融解、そして凍結
日比谷さんは屋上のドアを開けてすぐ上を見上げた。ようやく見つけた神原さんは、階段室の上であぐらをかいていた。よく漫画の主人公が屋上で昼寝をしているあの部分だ。
「神原、お前倉庫Bの鍵持ってるだろ。返せ」
「そういや持っとる気もしますわ。すっかり忘れとりました」
そうは言いつつも、神原さんは懐から鍵を探そうとはしなかった。無駄だろうと思いつつも、私も要件を伝える。
「神原さん、私のスマホもいい加減返してください」
「帰るとき返すて言うたやん」
「そろそろ帰りたいんですけど」
神原さんはその言葉には聞こえないふりをした。私の隣で日比谷さんがため息をつく。
「仕方ないな」
呆れ気味にそう呟くと、日比谷さんは階段室の上に登る梯子を登り始めた。迷ったが私もそれについて行く。
私達が屋根に上がっても神原さんはあぐらをかいたままの姿勢を崩さなかった。彼の隣に立った日比谷さんが右手を突き出す。
「ほら、鍵返せよ。俺の名前で借りてんだから俺が怒られるだろ」
すると神原さんは、今度は素直に鍵を手渡した。
「今日はほんまに忘れとったんですわ。すんません。謝ったんで許してくれはりますよね?」
「そうだな。素直に謝るなんて珍しいからこれで許してやろう」
そう言って日比谷さんは神原さんの頭にゲンコツを振り下ろした。痛いと騒ぐ神原さんをスルーして、日比谷さんは私を見る。
「荒木さんもスマホ返してもらわなきゃだろ」
「そうでした。神原さん!私のスマホは!?」
「返すん嫌やで、帰る時て約束したやんか」
「それは神原さんが一方的にした約束でしょう!そんなの無効です!」
神原さんに詰め寄って手の平を突き出したが、彼はぷいと顔を逸らした。私は手の平を握り拳に変える。
「それとももう一発くらいたいですか?」
「暴力はあかん、暴力はあかんよ雅美ちゃん」
その時日比谷さんのスマホが鳴り、彼は通話を開始しながら私達から離れていった。私は固く握った拳をついに振り下ろす。
「あ痛!ちょ、雅美ちゃんそれ、一発とちゃうやん!」
「いいからスマホ返しなさい!」
神原さんは頭部を両手でガードしたが、私はその腕にボカボカと容赦なくパンチを繰り出した。すぐに、通話を終えた日比谷さんが戻ってくる。
「ごめん荒木さん、用があるから先行くわ」
日比谷さんは片手を上げて謝罪の意を表した。彼は次に神原さんに顔を向ける。
「お前早くスマホ返してやれよ。あとデスクの上のやつ十枚ずつコピーとっといて」
日比谷さんは神原さんが返事をする前に飛び降りるように梯子を降り、駆け足で建物内に戻っていった。その様子を見ていた神原さんはボソッと呟く。
「何や忙しそうやなぁ」
「そりゃそうですよ!神原さん探すのに二時間もかかったんですからね!」
「どうりでいつもより待った気ぃしたわ」
「あんたいつもこんなことしてるんですか!そのうち殴られるだけじゃ済まなくなりますよ!」
「せやかて日比谷はんいちいち探してくれはるんやもん」
「困らせてるのわかってるなら出てきてくださいよ!」
相変わらず狐みたいな顔をして笑う神原さんを見て、私はついにため息をついた。この人に何を言っても無駄だ。わかってたじゃないか私の馬鹿め。
私は立ち上がってお尻についた汚れを払うと、隣の神原さんを見下ろした。
「私そろそろ帰りたいんですけど」
「まだ全然案内してへんやん」
「十分堪能しましたよ。神原さんを探し回っているうちに」
ほとんど喫煙室めぐりだったが、ほぼ全ての階に足をつけたので気分的にはお腹いっぱいだ。それに、歩き過ぎて少し疲れてしまった。何せ六階から屋上までしらみ潰しに探したのだから。
「まぁ雅美ちゃんが帰りたい言うならしゃあないな。せや、終いに書庫見て行かへん?」
「じゃあちょっとだけ……」
神原さんは立ち上がると、危なかっかしく梯子を降りた。私もその後に続く。少し風が強くなってきたから慎重に。
建物内に入り、来た道を辿る。相楽家の住居である四十四階から上はエレベーターですっ飛ばしてきた。私達の乗るエレベーターは二十三階で止まり、ドアが開いて驚いた。大量の本棚がフロアいっぱいにひしめいている。
「うわ、すごいですね。これってどこに何があるかわかるんですか?」
「今はほとんどパソコンで管理してはるからここはあんまし使わへんねん」
どうりで静かなわけだ。人がほとんどいない。神原さんは一歩踏み出した。
「ここに隠れとると日比谷はんも絶対見付けられへんねん」
「そりゃそうでしょう……。というか、あんまり日比谷さん困らせちゃダメですよ」
神原さんはどんどん奥に進むので、私はなんとなくその背中について行った。今度こそ神原さんを逃してはならないという想いもあったのだろう。
部屋の真ん中には木製の素朴なイスとテーブルがあった。神原さんは慣れた様子でそのイスに座り、頬杖をついた。
「このテーブルな、ボクが持ってきてん。ここまで運ぶんしんどかってんで。本棚もずらさなあかんし」
「何でこんなどうでもいいとこだけ頑張るんですか。……で、ここに座っていつも何してるんですか?」
「本読んだり、ぼーっとしたり、昼寝したりやな」
「つまりサボってるんですね」
ため息混じりに言うと、神原さんは細い目を更に細めて笑った。
「この書庫ってどういう人が使うんですか?」
「機械に弱いお年寄りばっかやな。もうほとんど使われてへん。だからめったに掃除もされへん」
「その割にはきれいなような気がするんですが……」
私は辺りを見回してみた。掃除がされていないと言う割には、本も床もあまり埃が被っていない。
「この前店長はんが掃除しに来はったばっかりやからな」
「店長ってうちの店長ですか?」
「せやで。一月の店長会議で何や決まったらしいやん。報告書書かんかった罰やって?」
そういえば、今年の頭にそんなこともあったなぁ……。店長が轟木さんの依頼についての報告書を書かなかったことで店長会議に呼ばれたのだ。青龍店が罰を与えるべきだとうるさかったのでそういうことになったのだが、結局お仕置き内容は聞かされていないままだったな。
「店長一人でここ掃除したんですか?」
「ほんまは店の人みんなでやるべきやねんけど、朱雀店は社員おらんしな。代わりに陸男君が駆り出されてはったで」
「でも店長そんなこと一言も言わなかったですよ。言われたら手伝ったのに……」
「どうせアルバイトは立入禁止やから雅美ちゃんじゃ手伝えへんで。それに店長はんが何も言わんのはいつものことや」
そっか、どちらにしろ私と瀬川君では手伝えなかったのか。この広い書庫を掃除するのは大変だっただろう。陸男さんにも申し訳ないことをした。
「どんな感じで掃除してたんですか?……あ、神原さんは直接見てたわけじゃないのか」
「いや、ボク見とったで。ここに座って」
「え!神原さんが手伝ったんですか!?」
「せやから、ずっとここに座っててんて。頑張っとるなぁ思いながらずっと見とったわ」
二人が掃除している様子を手伝いもせず一日中見ていたのか?
この人暇すぎだろ……。
「何でそんなつまらないことしてるんですか。暇なんですか?ああ、暇なんでしたね」
「せやかて店長はんが本部来るなんて珍しいやん。いつもは僕から出向かな会えへんし」
「店長は神原さんには会いたくないと思いますけどね」
「うん、知っとるよ」
「神原さんって店長のこと好きなんですか?」
「大っ嫌いやで」
やっぱりこの人のことはよくわからないな。普通嫌いな人が掃除している姿を一日中眺めたりするか?だめだ、神原さんの思考回路を理解しようとするのはきっと間違いなんだ。
自分はここに居るから好きなところを見て来いと言われたので、本棚と本棚の隙間を適当に進む。かなり古い資料が並ぶ本棚を見つけたので一冊引き抜いて開いてみると、それは三十五年前の依頼内容をまとめたものだった。何でも屋の歴史は私が思っているよりもずっと古いらしい。
もしかしたら何でも屋創立当初の資料があるかと思い、なるべく古そうな資料が入っている本棚を探した。しかしいくら探しても、創立五年目より前の資料は見つからなかった。だいたい年代順に並んでいるから、この辺にあるはずなんだけど……。
仕方なくここにある中で一番古い資料をめくってみる。一九XX年で五年目ということは……何でも屋には四十七年もの歴史があったのか。その資料には盗みや殺しなどの犯罪絡みの依頼が多く、街の掃除やペット探しなどの平和的な依頼はごく最近のものなのかもしれない。
私は近くの資料を何冊か見てから、神原さんの待つ中央へと戻った。おそらくだが、ここにあるのは過去の依頼についての記録ばかりだ。
私が戻ると、神原さんは何かの資料を読んでいた。暇だった為その辺から持ってきたのだろう。私に気が付くと、神原さんはファイルを閉じてテーブルに置いた。裏向きに置いたのでファイルの表題は読めなかった。
「もうええん?」
「はい。見てたらキリがないですし」
立ち上がった神原さんに気になっていたことを聞いてみた。
「そういえば、創立五年目より前の資料が見当たらなかったんですけど……。そりゃ全部探さたわけじゃありませんけど」
神原さんはエレベーターへ向かいながら答えた。私もその後について行く。
「ボクも長いことここにおるけど見たことあらへんわ。たぶん社長室にあると思うんやけど」
「何で社長室にあるんですか?」
「それは社長はんにしかわからんで。人に見せたないんちゃう?」
神原さんはエレベーターに乗ると二階のボタンを押した。私達を閉じ込めた箱はゆっくりと下降する。
「そういえば、神原さんはさっき何読んでたんですか?」
「秘密や」
「何かいかがわしい物でも読んでたんですか?」
「そんなんちゃうもーん」
エレベーターが二階で停まる。ドアが開いてわかったことだが、これは最初に乗ったエレベーターとは違うものらしい。来た時に入ったトイレと最初に乗ったエレベーターは、おそらく真逆の位置にあるのだと思う。
なんとなく予想をしていたが、外に出る時もあのトイレの窓を使うらしい。神原さんは廊下を真っ直ぐに歩き出したので、私もそれについていった。どっちにしろ、受付のチェックも通行許可証もない私は玄関からは出られないのだ。
適当な角を一つ曲がって私は驚いた。顔には出ていないがどうやら神原さんも驚いているようだ。しかし一番驚いているのは、私達に驚かれた陸男さんだろう。
段ボール箱を抱えた陸男さんは、私を見ると目を真ん丸にして言った。
「荒木さん!?こんなとこで何してんだよ!」
「いやぁ、あの、ちょっと……」
陸男さんは私の返事にもなっていない曖昧な答えを聞くと、次に神原さんに目を向けた。
「お前な、お前の考えてることよくわかんねーけどこれはやっちゃダメだ」
「今から去ぬとこやさかい」
「そういう問題じゃねぇだろ。あんな……」
陸男さんが何か続きを言う前に、角を曲がったところにある部屋から段ボール箱を抱えた男性が一人出てきた。どうやら倉庫か何かのようだ。
「陸男くん、これじゃないかな……あれ?その子何?」
倉庫から出てきた中年の男性は、私に目を向けるとクエスチョンマークを浮かべた。どうやらこの人は本部の人間の顔をそこそこ覚えているらしい。見かけない顔を見て不審に思ったのだろう。
陸男さんがすぐさま答える。
「ああ、うちの子です。春から黄龍勤務予定なんで見学に……」
「ああそうなの。でもね、案内人は選んだ方がいいよ」
「はは、そうっすね」
男性は訝しげな目で神原さんを上から下まで眺めると、倉庫の中に戻ってしまった。陸男さんは小声で私に「早く帰れよ」と言うと、男性の後を追った。どうやら倉庫の中で探し物をしているらしい。
神原さんが逃げるようにその場を後にしたので、私も慌ててついて行った。
「やっぱり私ってバレたらダメだったんですね」
「見つかったのが陸男君で良かったわ」
神原さんは吸い込まれるようにトイレへ入っていった。私は周りを見回してからこそこそと入る。私がトイレに入ると、神原さんはすでに窓枠に足をかけていた。
神原さんは次々と足場を変えていき、ストンと地面に着地する。私も恐る恐る下に降りてゆく。
ようやく地面に足がつき一安心する。そういえば神原さんはなぜ外に出たのだろう。まさか私を駅まで送ってくれるだなんて、そんな気遣いができる人でもないだろう。
「神原さんは何か用事あるんですか?」
「別に何もあらへんよ」
「じゃあ何で外に出たんですか」
「散歩や散歩」
私はその返事に半信半疑の眼差しを向けた。あまり深く考えないようにしよう。時間の無駄だ。私は駅へ向かうべく歩き出した。
「そういえば早くスマホ返してくださいよ」
「正直雅美ちゃん忘れとったやろ」
「わ、忘れてませんよ……」
途中で書庫に寄ったせいでスマホの存在は忘れていたが、今思い出したんだからセーフだ。それに、そもそも書庫に連れて行った神原さんが悪い。
「いいから早く返してくださいよ」
「家に帰るまでが遠足やで」
「遠足じゃないんで今返してください」
隣を歩く神原さんに右手を突き出すが、彼はその手をかわして、ふいと踊るように数歩駆けた。三メートル先でこちらを振り返る。なんて自由人。
歩いて追い付くと、神原さんはまた私の隣に並んで歩き出した。一体いつスマホを返してくれるのだろう。というか、この人どこまでついて来るんだろう。
駅につけばスマホも返してくれるかもしれないという期待をする。それまでとりあえず会話でもしようと、隣の神原さんを見上げた。
「神原さんは毎日ふらふらして遊んでるんですか?」
「そんなことないで。ボクかて真面目に仕事しとるもん」
「仕事ないって言ってたじゃないですか」
「日比谷はんが気張って仕事くれはんねん」
「じゃあもっと有難がって仕事しなきゃ駄目ですね」
今何時だろう。スマホで時刻を確認しようとカバンに手を突っ込むが、そういえばまだ返してもらってないんだったと入れた手を抜く。手持ち無沙汰に宙を浮く右手は、道に迷うようにふらりふらりと高度を落とした。店長や瀬川君は、連絡もなしにバイトに来ない私を心配しているだろうか。
「今何時ですか?」
「何時やろ。三時くらいちゃう?」
「神原さんスマホ持ってるでしょ。正確な時刻教えてくださいよ」
「しゃあないな」
神原さんは懐からスマホを取り出したが、それは私のではなく彼自身のものだった。カバーもストラップもつけていないシルバーのスマホのディスプレイに【14:58】と映し出されている。
「もうこんな時間なんやな。ボクお腹減ったわ」
「さっき食堂行ったとき何か食べれば良かったじゃないですか」
「あん時は空いてへんかってん」
「じゃあさっさと私にスマホ返してファミレスでもどこでも行ったらどうですか」
「雅美ちゃんボクあれ食べたいわ。な、あそこ入ろ」
「嫌です。早く店に帰らないと店長達心配してるかもしれないでしょ」
神原さんはしょんぼりしながら、ファミレスの宣伝用の旗に書いてあった海鮮パスタを指していた手をおろした。私は当然のようにファミレスを素通りする。
神原さんがブーブーうるさいので、何でもいいから世間話をすることにした。このペースで行けば駅まであと十五分はかかるだろう。もっとさっさと歩いてほしい。
「そういえば神原さんって大学とか行ってたんですか?」
「行ってへんで。高校も中退や」
「何か病気でもしたんですか?それともサボりすぎて単位足りなくなったとか」
「一年生の夏に肺がんになってもうてな……。手術しても別の場所に移転してもうて、四年間も病院のベッドで過ごしてん。高校も辞めるしかなったわ。友達もぎょうさんおったのにな……」
「……それ本当ですか?」
「嘘やで。本部が正社員にしてくれるて言うから高ニで辞めてん。就職できたんやから学校行っとる意味も無うなったわ」
「将来何でも屋辞める可能性だってあるんですから、高校くらいは出といた方がよかったんじゃないですか?」
でもよく考えたら、六年前の冬に浮島円香さん殺害の依頼が来たんだから、高一の夏からガンで入院っていうのは有り得ないんだよね。ちょっと考えたらおかしいって気付くはずなのに、もしかして私って騙されやすいのかな……。
「神原さんってどこの高校に通ってたんですか?」
「どこやと思う?」
「えぇー。そんな分かるわけないなぞなぞ出されても……」
いや、もしかしたら今までの会話の中に手掛かりが散りばめられていたのかも。考えろ、考えるんだ私……!
「……考えたけどわかりませんでした。完全に勘ですけど、八尾風高校っぽいですよね」
「それどういう意味や雅美ちゃん」
「で、結局どこに通ってたんですか。別に知りたくはないですけど」
「華桜高校やで。京都の」
「京都の高校なんて知りませんよ。私野洲の人間ですよ」
「正直知らんて知りつつ聞いた」
「なぞなぞなら聞いたことある答えの問題にしてください」
華桜高校って京都のどの辺にあるんだろう。神原さんは昔京都に住んでたのかな。あと学校名が何か私立っぽい。
「神原さんって今どこに住んでるんですか?やっぱり本部の近くですか?」
「本部のねきに本部の人が多いさかい、隣の町に住んどるよ」
「アパート暮らしですか?っていうか、そもそも独り暮らしですか?」
神原さんが家族と生活している姿が想像できないので勝手に独り暮らしだと思っていたが、実家暮らしの可能性も十分にあるのだ。
「独り暮らしやで。親は京都に住んどんねん」
「やっぱり独り暮らしでしたか。神原さんが親と暮らしてるの想像できないですもん」
「六年前のまでは親と住んどったで」
「神原さんが学生っていうのも想像できないですね。学校も着物で行ってたんですか?」
「そんなわけないやん。制服着用は学生の義務やで」
「ちょ……神原さんのくせにまともなこと言わないでくださいよ」
神原さんとの実のない話も終わりが近付いてきた。ようやく駅が見えてきたのだ。普通に歩けば十五分で着くのに、神原さんがダラダラ歩くせいで二十五分もかかってしまった。
きっと駅に着いたらさすがにスマホも返してもらえるだろう。長い間一緒にいた気もするがついにお別れだ。その前に、少し気になっていたことを聞いてみようと思った。
「神原さん、ついでにもう一個聞いてもいいですか?」
「なんや?」
やっぱり聞かない方がいいかな、と一瞬怖気づいたが、ここまできたら聞いてしまった方がいいだろう。私はなるべく言葉を選んで尋ねた。
「どうして、その……浮島円香さんを殺したんですか?神原さんが自分でやりたいって言ったって聞いたんですけど」
「ああ、そんなことかいな。何事も経験は大事やろ?」
「した方がいい経験としなくてもいい経験があると思うんですけど……」
「いや、せんでもいい経験なんて無いで。全部経験しつくしてもまだ足らへんくらいや」
神原さんはそう言ったが、この人のことだから本心かどうかはわからない。いつだってはぐらかすし、嘘か本当かわからないこと言うし、おちゃらけた調子で話すから。
ただ、もう何度かこう思ったが、やっぱり神原さんの右側は歩くべきじゃないな。表情が全然見えない。
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