喜の章
1:二つの邂逅
【Ⅰ】-1 巡りあわせ
深い深い、闇の中にいる。
あまりに深い闇に包まれていたから、そこに自分まですっかり溶け込んでしまったような気がしていた。このまま、何も分からなくなってしまうかもしれない。実際、どこまでが自分でどこからが闇かという明確な区別は、既にできなくなっていた。
「おーい、生きてるか?」
それでも心地よかった闇の中に、突然誰かの声が飛び込んできた。揺るがされた闇の中に、強い光が差し込んでくる。気づけば、ランテは目を見開いていた。途端に人の顔が飛び込んできて、思わず飛び起きる。「おっと」という声を耳が拾った。真上にあったはずの誰かの顔とぶち当たらなかったのは、その持ち主が避けてくれたからだろう。
「なんだ、元気いっぱいだな。無事で良かった。怪我は?」
まだ霞んでいる視界の中に、人影を数人分数えた。手前で立て膝をしている人が、ランテに話しかけていたらしい。二十歳くらいと思われる、若い男の人だ。腰には剣を帯びている。
「ない……みたいです」
「だな。で、お兄さん。何でこんなところで寝てたんだ? 最近じゃこの辺りも物騒なの、知らないわけじゃないだろ?」
ようやく満足に見えるようになった目で、ランテは辺りをぐるりと見渡してみた。晴れ渡った青空、青々と茂る草、まばらに立つ木々。平原、のようだ。しかし、自分がどうしてここにいるのかがさっぱり分からない。
「ええと、ここ、どこですか?」
「へ?」
ランテが思うままに聞くと、驚いたような声が返ってきた。それもそうだろうなと思ったが、本当に分からないのだから仕方がない。男の人はちょっと困った顔をして、次に真剣な目をして、そして最後にまた最初の気さくそうな顔に戻った。
「お兄さん、名前は?」
「ランテです」
「故郷は?」
「えーと……」
返事をしようとした途中、声が出なくなった。分からない。なんとか思い出そうと努力したが、ランテの頭の中は一向に真っ白いままだった。男の人の向こうにいる人たちが、急にざわつき始める。その中の一人——女性のようだ——が、緊張した声で言った。
「隊長、まさか」
「んー、オレは違うと思うんだけどな」
立て膝の男の人は、どうやら隊長らしい。隊長はどこから持ち出したのか、一振りの剣を眺め回しながら答え、その後ランテを見た。
「名前は間違ってないな、ランテさん」
隊長はさっきまで
「それ、オレのですか?」
剣を持っていたなんて記憶、さっぱりない。聞いてみると、隊長はちょっと笑った。
「あんたの腰にあったんだ、あんたのだろ? 盗品じゃなけりゃさ」
ランテが自分の腰に目を落としてみると、確かに剣を引っ掛けるようなベルトが巻かれていた。鞘に巻きついていたものと同じ材質だったから、さっきまではここにあったのだろう。隊長はいつの間に抜き取ったのだろう。まったく気がつかなかった。
「見たところ東の方の剣みたいだ。レベリア、オルティノ、レキダース、ハルベ、イーチェ、ワベナ、ピッサ、あとはノンタスとか? どっか聞き覚えのある名前ないか?」
しばらく考えてみたが、どれも耳を通り抜けただけだった。ピンと来ない。ランテが首を左右に振ると、隊長はそっかと軽い返事を寄越した。もともと期待していなかった様子だ。
「じゃあさ、頭が痛いとか……どっか身体に、いや、頭に異常は? あ、いや、別に正気かどうか疑ってるわけじゃなくて。ほら、頭に強い衝撃を与えられると、一時的に記憶が飛んだりするもんだろ? そうじゃないかって思っただけでさ」
確かに、それならこのおかしな状況にも説明がつく。ランテは自分の頭をあちこち触って確認して見たが、どこにもたんこぶひとつない。立てた膝に頬杖をつきながらその様子を見ていた隊長に、また首を振って答える。隊長もまた、そっかと同じ返事をした。
「隊長、やっぱり奴らの仕業じゃ」
「あいつらの仕業だとしたら、こういう反応はできないって」
後ろからの声に応じながら、隊長はランテの剣を鞘から抜いた。抜き身になった剣をじっくりと眺める。刃は日の光を反射してきらきらと輝いていた。十二分に見てから、隊長は手早く鞘に戻し、ランテに差し出した。受け取る。ずしりと重い。自分は、本当にこんなものを振り回していたのだろうか。信じられなくて、もう一度鞘に目を戻した。ランテ。やはりそう刻まれている。
「あーあ、こりゃひどい。たったこれだけで、どこで何しようとしてたんだろうな、ランテさんは」
隊長は、今度は黒くて小さな布の袋を開けて、その中身を見ていた。じゃらりという音がする。財布だろうか。多分ランテのものなのだろう。またしても抜き取られたことに気がつかなかった。すごい腕だ。
「えーと、隊長さん? あなたたちは盗賊団か何かですか?」
顔を上げた隊長は、一瞬ぽかんとした表情をして、それから急に笑い始めた。何が面白いのかさっぱり分からなくて、今度はランテの方がぽかんとなる番になる。さっきの女性が、後ろからランテの財布を取り上げて、隊長を叱った。
「隊長がそういうことするから盗賊団なんかに間違えられるんでしょ!」
「あーいや、悪い。それにしても、ははっ、あんた面白いな。普通こういう状況になったらもっと混乱とかするんじゃないか?」
「何を考えてもよく分からないから、とりあえず何も考えないようにしてるんだけど、これってある意味混乱してるのかな?」
「いや、十分落ち着いてるよ。普通の人間じゃ中々そうはなれないさ」
半分笑いながらそう言うと、隊長はさっと立ち上がった。全身が見えるようになってやっと、ランテは後ろの集団と隊長がみな同じ紋章のついた服を着ていることに気がついた。白地に銀の刺繍糸でなにやら女性の横顔のようなものが描かれている。どこかの正式な部隊なのだろうか。だとしたら、さっきは随分と失礼な質問をしてしまった。謝ろうとランテは口を開いたが、隊長の方が一息分早かった。
「オレたちはそろそろ行かないとならないんだが……そうだな、お前も来ないか?」
「え?」
突飛な話に、ランテは思わず目を見開いた。目の周りの筋肉が引きつるくらいだったから、きっとものすごく大きな目になっていたことだろう。隊長は後ろからの隊員たちの抗議の――主に女性のだが――声を完全に無視して、ランテに親しみやすい笑みを向けた。自分の服の、左鎖骨の下あたりにくっついている例のエンブレムをとんとんと叩く。
「オレたちは【白軍】――って言っても、その顔じゃ、分からないみたいだな。ルテルアーノ白女神の使徒――これも駄目か。じゃあ……うん、まあとにかく、この世界の二大勢力の片方だって思っておけば間違いない。どうせやることも金もないんだ。だったら、ランテも来いよ。そうすればとりあえず食うことには困らないし、慣れるまではオレが面倒みてやれる」
「ちょっと、隊長!」
割って入ったのはやはりあの女性だ。赤い髪に、気の強そうな吊り目だが、不思議ときつい印象は与えない。隊長から奪ったランテの財布を、左手にまだ握り締めている。
「こんな得体の知れない者を、今、支部に入れるわけにはいかないでしょ。それにこんなひ弱そうなやつを入れても、どうせすぐ死ぬわ」
「まあまあ、ユウラ、落ち着いて」
「落ち着いてるわよ、あたしは。あたしの前にセトを落ち着かせて」
ひどい言いようの女性――ユウラという名前らしい――を
「うちはいつでも人員不足なんだ。一人増えるだけでも全然違う。それと」
ここで隊長はちらりとランテに目をやって、それからランテが両手で持ったままの剣に目を落とし、そうして再びユウラに視線を戻した。
「ランテは結構やるはずだ。剣自体はそういいものじゃないが、手入れが行き届いてる。利き手は剣まめができる位置だけ皮が分厚くなってる。ぱっと見だと細く見えるが、それなりに筋肉もついてるんじゃないか? 何より記憶喪失になっても動じない精神力を、オレは買う。お前はすごいよ、ランテ」
「はあ……ありがとうございます?」
「なんで疑問形なんだよ」
「いや、なんとなく」
あまり褒められた気がしない。だが、今はそれよりももっと重大なことがある。隊長の勧誘に乗るかどうかを決めなくては。今のランテには目的もないし、金もない、らしい。生きていくためにはまず職を探さなければならないだろう。しかし、さっきから死ぬだとかなんとか、とにかく物騒な単語が耳に入ってくる。そもそも軍なのだから命がけの仕事なのだろう。ランテは持ったままの剣を見た。やはり、重い。
「せっかくですけど、やめときます」
聞いて、ユウラが頷いたのが見えた。反対に隊長は腕を組むと、うーんと短く唸って、短く聞いた。
「何でだ?」
「命が惜しいんです。それに、軍って色々面倒そうだし」
「軍って言っても、お前が予想してるのとはたぶんだいぶ違う。面倒なのは中央――上層部のお偉方だけで、オレたち下層部は、そうだな……傭兵みたいなものだ。仕事を請ける請けないも自由。請けた仕事を途中で放り出すのも自由。ま、そういうことすると後々仕事をくれなくなるけど、そうなったら別の仕事を探せばいい。あちこち飛び回るから、お前のことを知ってるやつとか探すのにも都合がいいと思うけどな」
「はあ」
隊長は是が非でもランテを白軍とやらに入れたいらしい。その勢いに押されてランテは生返事をしたが、どうやらそれが失敗だったようだ。隊長はひとり頷くと笑った。
「ま、話だけでも聞いてみろよ。オレたちはちょうど仕事明けでこれから支部に戻るし。どっちみちお前も、いつまでもこんなところで寝そべってるわけにはいかないだろ?」
「それはそうですけど」
「じゃ、決まりだ」
組んでいた腕を解いて、隊長はもう一度笑んだ。本当に親しみやすい笑顔だ。全開で笑っているわけではないのに、なぜかランテをほっとさせる。ランテがこの人について行くことを断らなかったのは、半分は場の流れだが、半分はこの人なら信じてもいいような気がしたからだ。
「隊長! 本気なの?」
もちろん、ユウラだった。隊長は一瞬の迷いも見せずに頷くと、ユウラが握ったままの黒い布袋、つまりランテの財布を指差した。
「ほら、ユウラ。返してやれよ。これじゃほんとに盗賊団だ」
「分かってるわよ」
財布が投げ返される。右手で取ると、ぱしっといい音がした。ちょっと痛かったことは黙っておくことにする。これ以上ユウラのランテに対する評価を下げたくはない。既に下がりようがないかもしれないが。
「自分の身は自分で守りなさいよ。あたしたちは、あんたの護衛の任を受けたわけじゃない。【黒獣】が出たって、あたしは助けないから」
ユウラが言い放った言葉の中に、また知らない単語が出てきた。何のことだろうと頭を悩ませていると、表情で気づいたのだろう、ユウラの隣の小さい男性――確かテイトだったか――が、丁寧に説明してくれた。
「黒獣とは、われわれの敵に当たる組織が生み出す化け物のことです。最近では境からほど遠いこの地域にも出没するようになっていて。もし遭遇したら、なるべくお守りします。しかし群れとなって出てくることもあるので、道中気を抜かないようにしてください」
「分かりました。ありがとうございます」
化け物の一言で、よく分かった。それらしきものが出てきたら、とにかく逃げておけばいいと。このテイトという人は、隊長よりも少し年上に見える。背は低いが、大人特有の落ち着きや静けさを持っている。
「さあ、支部はここから北へ半日のエルティにある。日が沈む前に着くよう急ごう」
促されて、ランテは立ち上がった。地面を踏みしめる感覚が久しいような錯覚に陥る。もう一度周囲を見渡してみた。ここで倒れるまで、自分は一体どんな人間でどんな生き方をしてきたのか。それを知る術は今はない。少々心細くはあるが、目覚めたときからずっと続いている宙を漂うような浮遊感のおかげで、今のところ恐怖を感じることはない。この不思議な感覚がいつまで続くのかは分からないけれど、今のランテには目の前に現れる道をたどることしかできない。握ったままだった剣を、腰のベルトに挟む。その柄を握ってみた。ひやりと冷たい。
「ランテ、遅れるなよ」
隊長の声に顔を上げると、ちょうど風が吹いた。後ろから背中を押すような、そんな優しい風だった。誘われて、一歩足を踏み出す。地は、確かにランテを支えてくれていた。
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