺して泣き続けている。
「ミゼが好きだから、オレはミゼのために何だってしたいと思う。騎士を目指してるのだってそのためだよ。だからさ、ミゼ、話してくれない?」
なおもしばらく、ミゼは黙って泣き続けた。おろおろしながらも、できることは何もなくて、結局ランテもそのまま立ち尽くすことになる。
呼吸が落ち着くと、ミゼは赤くなった目から最後の涙を拭って、「ごめんなさい」と言うと同時にランテの両腕から離れた。さらにいくばくかの沈黙を置いて、ランテからは顔を背けたまま、語り始める。
「始まりの君王レイサムバードは、争いの蔓延る人の世を平らげた。始まりの女神ラフェンティアルンは、
どうやら話してくれるようだ。ここまではランテもよく知っている。いや、この国に住む者なら皆が知っているだろう。歴史で最初に学ぶ王国の成り立ちの部分だ。相変わらずミゼはランテの方を向いてはくれなかったが、話は続く。
「始まりの女神は——彼女は、女神と呼ばれてはいるけれど、神なんかではなかったの。
ここは知らない。王族だけに伝わっていることなのかもしれない。ランテは耳に意識を集中させた。一言も聞き漏らすまいと、続くミゼの言葉を待つ。
「でも、人の身を捨てたとはいえ、やはり彼女は神ではない。神ではないから、永遠に己の中に精霊を封じておくことはできなかった。千年経った今、彼女の施した封印は解けようとしている。……今、王国は、新たな【精霊の器】を欲しているの」
ミゼは、ここでやっとランテを見た。瞳にはまだ涙の名残が残っていたが、そのまなざしに弱さはもう見えなかった。
「私が——始まりの女神の血を引く私たちが、その器にならなければならない」
「……『私たち』?」
「私と、お母様よ。始まりの女神の才覚を引き継げるのは、彼女の血を引く、しかも女性だけなの。でも私たちは、始まりの女神ほどの力は持たない。だから、私とお母さまで封じる精霊を半分ずつにするの」
ちゃんと聞いていたのに、ミゼの言っていることが理解できない。ミゼの話をまとめるなら、始まりの女神が実は人間で、精霊を千年間ずっと封じていて、その封印がもう解けかかっていて、だからミゼとミゼの母——王妹ルテルアーノ——が、代わりに精霊を封じなければいけない、ということだろう。そこまで整理ができても、よく飲み込めない。考える時間が欲しかったが、ミゼは待ってくれなかった。
「ベイデルハルクは、それを知っていた。クレイドが教えたのでしょうね。あの男は、自分が器になると言い出したわ」
ミゼは、始まりの女神は精霊を封じるために人であることを捨てたと言っていた。もしもミゼが、同じように人であることを捨てなければならないのなら、ベイデルハルクが代わりになってくれた方がいい。考えたままランテがそう口にすると、ミゼは何度も首を振って応じた。
「精霊を封じるということは、精霊の力を得るということ。ベイデルハルクが精霊の力を得れば……きっと、恐ろしいことになるわ」
「そっか……あ、でも、ベイデルハルクは女神の血を引いていないんじゃ?」
「女神の血を引いていなくても、優れた呪使いは存在する。きっとあの男には器になれる素質があるわ。けれど、あの男が望むのは王国の安寧ではない。だから、あの男を、始まりの女神に近づけるわけにはいかないの」
胸の下まで持ち上げた両手を、ミゼはぎゅっと握った。
「気づいていたの。だから、今回の婚約を受けて、私があの男を止めなければと思っていたわ。婚約者になれば、妻になれば、その機会はいくらでもあると思った——だけどあの男は、もう騎士長とまで繋がってる。早く何とかしないと、取り返しのつかない事態になるわ。それなのに、伯父様も、お母様も、私の言葉を信じてくださらない。私は……私は、一体どうしたら」
声は、感情を帯びて不安定に揺らいでいた。ミゼはこれまでずっと独りで、何とかしようと頑張ってきたのだろう。どれだけ心細かっただろうか。好転どころかどんどん悪化していく状況に、不安は募る一方だったはずだ。よく独りで耐えてきたと思う。
「オレがいる」
気づけば、ランテは口にしていた。自分一人で一体何ができるのかとか、そういう考えは、今のランテには一切浮かばなかった。
「え?」
「オレがいるよ、ミゼ」
ミゼのために、何かがしたい。心にあるのはそれだけだった。
「オレに任せて」
言い切ったランテを、ミゼはどこか眩しそうに見つめた。
何かを言いかけて、しかし結局言葉は返さず、彼女は、泣きそうな顔でただ微笑んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます