第6話:無関心
「私ね。小一の頃から親の意向で塾に通わされてて、放課後に友達の家に行ったり、休日に誰かと遊んだりしたことなかったんだ。おかげで成績はそこそこ良かったけれど、今度は『アンタの態度が気に食わない』って、言動にも口出しするようになってきて。母親と一緒にいる時間がとにかく苦痛だった」
ただ、途中から私への興味は三つ下の妹へと移っていった。妹は勉強を強いられることもなく、毎週のように土日は誰かと遊びに出かけていた。母親とも仲良しで、妹が怒られているところを見たことがない。
「放任されるようになって、ようやく私も『このままじゃヤバい、見捨てられる』って思ってね。高校受験は超頑張ったよ。
その甲斐あって、私は伊佐神高校に無事合格した。それまでの人生で一番の成功体験と胸を張って自慢できる。
速達で届いた合格通知を、私はいの一番に母親に見せた。
「その時、なんて言われたと思う?」
おめでとう。
頑張ったわね。
あなたは自慢の娘よ。
祝ってくれるとは限らないことも予想していた。「家から遠いけど、ちゃんと通えるの?」「部活には入らないでよ。お金がかかるから」なんて嫌味を言われることくらいは覚悟していた。
しかし、母親の口から放たれた言葉は、私を失意のどん底へと叩き込んだ。
「アンタ、伊佐神受けてたの?」
彼女の私への興味は、とうの昔に消失していたのだ。
ちゃんと両親一緒にいる時に、学費のことも説明していたのに。
入学後の私は、半ばヤケクソだった。高校生活のすべてを勉強と生徒会に捧げた。成績は常に上位十位以内で、生徒会の仕事は会計以外にも、力仕事も雑務もこなした。おかげ で教師陣からの信頼は厚く、屋上の鍵をこっそり拝借できるくらい、堂々と職員室に出入りできた。反対に、母親との関係は一層冷え切ったものになっていった。公立中学に進んだ妹は相変わらず悠々自適で、勉強もそこそこに、遊びに精を出していた。
「屋上から飛び降りることはずっと前から決めていたことだけど、一応大学受験はしたよ。勉強だけが取り柄だったしね。余裕で国立大学に受かった。でもやっぱり今回も、母親の反応は三年前と一緒だった。ある意味清々したけどね」
あの家に、この世界に、私の居場所はない。
ここまで無言を貫いていたベスは、団子を嚥下して立ち上がり、私の腕を取る。
「え、ちょ、なに」
酩酊で足元がふらつく。視界が歪んで、五感がふわふわしている。
私は木の前に立たされた。目の前には堂々とした幹が、悠然と存在感を主張している。
「どう思う?」
「は?」
「この桜を間近で見て、どう思った?」
「そりゃ、やっぱりきれいだって……」
「よく観察してみろ」
頭をぐい、と幹に近づけられる。
木の表面や裂け目に、もぞもぞと蠢く無数の影があった。これは酩酊感による錯覚ではない。
「……って、虫じゃん!」
慌てて私は頭を元の位置に戻す。
二センチくらいの羽虫は、全身が黒いものと、頭部が赤く、背中が白っぽいものの主に二種類。カメムシのようなフォルムをしており、ひし形の甲殻は光沢を放っている。
「こいつはサシガメという種類の昆虫で、木についている毛虫などを捕食するんだ。刺されると激しい痛みに襲われることで有名で、殺人カメムシなんて異名でも呼ばれている」
「そんなものを見せないでよ! 間近で!」
酔いも一瞬で醒めるほどの情報である。
「吸血性のタイプもいて、感染症の媒介となるケースもあるようだ。発症すると炎症やリンパ腫に始まり、最悪、急性心筋炎・髄膜脳炎で死亡する例も報告されている」
日本の、しかももっとも見慣れた木にこんな虫が張りついていたなんて知らなかった。植物と虫がセットなのは当たり前だけど、いざ目にしてしまうと正直気持ち悪い。
足元に目を逸らすと、芝生の一部が淡いピンク色に塗り替わっていた。今日は絶好のお花見日和だが、逆にいえば散り始めの時期でもある。
よくよく見ると、花弁が湿った土にまみれてぐちゃぐちゃになっている。まるでこびりついた汚れのようだ。そういえば、毎年商店街で散った花びらを掃除しているおじいさんがいたな。去年の夏に亡くなったらしいけど、今年は別の誰かが掃除をするのだろうか。
「どうした? まるで汚らしいものを見るかのような目をして」
私の心を見透かしたように、ベスはニヒルな笑みを浮かべる。
「……何が言いたいのよ」
「お前がずっと憧れてきた命の象徴など、所詮はこの程度で揺らぐものだったということだ」
「別に揺らいでなんか……」
「そうか? 僕は嫌だがな。飛び降りる瞬間、最後にこの桜が目に入って、サシガメや泥まみれの花を思い浮かべながら死ぬなんてまっぴらごめんだ。それなら太宰治のように、玉川上水の桜並木に囲まれながら入水した方がよっぽど雰囲気があるじゃないか」
あの屋上でなければならない。そうじゃなきゃ、そもそも今自殺する意味なんか――。
本当に、今じゃなきゃ駄目なのだろうか。
いや、考えるまでもない。あの家族に囲まれて生き続けるなんて、もう耐えられない。でも、認めてほしいという気持ちも捨てきれない。
認めてほしい。褒めてほしい。許してほしい。笑ってほしい。喜んでほしい。
愛されたい。
「もはや執着だな」
横から入ってきた、ベスの軽口で我に返る。いつの間にか考えが口に出ていたらしい。
「どうせ死神のあなたにはわからないわよ」
「僕にはずっと気になっていたことがある。お前に限らず、人間全般に言えることだが」
ベスはアシンメトリーの前髪をかき上げ、私に尋ねた。
「なぜ親や家族にこだわる必要があるのだ?」
その瞳には、嘲笑や侮蔑といった色は一切含まれておらず、純粋な疑問の眼差しだった。
「お前が苦しんでいる原因のすべては家庭環境にある。優秀な成績を収め、生徒会で活躍し、模範的な生活態度でいるのにも関わらず、親は一向にお前を見ようとしない。ならば家を出ればいいじゃないか」
「……そんな簡単な話じゃないよ」
「お前の成績なら、大学で返済不要の奨学金を得られるだろう。生活費くらい、アルバイトでどうにでもなる。お前はストレスから解放され、適度な忙しさに追われ、自殺を考える暇もなくなる。これ以上に簡単かつ明瞭な答えがあるか?」
「そうじゃない!」
そうじゃない。
私は。
「私は、愛されたいんだよ……」
「親でなければならない理由はなんだ? 母親は、父親は、妹は、お前の所有物か? 違うだろう。あいつらはお前とは別の意思を持ち、お前にちっとも関心を持たない、ただの別個体に過ぎない。あいつらの下に生まれたのがたまたまお前だったというだけの話だ。神の悪戯でも恣意的なものでもなく、ただの確率論だ。お前があいつらに愛されなければならない義務など存在しない」
確率とか、義務とか、そういうのじゃないだろう。
親や家族の代わりなんていない。
ただ、そう答えるのは、自分で自分を縛るだけのような気がしていた。
「この国には一億三千万の同族がいる。世界でみれば、実に七十億だ。年齢も肌の色も性格も容姿も好きに選べるのだぞ。代わりなんていくらでもいるのに、他人を無碍にする必要がどこにある。他のやつらはお前の家族より親切にしてくれるし、お前のことを好きになってくれる可能性は高い。お前が卒業すべきなのは高校でも人生でもなく、既成の価値観じゃないのか?」
頬を、温かい液体が伝っていた。
シャツの襟が濡れている。袖で顔を拭うと、制服に大きな染みができた。
論破されたことも悔しかったし、家族に固執している自分が情けなかった。でも、不思議と悲しい気持ちはなかった。
きっと今の私は自信がなくて、否定されていることには慣れていても、やっぱりいちいち傷ついている。そして、受け入れることにはもっと恐れを抱いている。生きているだけで苦痛なのだ。死ぬことの方が楽だと思ってしまうくらいに。この世を地獄だと勘違いしてしまうくらいに。
だったら現状を抜け出す方法はひとつしか残されていない。
私は丘の頂上から、向かいを眺める。
見慣れた校舎の屋上には誰もおらず、もの寂しい感じがした。
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