恋愛ウイルス蔓延中4
午後七時二十分。こんな時間になってしまったが、バイトをするために店へ向かう。引き戸を開けると目の前のカウンターに瀬川君が座っていた。聞くと、店長は約三十分前に出て行ったらしい。
私が出勤したことを確認すると、瀬川君はさっさと自分の部屋へ消えた。私が今日遅れた理由は聞かなかったが、もしかしたら店長が教えていたのかもしれない。仕事に遅れる理由として、店長には説明しておいたのだ。
瀬川君が自室に戻って何分経っただろう。温かい紅茶がアイスティーになるくらいには時が流れたらしい。私は考え事に耽っていて、目の前のファイルの整理は一文字も進んでいなかった。
無意識のうちにくるくるとペンを回す。そういえば、店長って轟木さんのことでまだ隠してることがあるんだよね。鳥山さんが追及したくらいじゃ教えてくれなかった。信じているとは言ったが、気になることは気になる。
店長といえば、花音ちゃんのこと、どうしよう。そろそろ今の恋に決着をつけたいと言っていた。それって告白するってことだよね。今告白しても望み薄だと思うんだけど……。
でも花音ちゃんもきっと焦ってるんだ。そりゃそうだよね。九年ってそんな軽い時間じゃないよ。もしかしたら十年目を迎える前にケリをつけたいのかもしれない。
花音ちゃんの九年間の想い、叶うように私もできるだけのことをしてあげたい。でも私に何ができるの?店長を攻略する方法を知ってたら、そんなのとっくに教えてるよ。
そうだ、独尊君。私は彼の恋も応援しなくちゃいけないんだった。独尊君の好きな人は花音ちゃん……。でももし花音ちゃんが店長に告白してふられたら、独尊君にも可能性があるのでは?いやいや、そんなこと考えちゃだめだ。私は独尊君を応援しているけど、花音ちゃんも応援しているんだから。……二人とも幸せにはなれないんだね。
独尊君はまず花音ちゃんと知り合いになるところから始めないとね。花音ちゃんの帰り道に偶然会うというあの計画、上手くいくだろうか。上手く出会えたとしても、その場限りになったら意味がない。なんとかして次も会えるようにしなければ。
そうだ、いいこと考えた。私が中心になって、花音ちゃんと独尊君を遊びに連れて行けばいいんじゃないか?何でも屋の集まりみたいな感じで。なら唯我さんも誘った方がいいな。でもそうなると男女比が微妙か……。瀬川君……は来てくれないだろうし、だとしたら……藍本さん?でも私藍本さんを誘うほど仲良くないし、連絡先も知らない。他に何でも屋関係で同じくらいの年の知り合いいないしなぁ。でも女の子三人に対して男の子一人じゃ、独尊君が参加しにくいだろうし。
メンバーは追々考えるにしても、これはすごくいいアイディアだなと思った。私達には何でも屋という繋がりがあるし、大勢で遊園地にでも行けば盛り上がって距離も近付くだろう。この思いつきは後で独尊君にも伝えよう。……と言っても、私は彼の連絡先を知らないので次に会った時となるが。
そういえば、今日は新たな恋の相談が舞い込んでしまったんだった。スフレちゃん、普段の話しぶりからキプツェルさんのことが好きだということには気付いていたが、こうして正式に相談されたからには手伝う他ない。と言っても私はキプツェルさんのことほとんど何も知らないから、アドバイスらしいアドバイスはできないが。
スフレちゃんは元気と明るさがから回っているところがあるけれど、意外に普通の女の子だ。爆弾に興味があるというのはちょっと異常かもしれないけど、職業柄仕方のないことだと思う。それに、同じ研究所の人なら彼女の奇怪な趣味も理解してくれることだろう。いや、むしろキプツェルさんにも変な趣味があってもおかしくはない。
とにもかくにも、キプツェルさんの性格を知らないのでなんとも言えない。スフレちゃんの話からかい摘んでみると、面倒臭がりだけどキレイ好きで、たいした経歴もないけど所長の助手で、料理は下手だけどお菓子作りは上手い……だったっけ。うん、挙げて並べてみたけどよくわからん。
回していたペンがポロッと手から落ちて、私は我に返った。ずいぶん長いこと考え事をしていた気がするが……。私はカウンターの上に転がっているペンを拾い上げた。やらなくてもいい仕事だとしても、出勤したからには少しくらい進めないとね、ファイル整理。
内容をまとめる為に一度全文に目を通す。しかし何度読み直しても内容が頭に入ってこなかった。だめだ、今日は集中できない日だ。
私はカウンターにファイルを投げ出すと、潔く考え事に没頭した。
恋愛か……。相手に好きになってもらうには、やっぱり相手にとって自分の存在が大きくないといけないよね。その点ではスフレちゃんはクリアしているんじゃないだろうか。店長だって花音ちゃんがいなくなったら困るとは思うが、それとこれとは別か。独尊君に至っては花音ちゃんと知り合いでもない状態だ。
九年間片想いっていう花音ちゃんはレアケースだから別に考えた方がいいかな。でも花音ちゃんには店長以外の男性にも目を向けてもらわないと、独尊君に勝ち目はないわけだし。いやいや、何度も言うけど、私は独尊君も花音ちゃんも応援しているのであって……。
「!」
私は唐突に現実に引き戻された。背後で足音がしたのだ。おそらく瀬川君が店に出てきたのだろう。そう予想してすぐに、瀬川君が本棚の前に姿を現した。
「何か探し物?」
「うん。資料が抜けてるところがあって」
カウンターに座ったまま、瀬川君の背中に話しかける。瀬川君はしばらく視線を左右に彷徨わせていたが、ちょっと背伸びをすると高いところにあったファイルを一冊抜き取った。その場で開いて中身を確認している。
私はしばらく瀬川君の後ろ姿を眺めていたが、ふと思いつきで唐突に尋ねてみた。
「そういえば、瀬川君には好きな人いる?」
何故だろう。空気がピシッと音を立てて固まった気がする。
瀬川君はゆっくりとこちらを振り返ると、たっぷり間を空けて一言呟いた。
「……………………何で?」
「いやぁ、何でと言われると……。いるんならアドバイスとか貰おうかなぁ……って。友達から恋愛相談されちゃってさ。三件くらい」
凍りついた空気に耐えられず、言い訳がましくそう説明する。私何かおかしなこと言っただろうか?突然聞いたからだめだったのか?
「あ、でも仕事忙しいしね、そんな人いないよね」
この話題はまずいのだと察知してとりあえず話を終了させる。顔色を伺おうと瀬川君を見ると、予想外の表情をしていて息が止まるかと思った。
「荒木さんには教えられない」
瀬川君は少し目を細めて口元を緩めて言った。あの瀬川君が、あの瀬川君が笑っているのだ!
「はぁ……」
それしか言えないでいると、瀬川君は目的のファイルを持ってさっさと奥へ戻ってしまった。私はしばらくそのままの姿勢で固まっていて、店長が帰ってきた音でようやく我に返った。
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