第4話:pique-nique
最低だ。最悪だ。
大嫌いだ。
「もうヤダ……」
この日、私は久しぶりに泣いた。
自分の部屋で枕を顔に当て、声を押し殺すように。
悔しくて、情けなくて、恥ずかしくて、怒りはすぐに悲しみへと変化した。
ベスはきっと正しい。
「自殺する勇気があれば、何だってできる」なんて言うけれど、生きるなんてのは、死ぬよりよっぽど勇気がいることだ。生きる限り、ずっと頑張らなきゃいけない。
逃げずに立ち向かうこと。現実に精一杯抗うこと。
そんな勇気、私にはもう残っていない。
「……夜ご飯、食べなきゃ……」
階段を下りてリビングに入ると、母と妹は既に食事を始めていた。
「それでね……」
「うんうん、……あ」
私が来ると、いつも会話が止まる。
昔から、この瞬間が大嫌いだった。
まるで異分子が紛れ込んだみたいに、家族というシステムの動作がぎこちなくなるのだ。妹はすぐに話を再開するけれど、どこかちぐはぐだ。さっきまでとは違う話題に転換したのだろう。私がいる間は、いつも当たり障りないことばかりをしゃべっている。プライベートなことを、私に知られたくないのだ。
私のお皿にちょこんとあるハンバーグは、食べかけの妹のものより二回り小さく、デミグラスソースもかかっていない。パサパサのひき肉の塊を箸で半分に割り、ご飯をかっこんだ。肉汁や脂気など皆無だ。
夕食は五分とかからず終わった。コップ一杯の水を飲み、自分の食器を洗い、逃げるようにリビングを後にする。まあ実際、逃げたんだけど。ついでに明日は人生からも逃げるんだけど。
最後の晩餐がハンバーグなんてツイてない。明日は登校中に買い食いでもしてやろうか。
明日も、ベスは屋上にいるのだろうか。
冷静に考えてみれば、ファミレスで男にアイスティーをぶっかけるなんて、傍から見たらカップルのケンカだ。もうあのお店には行けないな。
きっとベスは怒ってない。それどころか「自殺志願者に常識的な言動など期待していない」なんて、軽薄な笑みとともに毒舌を吐きそうだ。
翌朝、コンビニのイートインでフライドチキンを二本たいらげた。朝食に一人でフライドチキンを食べる女子高生なんて日本で私だけではなかろうか。
いつもの時間に登校し、ホームルームが終わってからは、何度目かの卒業式の予行演習である。今日は証書の授与以外は省略せず、ほぼフルバージョンでお届けしたのでお昼近くまで体育館にすし詰め状態だった。
教室に戻ってからは即解散となったが、すぐに帰ろうとする子はなかなかいない。明日の打ち上げ場所を相談したり、フライング気味にデジカメでみんなを撮りまくったり、机上でカードゲームを始めたり。担任も咎める様子はなく、誰もが残り少ない高校生活を精一杯噛みしめている。窓の外では、桜の花びらが小さく舞いながらゆっくり地面に落ちていく。
私は誰にも気づかれることなく教室を後にし、屋上へと向かう。階段をのぼりながら、胸ポケットから合鍵を取り出した。屋上の鍵は春休みの間に工事で取り換えられる。つまり私がここに来られるチャンスはあと二日しか残っていない。
今日私が死んだら、明日の卒業式は予定通り実施されるのだろうか。他の三年生には悪いけれど、今さら中止するつもりはない。あの美しい一本桜を眺めながら、せめて穏やかにこの世を去るのだ。死神との邂逅というイレギュラーはあったものの、言ってしまえば昨日は自殺の予行演習。今日が本番だ。
「もう来ないと思っていたのだがな」
貯水タンクに背中を預けながら、ベスはスティック状のチーズケーキをかじっていた。その瞳には怒りも軽蔑も込められておらず、ニュートラルだ。
「そんなわけないでしょ。私はここで死ぬために、今日まで生きてきたんだから」
ベスに死神としての仕事があるように、私にも人としての矜持というものがあるのだ。今さら自殺を止めるつもりも、場所を変更するつもりもない。
それでも、物事には順序というものがある。
私は金網の方ではなく、ゆっくりとベスに歩み寄った。
「……なんだ」
小さく呼吸をして、ゆっくり私は頭を下げた。
「昨日はごめんなさい」
口で勝てないからといって、
「なぜお前は謝っている?」
「え?」
「お前は僕の発言に腹を立て、アイスティーをかけた。それの何が悪い?」
「だって、いくらムカついたからって、あの行動は人としてどうかと……」
「なぜお前が他人に配慮する必要があるのだ。僕はお前に心配されるほど弱くはない。勝手に相手を見下すな」
相変わらずのトンデモ理論だが、謝罪されることはベスにとって不本意なものらしい。
「まぁ、お前に謝意があるというのなら……」
ベスは背中に手を回し、がさごそとまさぐっている。今さら何が出てきても驚きはしない。出会ってまだ二日というのに、私はすっかりこの人ならざるものの存在に慣れてしまっていた。
映画や漫画に登場する死神は、やたら地上の音楽を愛したり、執事だったり、刀で戦ったり、リンゴをばくばく食べたりと、いずれも面白おかしく描かれていた。でも不思議と愛嬌があって、作品を読み進めるうちに、誰もがその死神のことが好きなっていくものだ。
ところが私が実際に関わりを持ったこの少年は、無愛想で、相手を心底見下していて、何者にも振り回されない太い芯を持っていた。人とは根幹から異なる、絶対にわかり合えない存在。
だが今の私にとっては、親より教師より友達よりも、一緒にいて心が安らぐ存在だった。
ベスは黒い物体をこちらへ放り投げた。人の背中ほどの大きさのそれは、両手でキャッチしてもずっしりと重く、私は中腰になってようやく受け止めることができた。
「……リュックサック?」
ぎゅうぎゅうに中身の詰まったリュックは、触れた箇所によって硬かったり柔らかかったりして、まるでおもちゃ箱のようだ。
「えっと、どこかに出かけるの?」
それとも、黄泉の国への旅立ちグッズ一式でも詰まっているのだろうか。
ゆっくりと立ち上がったベスは、いつのまにか私が持っているものよりもさらに大きな背嚢を背負っていた。おまけにサンバイザーまで装着している。
「これからピクニックに行くぞ」
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