生傷まみれの世迷い事3




まぁすぐに帰ってくるだろうと思いつつ、私はもう一時間もここでぼーっとしている。神原さんが戻る気配は一向に感じられない。もうどっかその辺の窓から抜け出して帰ってしまおうかと思ったのだが、私は一度神原さんに会わないと帰れないのだ。理由がわからない人は一時間もぼーっとしていた訳を考えてほしい。私はスマートフォンを返してもらうまでは帰れない。

もうちょっとだけ待ってみよう。もう数十回これを繰り返した。ついに私はイスから立ち上がった。少しだけ残っていた水を一気に飲み干すと、コップをお盆に叩き付けるように置き、返却口に片付けた。食堂を出るときモップをかけていたおばちゃんが「またどうぞ」と言った。この一時間で、常連さんには「ありがとう」や「ごちそうさま」に対する「どういたしまして」、顔見知りでない人には「またどうぞ」だということを私は学んだ。

食堂を出たものの、さてこれからどうしよう。神原さんはどこにいるのだろう。スマホがなければ電話をかけることもできないし、そもそも私は彼の番号を知らない。この広い建物の中から一人の人を探し出すなんて……無謀だ。迷子放送をしてもらいたい。

一人で少し歩いてみて気付いた。これ、神原さんいない方が目立たないのではなかろうか?神原さんと歩いている時すれ違いざまにちらちらと見られていたのは私がよそ者だからだと思っていたが、今はちらりとも見られない。みんな私の横を素通りだ。でもまぁよく考えたら、この中を着流し姿が歩いていたらそりゃあ目立つだろう。

私一人なら目立たないとなれば、おどおどしているのは逆効果だ。私は本部の従業員になり切って廊下を歩いた。神原さんを探す方法はしらみつぶししかないと思っていたが、これならその辺の人に彼を見かけなかったか聞いてもいいかもしれない。人探しの基本は聞き込みだ。私は前から歩いてきた男性にさっそく声をかけた。

「あの、すみません。神原閻魔さん見かけませんでしたか?ちょっと用事があるんですけど電話が繋がらなくて……」

すると男性は一度知らないと答えたが、少し考えて「五階の談話室でごろごろしてるのをよく見かけるからそこに行ってみれば」という助言をくれた。私はお礼を言ってすぐに男性と別れた。顔を覚えられて後々厄介なことになったら困るし。

とりあえず目的地を五階の談話室に決め、廊下を進む。その最中も

何人かに聞き込みをしたが、みんな神原さんを見ていないようだ。

聞き込みをする時は若い人だけに声をかけるよう気をつける。基本的に年配の人はここに勤めて長いだろうし、「君は初めて見る顔だが……」なんてことになったら困る。それに若者の方が軽いノリで答えてくれる。

五階に下り見取り図を確認して談話室を見つける。中からは若い声が盛り上がっているのが聞こえてきた。そっとドアを開けてみる。

ドアを開けて中を覗くと、部屋の中の何人かがこちらを振り返った。だがすぐに仲間との会話に戻ってしまう。部屋の広さは高校の教室くらいで、大きなテーブルにイスやソファーがセットになっていくつか置いてある。複数のグループがテーブルに群がり、カードゲームや資料の確認をしていた。雰囲気も学校の休み時間と近いものがあり、年配の方は全くいなかった。

部屋を見回して神原さんがいないことを確認すると、私はドアを閉めた。ここにいないということは、また一から情報を集め直しか……。途方に暮れながら足を進める。すぐ近くの角を曲がるとき、向こうから来た人物とぶつかってしまった。

「ぎゃっ」

「うわっ!」

私はあまり可愛くない悲鳴を上げながら尻餅をつく。下を向いていた私も悪いが、相手もかなり急いでいたようだ。どちらが悪いかといえば、どちらも悪かったのだろう。

「悪い、大丈夫だった?」

どうやらぶつかった相手は男性のようで、尻餅をついた私を気遣った。私は素早く立ち上がる。

「すみません、ぼーっとしてて……」

「いや、俺も急いでて」

男性は二十代前半で、短髪でくりっとした目をしていた。彼は私に怪我がないのを確認すると、もう一度謝罪して去っていった。と思いきや、すぐそこの談話室のドアを開け、部屋の中へ向けて言った。

「おい、神原いないか?」

部屋の中の人達は口々に「来てない」や「見てない」と答えた。男性はその答えを聞くと、中には入らずドアを閉める。私は落胆する男性に近付くと声をかけた。

「あの……、もしかして神原さんを探してるんですか?」

その問いに男性は私の方を振り返った。あまり身長が高い人ではないので妙な安心感があった。

「神原がどこにいるか知ってるのか?」

「あ、いえ、実は私も探してて……」

この人も神原さんを探しているなら、私も一緒に連れて行ってもらえないかと思ったのだ。本部で働いている人なら建物の構造に詳しいだろうし、それにこの人ならたぶん、

「あの、神原さんに電話することってできないんですか?私神原さんにスマホ取られちゃって困ってるんです」

「ええ!?あいつほんとふざけた奴だからな……。でも俺がかけてももう出ねーんだよ。ごめんな。代わりに謝っとく」

「いえ、あなたが謝ることじゃありませんし……っ」

私は慌てて両手を振った。でも「代わりに謝る」だなんて、この人は神原さんの友人かなにかだろうか?小柄な男性は申し訳なさそうに眉尻を下げた。

簡単な話し合いの末、二人で神原さんを探すことになった。話の流れで、私はここで働いてまだ日が浅いため建物の構造に詳しくないということになってしまった。黄龍の従業員という設定にしてしまって大丈夫だろうか。

この男性は神原さんが行きそうな場所を回っている最中だったらしい。私達は六階の喫煙室へ向かうために廊下を歩いていた。

「そういや、ここで働いてるってことは十八歳以上なんだな。まだ高校生くらいかと思ってたよ」

「はい。……と言ってもこの間まで高校生だったんですけどね。ええと、あなたは……」

「ああ、俺日比谷っていうんだ」

「えっ!」

「どうした?」

「いえ、同じ名前の知り合いがいたものですから……」

この人あれだよ……。ここへ来た時からずっと神原さんのこと探してる人だよ……。神原さんも探されてるってわかってるのに一向に連絡しないし、この人について行って神原さんに会えるのかな?

「私は荒木です。日比谷さんはおいくつなんですか?」

「俺はもう二十七だよ。荒木さんから見たらオッサンかな」

私はもう一度「えっ!」と言いそうになったのを何とか呑み込んだ。てっきり二十二、三だと思っていたが、若く見えるものだなぁ。私は日比谷さんの言葉にとりあえず愛想笑いを返した。

六階の喫煙室に着いて、ドアを開ける。この小さな部屋は半分以上がガラス張りになっているので、ドアを開けなくても中の様子はわかるのだが、念の為だ。喫煙室内の空気は煙で少し白くなっていて、中央に灰皿が置いてあった。

中に神原さんがいないとわかると、日比谷さんはすぐにドアを閉めた。日比谷さんはよく神原さんを探しているのか、中にいたおっちゃんが「あんたも大変だな」と声をかけていた。

「すごい煙たかったですね」

「ああ。俺もタバコは吸わないから、あそこにいられる気持ちがわからん」

喫煙室は偶数階に一つずつあるらしく、次は八階の喫煙室を目指すようだ。ちょうど二階分真上にある喫煙室は、六回と全く同じ造りをしていた。ここにも神原さんはいない。次は十階を目指す。

「神原さんってよくいなくなるんですか?」

「そうなんだよ。まぁあいつにできる仕事なんてたかが知れてるからいなくても困らないんだけど、探すこっちの身にもなってほしいよな」

「日比谷さんは何で神原さんを探してるんですか?」

「あいつ倉庫の鍵持ってっちまったから返してもらおうと思って」

「私今日神原さんと建物の外で会ったんですけど……」

「社内のもんをほいほい持ち出すなって言ってんのに……」

やっぱり持ち出し禁止だよね、当たり前だけど。それに、神原さんが鍵を持っていたら、倉庫を使いたい人はどうするんだろう。

「日比谷さんは神原さんと仲良いんですか?」

「どうだろうなー。付き合いは長いけど」

「私はまだあんまり神原さんのこと知らないんですけど、けっこう他の人と仲良かったりするんですね」

神原さんって本部の中でも浮いているイメージがあったのだが、廊下を歩いていると彼に声をかける者も多かった。そのほとんどは二十代前半の若者で、神原さんに友達が多いことは少し意外だった。

「あいつらがしつこく話しかけてたんだよ。年配のおっちゃんおばちゃんは避けてる人が多い。若い奴らも神原の相手してんのはごく一部だよ」

「やっぱりあの性格は受け入れられにくいですか」

そう言うと、日比谷さんはキョトンとした顔をした。しかしすぐに何か納得したような表情に変わる。どうやら自己完結したようだ。

「荒木さんはこの仕事まだ短いの?だったらあいつとの距離はつかず離れずくらいにしといた方がいいよ」

「何でですか?」

「よくわからない奴だから」

日比谷さんはそう答えると、十階喫煙室のドアを開けた。

よくわからない人だから避けるというのは私の行動理念に反する。が、神原さんの場合はこの忠告に従っておこう。私は神原さんのことはよくわからないが、「よくわからない人」だということはよくわかっている。

「日比谷さんは神原さんのこと好きですか?」

どうやらここにも神原さんはいなかったらしい。ドアを閉めた日比谷さんに尋ねてみると、日比谷さんはちょっと悩んでから答えた。

「俺はあいつの世話係みたいなもんだからなぁ。でもまぁ、神原の方は俺のことそんなに好きじゃないんじゃないか?」

「なんでそう思うんですか?」

「小言多いし、よく叱るし、サボってる所探すし、俺四大出てるし。つうか、先輩なんて誰でも鬱陶しいものだろ」

「なんか神原さんがなまけ者なだけで、日比谷さんは普通の先輩なような気がするんですが……」

「まぁ俺は良くも悪くも一般人だからな」

一般人というなら私も超弩級の一般人たが、この仕事を続ける程、何か抜きん出たものがあればよかったなぁと、才能への憧れが強くなる。「良くも悪くも」と言った日比谷さんだって「良い」とは思ってないのではないだろうか。凡人は誰だって天才が羨ましい。

日比谷さんは十一階視聴覚室のドアを開けた。ここにも神原さんはいなかった。階下から順に探しているが、どこかですれ違っているのではと不安になってくる。

努力するほど才能の違いを感じる。凡人にはないものを天才は持っている。天才の持つ先天的資質が、妬ましくて仕方がなかった。




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