生傷まみれの世迷い事
十月四日。日曜日。午前十時三十五分。今日も今日とてバイトへ向かっている私は、店までの道のりをてくてくと歩いていた。店まであともう五分という場所で、見知った顔が待ち伏せしていることに気が付いた。ここは前に神原さんが巡り合わせがなんちゃらと冗談を言った道だ。私は露骨に顔をしかめながら、目の前でうろうろしている着流し姿に声をかけた。
「神原さん、何してるんですか」
「雅美ちゃんやん、おはようさん。こないなところで会うなんて偶然やなぁ」
「そうですね」
私は冷ややかにそう返し、今日は何をしに来たのかもう一度尋ねた。
「何やえらい暇やったしな、散歩しててん。雅美ちゃんも一緒にどない?」
「遠慮しときます。黄龍ってそんなに暇そうには思えないんですけど、こんなところで油売ってていいんですか?」
「でもな、ほんまに暇やねん。忙しい人は忙しなく動いてはるけど、ボクは暇やねん」
「神原さんって本部にいる意味あるんですか?」
「業務的にはあんまし無いかもなぁ」
私はわかりやすくため息をついた。この人には何を言っても無駄だったな。神原さんに劇的に効果のある言葉が何かあればいいんだけど。
私は肩にかけた鞄の位置を直した。この人に構うのは時間の無駄だ。さっさと店へ行ってしまおう。
「それでは、私もう仕事に行くんで」
「ちょっと待ちいな雅美ちゃん。店行ってもどうせ仕事あらへんのやろ?」
神原さんが私の鞄の肩紐を掴み、私はそれを素早く振り払う。
「そりゃ依頼はないですけど……雑用がいっぱいあるんですから」
「そんなん掃除とファイルの整理やろ?いつでも出来るやん」
「神原さんとなんの得にもならない話するのだって、いつでも出来ると思いますけど」
私がそう言うと、神原さんは開いているのか開いていないのかわからない目を細めて、ただ笑っただけだった。
「そういや雅美ちゃん、黄龍で働かへん?本部は楽しいでぇ」
「またそれですか。何度も言いますけど、私は朱雀店が好きなので本部には行きません」
「実際働いてみると本部の方が楽しいかもしれへんで?」
「たとえそうだったとしても、私は朱雀店を選びます」
きっぱりはっきりそう宣言すると、神原さんは肩をすくめて「頑固やなぁ」と言った。この人は二言目には黄龍へ来いという。いったいこの数カ月で何度その勧誘を断ったことか。
正直、私なんかが本部に必要だとは思えない。仮に本部が人手不足だったとしても、私の他に勧誘すべき人材がいくらでもいるだろう。私以外にも声をかけているのかはわからないが、朱雀店が好きとか以前に、神原さんの真意がわからないので信用ならない。初めて会った時から思っていたが、この人は本当に何を考えているのか理解不能だ。あるいは何も考えていないのかもしれないが。
私がこっそり神原さんを観察していると、彼は閃いたという顔で手を打った。
「せや、なら一度本部に見学に来てみるのはどうや?」
「見学……ですか?」
その二文字に思わず食いついてしまう。歩き出そうとしていた足は完全に停止していて、耳は神原さんの次の言葉に集中している。
「実際に建物の中と見てみたら気ぃ変わるかもしれへんやろ?」
「建物の中なら私見たことありますよ」
「他の人が働いとる様子とか見たことないやろ?ボクが案内したるわ」
私は神原さんの提案をよく噛んで考える。確かに、本部の中を見てみたいという気持ちはある。しかし相手はあの神原さんだ。何か裏があるに違いない。だけど、花音ちゃんですら見せてくれない本部の中を案内してくれると言っているのだ。こんなチャンスめったに……いや、二度とないかもしれない。神原さんの行動には私が気をつけていればいいではないか。そうだ、そもそもリスクも無しに自分だけ上手いことやろうなんて、世の中そんなに甘くない。よく考えた結果、私は神原さんの提案を飲みこんだ。
「わかりました。でも見学するだけですからね」
「もちろんや。ゆっくり見てくとええわ。本部は建物もキレイやし、雅美ちゃんも働きたくなること間違い無しやで」
神原さんの言葉を半分聞き流しつつ、私は鞄からスマートフォンを取り出した。
「じゃあ遅れること店長に電話しますね……ちょっと何するんですか!」
トーク履歴から店長のアイコンを探していると、神原さんがヒョイと手を伸ばして私のスマホを取り上げた。その行動に私はもちろんキレる。
「連絡なんてせんでええやん。そんな遠いとこ行くわけやないんやし」
「でも一応仕事なんですから連絡くらいは……ってスマホ返してくださいよ!」
「ちょっとくらい遅れて行っても構へんやろ。シフトもないんやし」
「いいからとにかくスマホ返せ!」
神原さんが高く上げた手を目掛けてジャンプするが、届かないものは届かない。しばらく跳びはね続けたが奪還できる気配はなく、私は思い切り恨みを込めて神原さんを睨み上げた。しかし当の神原さんは涼しい顔でスマホを袖の中にしまうと、ニコッと殴りたくなるような笑顔を浮かべた。
「とりあえずこれはボクが預かっとくわ。安心しい。帰りにちゃんと返したるさかい」
「ふざけないでくださいよ。今すぐ返さないと殴りますよ!?」
「まぁまぁ落ち着きいな。別に中見たりせえへんから」
「そういう問題じゃ……ちょっと!」
いよいよ私の拳が唸りをあげる寸前、神原さんはさっさと駅の方へ歩きだしてしまった。私は慌ててそれについて行く。不本意だが、ついて行かなければスマホを取り返せない。
「神原さん!待ってくださいよ!」
「堪忍な雅美ちゃん。ボク免許持ってへんさかい電車で行くしかないねん」
「移動手段は聞いてませんよ!それよりスマホ!」
初めのうちこそしつこくスマホを返すように説得し続けたが、駅につく頃には私もおとなしくなっていた。何ていうか疲れた。神原さんにまともに取り合った私が馬鹿だった。
駅に着くと神原さんは私に定期を持っているか尋ねた。私が普段学校に行くために使っている定期は逆向き用なので使えなかったが、店から支給されている無記名ICOCAも持ってきていた。本当は仕事の時しか使ってはいけないが、ちょっとくらい私用で使ってもバレやしないだろう。
神原さんに続いて改札を通過し、ホームに降りるとちょうど電車が来たところだった。日曜日の朝なので遠出する人が多く、二人分の席を見つけるのに少し苦労した。神原さんが勧めるので窓際の席に座り、どんどん加速していく車体に身を任せた。
「そういえば神原さんってよく私のこと勧誘しますけど、本部って人手不足なんですか?」
窓に映った神原さんに気になったていたことを尋ねると、彼は自分のスマホに視線を落としたまま答えた。神原さんは顔の右半分を前髪で隠しているので、彼の左側に座った方が良かったかなと思う。まぁ、表情が見えてもこの人の真意を読むことはできないだろうが。
「そんなことあらへんよ。まぁちょうどいいくらいちゃう?適度に休憩もできて」
「なら何で私のこと誘うんですか。散々朱雀店がいいって言ってるのに」
「そんなん雅美ちゃんに来てほしいからに決まってるやん」
私は振り返って神原さんを見た。彼は先程と変わらずタッチパネルに指を這わせていた。よく見えないがメッセージを返しているらしい。
再び窓の方を向いて窓枠に頬杖をつく。神原さんってこういうクサいこと言わない人だと思ってたけど。やっぱり何考えてるのかわからない。
そうだよ。表情が見えたって結局本心なんてわからないんだよ!
三十分程で黄龍に一番近い駅、荒居駅に到着する。こうやって電車で真っ直ぐ来てみると、本部って案外近いよなぁと思った。
「確か十五分くらい歩くんでしたっけ……あれ!?神原さん!?」
駅を出た所で隣を見上げるが、つい先程までそこにいた神原さんが見当たらない。慌ててきょろきょろと辺りを見回すと、彼はタクシーに半分乗車した状態でこちらに手招きしていた。
「何ぼーっとしてるん。雅美ちゃんも早よ乗り」
「タ、タクシーで行くんですか?」
「当たり前やん。ボク歩くん嫌やで?」
何て贅沢な……と思いつつも、自分も乗り込む。私が乗ったのを確認すると、神原さんは「琵琶湖環境保護団体まで」と行き先を告げた。運転手がアクセルを踏むとタクシーは景気良く走り出した。
車で行くと五分もかからない。いや、三分もかからなかったかもしれない。こんな近距離でタクシーを利用してしまったことを運転手さんに申し訳なく思いながら、私は車から降りた。料金を払い終わった神原さんも一歩遅れて出てくる。タクシーは駅へと舞い戻っていった。
「でも、どうやって入るんですか?前来た時は花音ちゃんが手続きしてくれましたけど……用事もないのに中に入る許可降りないですよね?」
「そこは任しとき。こっちや」
神原さんはそう答えると、玄関ではなく本部と隣の建物の隙間へ向かった。私は不思議に思いながらもそれについて行く。
建物の間は思いの外広く開いていて、人が容易くすれ違える幅がある。しかし壁際に物が多く、実際よりずっと狭く感じた。
神原さんは隙間の中程まで歩いて行き、本部の壁にピッタリくっつくように放置されている木箱の上に乗った。その木箱を足場に、さらに隣の粗大ゴミのタンスの上に移動する。そして私を見下ろして言った。
「誰かに見つかると厄介や。雅美ちゃんも早よ上り」
「え?え!?ちょっ、これ不法侵入じゃないですか!」
「ボク流の玄関や。おっかない先輩から逃げたい時はいつもここ使うねん」
そう言いながら神原さんはタンスの上から、二階部分の室外機の屋根に移動した。室外機は思った以上に頑丈に取り付けられているようで、神原さんが乗ってもびくともしなかった。
「ま、待ってくださいよ……」
私は仕方なく木箱の上に乗ると、何とかタンスの上に移動した。木箱は特別高さがあるわけじゃないので、私の身長ではそんなに簡単なことではない。神原さんはすぐ隣の窓の向こう側を覗くと、その窓を開け放った。
「まさかそっから入るんですか?」
「せやで。入る時はここに足かけんねん」
神原さんは壁から突き出ているパイプに左足をかけ、右足を窓枠にかけた。そのまま室内に姿を消す。が、すぐに顔を覗かせて「雅美ちゃんも早う」と私を急かした。
「しかたない……」
私は足を最大限に伸ばして室外機の上に乗り、左足をパイプの上にかけた。左手を窓枠の縦方向にかけ、飛び移る準備をする。二階分の高さだ。落ちたらさすがに無傷じゃ済まないだろう。
体重を左足にかけつつ、素早く右足を出す。何とか窓枠に足がかかったが、右手は空を掻いた。
「ぎゃあああ~~!!」
一瞬宙ぶらりんを味わったが、すぐに神原さんが私の腕を掴んだ。
「早く早く早く!早く引き上げてください!」
「ボク非力やからこれ以上無理やわ。自分で上がってきい」
両手をしっかり窓枠にかけ、上体を引っ張る。窓枠の上にしゃがみこむ体勢になり、ようやく一息ついた。後ろを振り返りたい好奇心を堪え、室内に着地する。と同時に目の前の神原さんを睨み上げた。
「何で部屋の中まで引っ張ってくれなかったんですか!」
「言うたやんボク非力やから無理やって。雅美ちゃんお尻が重たいんやもん」
「失礼ですね!それに店長なら引っ張り上げてくれましたよ」
「阿呆言いな、店長はんと比べたらまだボクの方が腕力あるわ」
改めて室内を見回してぎょっとした。
「ちょっと神原さん、ここ男子トイレじゃないですか!」
「せやで。ここは利用者がほとんどいいひんし中に入るのにちょうどええねん」
「だ、誰か来たらどうするんです!さっさと出ますよ!」
半分飛び出すようにトイレから出ると、左右に廊下が延びていた。人の姿は見えない。先程の神原さんの言葉も踏まえると、あまり使われていない区域なのだろう。ゆったりと廊下に出てきた神原さんは、まず辺りに誰もいないのを確認した。
「あんな雅美ちゃん、部外者連れ込んだて知れたらボクが怒られてまうから、バレへんように気ぃつけてな」
「バレたらどうするんです?」
「とりあえず玄武店の社員です言うとき。後で調べられても陸男君なら上手く誤魔化してくれはるやろ」
と言ったあと、神原さんは「まぁ白虎店でもええんやけど、あの人応用きかへんしなぁ」と付け足した。よく考えたら当たり前なのだろうが、神原さんが陸男さんやお兄さんと知り合いなのって何だか変な感じがする。
「とりあえず一番上から見よか」
「一番上って何があるんですか?」
「社長室やな。関係者以外立ち入り禁止や」
「え!?私入ってもいいんですか!?」
「あかんに決まっとるやん。ボクかて入ったあかんのに」
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