2:黒を纏う者

【Ⅰ】   黒影

 白みめた空を見上げる。エルティの朝は、空気が冴え冴えとしてすがすがしいが、やや肌寒い。


 大精霊を鎮める任務から戻って、三日が過ぎ、今日四日目を迎えた。ランテは三日のうち一日は休みをもらい、残り二日は主に門の警備に当たっていた。思いの外黒獣は現れず、交戦したのは小型のものと二回ほどで、ほとんどは門を出入りする者のチェックで時間が過ぎていた。


 今日早番のランテは、今支部の玄関まで降りて来たところだ。欠伸が漏れる。昨夜早く休んだにもかかわらず、眠くて仕方なかった。起きることがどうにかできて良かったと思う。


 持ち場に行こう。向かい始めたちょうどそのとき、鎧を着た者が走ったときに鳴る、特有のがちゃがちゃした音が聞こえて来た。すぐに白い鎧が支部の入り口に現れる。血の臭いを引き連れていた。


「副長!」


 兵士は建物の上部を見上げて叫んだ。セトは昨日、深夜まで門警備の当番だったはずだが、こんな時間に起きているだろうか。宿舎まで呼びに行くべきかとランテが動き始めたときに、明かりの灯っていた三階の一室の窓が開いた。その後すぐに、そこから人影が飛び降りてくる。一瞬ひやりとしたが、それがセトだと分かってランテはほっとした。


「どうした?」


 呼んだ風で落下速度を落としてから着地し、彼は兵士に尋ねる。


「北門に増援をお願いします。黒獣の群れです。怪我人も出ていて」


「分かった。まだ動けるか?」


「はい」


「なら、詰所にいる兵を向かわせてくれ。お前はその後ここで待機。治療後怪我人を運ばせるから、その対応を頼む。門には戻って来るなよ? 結構な出血だった」


 兵に指示をしながら治療を済ませて、セトは事態を見守っていたランテに目を移した。


「ランテ、行けるか?」


「うん、ちょうど当番で、北門にこれから行くところだった」


「助かる。二人で先に加勢に行こう」



 まだ明け方だからだろう、人通りはまばらだった。すれ違った者たちは皆そろって不安げな顔をしていたが、その中に怪我人はいない。門はまだ破られていないようだ。駆けながら安心する。


 望んで来たからには、足手まといになるわけにはいかない。ランテは緊張した。恐怖から来るのか、それとも別の理由からなのか。一人首を振る。実戦演習と、先の任務でのことを思い出した。考えるのはやめよう。無心で、とにかく、自分にできることをやればいい。


 角を折れた瞬間、一挙に視界が開けた。耳に届く騒音、目に映る黒い影。ランテは息を呑んだ。門のすぐ外に黒獣が一、二、三……八。どれも大きい。対する白軍の兵は十五ほどだった。負傷した兵たちが門の内側で座り込んでいる。重篤な怪我を負った者はいないが、すぐに戦えるというような状態ではない。白鎧に血の赤はやはり、目に痛いほど映える。


 セトが負傷兵たちに声をかけてから、ランテに目配せした。頷く。セトも頷いてから、ひらりと門を跳び越えた。セトほど身軽にとはいかないが、ランテも門をよじ登る。高さはあったが飛び降りるのには躊躇わない。二階から降りられたのだからこれくらいは、どうとでもなるはずだ。


「ひとまず二人増援。他もすぐに来るから、怪我したやつは無理せず下がってろ」


 セトが剣を抜いた。彼はそのままランテの視界から消えた。相変わらずの速さだ。ランテも剣を抜く。すると階段に立っていた一人が首をこちらへ返した。テイトだ。


「大丈夫?」


「大丈夫」


 答えて、階段を駆け降りる。一番手前にいる黒獣を見る。これまで見たものと同じく真っ黒だが、妙に長細い身体をしている。六本の腕を縦に横に自在に振り回していた。撓るそれはまるで巨大な鞭のようだ。当たればただでは済まないのは見ただけで分かった。しかし、対峙している兵はわずか一人だけで、どう見ても苦戦している。あそこに加勢に行こう。


「加勢か! 助かる」


 ランテが階段を降り切ると、兵士は背中を見せたまま言った。槍使いのようだが腕六本を捌くだけで精一杯らしい。黒獣は寄ってきたランテを灰色の目で視認すると、早速半分の腕を派遣してきた。一撃目が足先を打つ。腕の形に地面が陥没した。一瞬怖気づいたが、己を奮い立たせて、ランテは剣を構えた。見上げると次の腕が湾曲している。来る。右足を半歩下げてから、息を吐いた。剣を傾ける。集中しよう。


 力いっぱい、横一線を引いた。伸び切った腕が肩の向こうで少し揺れる。視界の両隅に黒いものが映った。左側でくるくる円を描いているのは、さっきまでは本体と繋がっていたはずの腕だった。ランテは呆然とそれを目で追った。それから、剣を見る。薄っすらと黒いものに汚れされていた。ランテが確かに切った、ようだ。やれた——


「ランテ、前!」


 テイトの叫び声にランテは我に返った。正面に顔を戻したが、大半が黒に邪魔されて何も見えない。それが敵の腕だと気付いたときには既に遅かった。慌てて身をよじるが、そのよじった腰を打たれる。身体が勝手に飛んでいって、どさりと落下した。また見上げる。追撃が迫っているが、腰から下が痛みに痺れて動けない。座ったまま剣を構えた。直撃に備えて歯を食いしばる。そのとき、肌に熱を感じた。炎の幕がランテを中心に一周している。炎の呪だ。誰かが助けてくれた。剣を杖にしながら立ち上がって、門を見た。テイトだ。


「テイト、ありが——」


「いいから前見て前! 次が来るから!」


 警告を受けて、慌てて黒獣と向かい合う。兵士の方も腕を一本切り落としたらしく、残るは四本になっていた。もう足は動く、大丈夫だ。再度近づく。今度は注意深く。飛んできた腕をかがんで避けた。横に動いて即座に剣を振り下ろす。先端を少し切っただけだ。体勢を整えて次に備える。落ち着いてやれば、大丈夫だ。動きは追えるし、隙も分かる。


 身をかわしながらじりじりと距離をつめる。鞭は何度か掠ったが怪我には至らない。詰めきったとき、黒獣は腕二本で同時に攻撃を仕掛けてきた。今だ。左に飛びすさって、水平に構えた剣を全力で振りぬく。手ごたえは二度あった。黒獣が呻く。隣の兵士が口笛を吹いた。



 日が昇りきり、朝になる。救援としてアージェたちが到着するとすぐに、黒獣の群れは片付けられた。槍使いの兵士と協力して例の一匹はどうにか片付けることができたが、ランテにはそれが精一杯だった。膝が崩れて、地面に座り込む。肩で呼吸をしながら辺りを見渡した。穏やかな平原が戻っている。前から気になっていたのだが、黒獣たちは倒されると消滅するのはなぜだろう。


「ランテ、怪我は?」


 声と足音に振り向く。テイトがほっとした顔で立っていた。


「お陰で大丈夫、ありがとうテイト」


「やっぱりランテって強かったんだね。ユウラといい勝負ができるんじゃないかな? だけど、ときどき集中力が散漫で危なっかしい」


 テイトが苦笑ながらに言う。ランテとしては無我夢中でやっとなんとかできたくらいの感覚だったのだが、遠くからだと上手く動いているように見えたのだろうか。「怪我しそうでひやひやしたよ、気をつけなよ」と付け加えてから、テイトは顔を上げて誰かの姿を探した。見つけて、呼ぶ。


「セト!」


 セトはアージェと話していたが、声に気付くと彼に断ってからこちらへ向かって来た。当然無傷で息すら乱していない。さすがは北支部の副長だ。恐れ入る。


「二人とも怪我はないな。ユウラの姿が見当たらないけど、あいつも北門だったよな?」


「そのことで呼んだんだ。ユウラ、単身で敵を追ってる」


 テイトの報告に、セトが眉を寄せた。ランテも心配になる。たった一人で敵を追うなんて、どうしてそんな危険なことを。


「単身で?」


「男の子が一人、連れて行かれたんだ。それを追って」


「黒獣が連れ去ったのか?」


「ううん。たぶん人。黒い衣を纏ってて、顔は全然見えなかったけど人の形をしていたと思う」


「人、か。おかしいと思ったんだよ。黒獣にしてはやけに統制のとれた動きだった。だけど人と黒獣が組むなんて」


 そこで止めて、セトは遠くを見渡した。


「ユウラはどっちに?」


「北東へ。すぐ追う?」


「あいつなら無茶はしないと思うけど……そうだな、万が一ってこともある。追うよ」


「じゃあ、僕も一緒に」


 テイトが進み出た。ランテも慌てて立ち上がる。心配だ。彼女には幾度も助けられた。もし今ユウラが助けを必要としているならば、ランテこそ駆けつけなければならない。


「オレも行く」


 テイトとランテを順に見て、セトが何かを言いかけたが、それよりもテイトの方が早かった。


「本調子ならさておき、今のセトを一人で行かせることはできないよ」


 柔らかな口調ではあるが、微笑するテイトの目は油断ない。隣でランテも頷いておく。今度はセトが苦笑した。


「前の怪我のことを言ってるならもう何ともないけど、分かった。なら、頼む」


 北東には森が広がっている。ランテ、セト、テイトの三人はユウラを追って走り出した。

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