未完成な世界で、未熟な人間が身勝手に呼吸をして2
一斉にスマートフォンの着信音が鳴り、私は我に返った。何事かと咄嗟にファイルを元の場所に戻す。この部屋にいるほとんど全員のスマホが同時に着信音を鳴らしているのだ。
息を殺して様子を窺っていると、少し離れた位置にいた研究者が、おそらく近くにいたであろう研究者に声をかけた。
「侵入者ってどういうことだ?」
「わからない、見つけたら捕まえてくれって書いてあるが……」
「ここの研究資料を盗むつもりなのか?」
「かもしれないな。他の研究所の人間か……」
そこで、エレベーターから上がってきた一人の研究者が二人に近付きながら声をかけた。
「おい、聞いたか?侵入者だってよ」
「ああ、俺らにも今通知が来た」
「人体研究部の奴のID奪って侵入したんだろ」
「それだけじゃねぇ、よく聞け」
そこでエレベーターから来た研究者は少しの溜めを作った。私は耳を澄まして次の言葉を待つ。
「なんとその侵入者、今この建物にいるらしいぜ」
「マジかよ」
「本当なのか?」
「ああ、うちでIDをタッチした形跡があったって、今お偉方が話してた」
「やべーなそれ。この部屋にいるかもしれないんだろ?」
「捕まえたら昇級あるかな」
「ねーよ馬鹿!」
三人のうち二人はテンション高く喋っているが、一人が冷静に口を開いた。
「だが実際ここの研究成果が盗まれたらヤバいんじゃないか?昇級どころか俺ら……」
「いやいやいや、それは勘弁!」
「ここクビとかそういう制度ないだろ。クビイコール死だろ。デッドだろ」
「だろうな、ユーフォリアはどこもヤバい研究してるだろうから。お、続報が来たぞ」
また一斉にスマホが鳴り出した。私は次はどんな内容だろうと心臓をバクバクさせる。どうかこれ以上私を追い込まないで……。
「監視カメラの映像か。何だ、後ろ姿じゃねーか」
「かなり小柄だな。メガネ……をかけているのか?これは」
「変装用かもしれねーぞ」
おそらく門のところにあった監視カメラだ。ヤバい。早く逃げ出さなければ。でもどうやって?
先程まで話していた三人は、連れ立ってエレベーターで降りて行ってしまった。この部屋からはまだ数人の気配を感じるが、ここから出るなら今だろう。私がこの建物にいるのはバレているようだし、まずはこの建物から出なければ。
私は足音を立てないように、でも怪しくないように、まるでここの研究員のような態度で資料室を出た。すぐに階段に飛び込み、駆け降りる。しかし四階まで降りたところで、こちらに上ってくる数人の男性の声と足音が聞こえた。絶体絶命。私は咄嗟に階段から一番近い部屋に飛び込んだ。
一階と二階と最上階は大きな一つの部屋だったが、ここは小さないくつかの部屋に分かれているらしい。個人用のラボだろうか。私が飛び込んだ部屋は幸い無人で、デスクの上にはパソコンや資料、シャーレや顕微鏡などがあった。私はそっとドアを閉めると、そのままドアにもたれて長い息を吐いた。
連れ立って階段を降りてゆく男性達の声を拾おうと耳をドアに押し付ける。すると「何でこんな時に」「装置は」「あのキチガイ女め」「とにかく早く」という言葉の断片が聞こえてきた。足音はそのまま上の階に上がって行き、私はドアから頭を離した。
これからどうしよう。いつかはこの部屋の主も帰ってくる。ずっとここにいるわけにはいかないだろう。だからといって無策で飛び出してもすぐに捕まってしまう。私はポケットからスマホを取り出した。店長に助けを求めるか?いや、ダメだ。私一人で来たんだ。巻き込むわけにはいかない。
私はスマホをしまうと、改めて部屋を見回してみた。ドア付近のコートかけに黒いハットが一つ、ぽつんとかかっている。この時期にコートをかけないのはわかるが、このハットも少し季節はずれなような気もする。
「…………」
私はハットを手に取ると頭に乗せた。男性用なのか少し大きめだが、被れないこともない。私はドアノブに手をかけると、腹をくくってノブを捻った。
部屋の外に出ると、階段の踊り場で数人の白衣が立ち話をしているのが見えた。私は慌てて彼らの目の届かない場所に移動する。しかしそれは廊下の奥、階段とは反対側だ。
踊り場に人がいる今、階段は使えない。エレベーターは中が密室で危険だし、ドアが開いた先に人がいたらアウトだ。もしかしたらこの廊下の奥の方にも外に出れる場所があるかもしれない。裏口や非常口くらいあるだろう。私はハットを深く被り直すと、廊下の奥へ向かって歩き出した。
この廊下には先程の部屋と同じようなドアが等間隔で並んでいるが、どうやら中に人がいるようだ。キーボードを叩く音やガラスがかち合う音が聞える。いつドアが開いて研究所の人が出てくるかわからない。私はなるべく早足で廊下を進んだ。
廊下の最奥には右手に延びる道があった。遠くからじゃまるで行き止まりのように見えていたが、少し細めの廊下がちゃんと延びていた。この細さ、もしかしたら裏口への通路かもしれない。私は迷わず廊下を右に曲がった。
先程より少し細くなった廊下を進むと、突き当りに出た。目の前の壁は窓がついていて、右側は壁に沿って廊下が延びている。しかしこちらに進むと結局さっきの場所の近くに戻ってしまう。この廊下を真っ直ぐ行った突き当りが、場所的には入り口の三階分真上なのだろうが、私はこの建物にいることがバレている。危険だろう。
そして左。左にはステンレス製のペラっとしたドアが一つついていた。そういえばこの建物に平べったい建物がくっついていたなと思い出す。位置的にその平べったいところへ行くドアなのだろう。高さ的には一階分計算が合わないが、おそらく階段があるのだ。
この建物自体がさすがに騒がしくなってきた。白衣を着た人達がうろうろしている。本格的に私を探し始めたらしい。私はステンレス製のドアをそっと開けると身体を滑りこませた。
私の予想通り、ドアの先には階段があった。外の壁に設置された階段に、とりあえず仕切りを付けたような造り。上へ向かう階段はなかった。私は鉄板を組み立てただけの階段を、なるべくヒールがカンカンという音を鳴らさないように気をつけながら下りた。
階段を下り終わると、ずいぶん立派な部屋に出た。壁が頑丈だ。コンクリートではない。これは金属製じゃないか?壁が金属製だなんて、いったい何をする部屋なのか。
周りをよく見回す。部屋……というか、幅が太めの通路なのかな。物は置かれていないし、窓もない。金属製の四角い筒の中にいる気分だ。
とりあえず左側━━私が入ってきた入り口とは逆側のドアに近づく。これも頑丈なドアだ。両側にスライドするタイプで、どうやら自動で開くらしい。というか、重すぎて手動で開閉するのは無理だろう。ドアのすぐ脇にインターホンのドアモニターみたいな機械があった。また社員証をタッチするのか。
私はその機械に社員証をかざした。これでドアが開くだろう、と思ったが、機械はブーッという音を鳴らしてバツ印を表示した。
「こ、これじゃダメってこと……!?」
私は先程の資料室での、三人の男性の会話を思い出した。確か、人体研究部の奴のID奪って侵入したんだろ……というようなことを言っていた気がする。おそらくこの生物開発部の人間の社員証でないとこのドアは開かないのだ。
だとしたらマズい!今私がこの社員証をここにタッチしたという情報が向こうに渡っているかもしれない。おそらく一人一人のIDをコンピューターで管理しているんだ。私が今ここにいることがバレてしまう!
私は慌てて反対側のドアに飛び付いた。向かいのドアと同じような造りだが、幸いこちらのドアは横のボタンを押すだけで簡単に開いた。きっと出る時はIDの認証は必要ないんだ。つまり、さっき弾かれたドアの先に、何か隠したいものがあるということだ。
きっとこの研究所の重要な部分の一つが目の前にあった。だが、今は逃げるしかない。捕まったらきっと殺されてしまう!
ドアが開くなり外に飛び出した。階段で一階分下ったから、ここは三階。初めて見るフロアだ。四階のように独立した部屋がたくさんあるみたいだが、四階とは廊下の作りが違う。まるで迷路みたいだ。
すぐ近くから足音が聞こえた。こちらに近づいて来る。すぐそこ、その目の前の角の向こうだ。やばい。私は右側の廊下を走り出した。しかしすぐに分かれ道になる。直進するか、左に曲がるか。足音は背後まで迫っている。ええと、どうしよう、どうしよう、とりあえず、左!
私が左に曲がったのとほぼ同時に、一つ後ろの角を足音が曲がる。このままではすぐに追いつかれる。ひとまずどこかの部屋に身を隠すか?でも開けた部屋に人がいたらどうする?
追いつかれるという恐怖から、なんの策もなく足を前に踏み出した。でもずっとあそこに立っていたら捕まる。とにかく動き回って出口を見つけないと。おそらく私を探しているであろう白衣の数が、目に見えて増えてきている。
しまった!すぐ右側から足音が聞える。近い。背後の足音に気を取られすぎた!どうする!?どこに逃げる!?
パニックになりかけた直後、強く腕を引かれた。悲鳴を上げる前に口を塞がれる。そのまますぐ側の背の高いロッカーの陰に引きずり込まれた。その人物は私を抱え込んだまま小さくなる。何者かはわからないが、誰かが背後から私をすっぽり抱きしめているのだ。「ここに隠れてやり過ごそう」という意思を感じたので、私は悲鳴を上げそうになるのを何とか堪えて息を殺した。
私と誰かがロッカーの暗がりに身を潜めてすぐに、私の背後から来ていた人と右側から来た人が合流した。二人は「こっちにはいなかった」「こっちもだ」という会話をすると、私達に背を向け連れ立って奥の廊下を進んでいった。
足音が遠ざかると、私の口を押さえていた手がそっと離れた。私は大きく息を吸い込み、それと同時に慌てて背後の人物から離れる。ひとまずの危機が去ると、抱きしめられて密着しているのが急に恥ずかしくなったのだ。
ほとんど飛びすさるように離れて、四つん這いのまま振り返る。そして私は驚いた。私を助けたのは、先月白衣の男達によって連れ去られた、白髪のあの男の子だったのだ。今日もこの前と同じく深くフードを被っている。無表情だが、先月とは打って変わって元気そうだ。
「あ、き、君!大丈夫だったの?」
私がまさかの再会に驚きつつもそう尋ねると、男の子はぱちりぱちりとゆっくり二回瞬きをして、「……何が?」と返した。
「あ、そうだ、そんなことより、助けてくれてありがとう」
私のお礼に、男の子はコクンと一つ頷いただけだった。
「あの、私すぐにここから出たいんだけど、出口どこか教えてくれないかな?」
男の子はおそらくこの建物の内部を把握している。再会できたのは嬉しいし、この間は大丈夫だったのかとか変な人体実験をされていないかとか、いろいろ聞きたいことはある。が、まずはここから脱出することが先決だ。しかし男の子は無表情のまま首を横に振った。
「……出口は全部見張りがいる。だから今は出られない」
「そんなぁ……。……ッ!」
こちらに近づいて来る足音が聞える。すぐ近くだ。しかも左側から。こちらから来られると、先程のようにロッカーの陰に隠れてやり過ごすのは不可能だ。男の子の無表情も焦りの混じったものに変わる。
「ど、どうしよう……!」
その時、背後の部屋のドアがバンッと大きく開いた。見つかった。終わったと思った。目の前の男の子も少し目を見開いている。土下座の準備でもしようかなとぼんやり考えた時、かなり強く腕を引かれた。膝をついていた体勢から無理矢理立たされる。
「えっ!?」
見ると目の前の男の子も立ち上がらされていた。そのまま強い力で部屋の中に連れ込まれ、部屋の中にたくさんあるダンボール箱の内の一つに二人一緒に無理矢理押し込まれた。あっという間に箱詰めにされるとフタを閉められほぼ真っ黒になる。
「えっ!?えっ!?」
私が訳がわからずにいると、目の前にある男の子の無表情が「しーっ」と言って口の前で人差し指を立てた。大きなダンボール箱といえど、二人入るとさすがに狭い。箱にぶち込まれた変な体勢のまま身動き一つ取れない。それでも私は何とか息を殺すことに努めた。というか、こんなお互いの息が顔にかかる距離で私の息臭かったらどうしようとか考えていた。
私が息を殺してすぐに、この部屋のドアがノックされた。さっき左側から近づいていた足音の主がこの部屋のドアを叩いたのだとすぐにわかった。
「はいはいはい、今開けますよっと」という女性の声と、ガチャリというドアが開く音。次に男性の「侵入者とアルフがこちらに来ませんでしたか」という声。それに女性が「来てないよ。っていうかざわざわうるさいの止めてくれないかなー。研究に集中できないからさ」としれっと答える。男性は「そうですか。失礼しました」と言ってあっさり引いていった。
男性の足音がだんだん遠ざかってゆく。するとおそらくドアの前にいたであろう女性がこちらに近づいて来て、ダンボール箱のフタをパカッと開けた。
「もう出てもいいよ」
その声が聞こえ終わらないうちに、私はガバッと上体を起こした。そして外の新鮮な空気を胸いっぱいに吸う。私よりワンテンポ……いや、ツーテンポ遅れて男の子が箱から顔を出した。
「あ、あの、あなたは……」
目の前にはボサボサの黒髪に茶色の縁のメガネの女性が、ニヤッと笑ってヤンキー座りをしていた。女性に対してこんなことを思うのは失礼かもしれないが、その、何て言うか、体臭がちょっと臭う。
「私はここの部長。今君達を助けたのは気まぐれ」
「あ、た、助けてくれてありがとうございます!」
「いいよいいよ。君侵入者だって?興味あるから話聞かせてよ」
女性は立ち上がり、「コーヒー淹れるよ」と言って部屋の隅にあるコーヒーメーカーの方へ近付いた。
私はとりあえずダンボール箱から出て、部屋の中を見回してみた。広い部屋だった。しかし物が多すぎてかなり狭く感じられた。こんなに広い部屋を個人で使っているのは、やっぱり部長という役職がそこそこ偉いからだろうか。
床の上には資料や本が直置きの山積みになっており、怪しげな薬品やフラスコなどが入ったダンボール箱がたくさん置いてあった。先程の男性も、まさかそのダンボール箱の一つに侵入者が入っていたなんて思わないだろう。
資料山積みや床に物直置きくらいなら瀬川君の部屋で見慣れているが、そこら中にカップ麺やコンビニ弁当のゴミが置いてあって、何て言うか汚い。ゴキブリがわいても不思議ではない。小さな台所もついているが、おそらく年単位で掃除されていないだろう。触らなくてもベタベタしているのがわかる。ふと視線を下げてギョッとした。山積みになった服の中に下着が混ざっている。この服も明らかに異臭がするし、女性として下着を放置するのはちょっと……。
「はいコーヒー。ブラックでいい?」
「はい、大丈夫です」
私が部屋の中チェックをしていると、目の前に紙コップに入ったコーヒーが突き出された。私はお礼を言ってそれを受け取る。が、いい人そうに見えるが一応敵側の人間。このコーヒーは飲まない方がいいだろう。
「君はいつまでそこにいるの。ほら、出て来いっ」
未だダンボール箱の中で体育座りをしていた男の子の腕を女性が引っ張る。男の子は出て来いと言われてようやく箱から出てきた。女性はこれまた物が散乱していて汚いテーブルの上に置いておいたコーヒーを手に取ると、半分程一気に飲み干した。
「とりあえず君の名前聞かせてよ。無理なら偽名でもいいからさ」
「あ、えっと……荒木です」
偽名でもいい、と言われたが偽名なんて咄嗟に出てこない。結局私は本名を名乗ることにした。荒木なんて珍しい名字ではないし、名字くらいなら大丈夫だろう。部長さんからしたら本名か偽名かもわからないし。
「アラキね。オッケーオッケー。私は堅山響子(かたやまきょうこ)。好きなように呼んで」
こちらは本名だろうか。いや、本名だろう。首から下げた社員証に【堅山響子】と書かれている。
私はダンボール箱の前にいる男の子に視線を移した。そういえば、彼の名前をまだ聞いていない。男の子はこの研究所の関係者みたいだし、堅山さんの前で名前を聞いても大丈夫だろう。堅山さんも彼の名前を知っているだろうから。
「そういえば、君の名前は何ていうの?」
男の子は一、二秒間を空けてから、ぽつりと答えた。
「アルフ」
「アルフ君?外国の人?」
その問にアルフ君は首を傾げただけだった。
全員が全員の名前を知ったところで、残りのコーヒーも飲み干した堅山さんが口を開いた。
「それで、君の目的は何かな?やっぱり他の研究所の人間で、うちの研究資料を盗みに来た?」
「い、いえ、そんなわけじゃ!ただ……」
私は両手と首をぶんぶん振って否定すると、アルフ君をちらっと見た。
「前にアルフ君と会ったことがあって……」
私は先日アルフ君と会った時のことと、今日ここに来た理由を説明した。私の話を聞き終わると、堅山さんは面白そうに笑ってこう言った。
「なるほど、君は正義感溢れる人間なんだね。でも最近の正義のヒーローにはたいてい仲間がいるもんだぜ?」
「そんな……正義のヒーローを気取ってるわけじゃないんですけど……」
偽善でやっているつもりはなかった。ただ知ってしまったからには助けなければ、そう思ったから。これは結局偽善だったのだろうか。
「いやいや、いいと思うよ。自分のやりたいようにやれば。でも人に迷惑をかけるのは良くないと思うな。君にも家族がいるだろう?」
「う……」
「君が帰って来なかったらお父さんやお母さんが心配するよ。捕まったら殺されてただろうからね」
「はい……すみません……」
言われて気が付いた。私の行動は軽率だった。私が突然姿を消したら。お母さん……お父さん……お兄ちゃんとお姉ちゃんも、きっと悲しむだろう。自分の代わりなんて無いということをもっと自覚するべきだった。
堅山さんはスマホを汚い白衣のポケットにしまうと、次はアルフ君の方を向いた。
「正直、私が気になっているのはアルフ、お前の方だよ。どうした?自分の意志でこの子を助けたのか?」
堅山さんの言葉に、アルフ君はキョトンとした顔のまま何の反応も示さなかった。
「アルフはアラキを助けたいと思ったから脱走したのか?」
堅山さんが今度は少しゆっくりめに、アルフ君の目をじっと見て言うと、アルフ君はコクンと頷いて小さく口を開いた。
「アラキが殺されると思った」
「でも見つけたのが私じゃなけりゃアルフが殺されてたかもよ?」
その言葉にアルフ君は少し目を伏せて黙っていたが、しばらくするとフードを深くかぶり直して「……それは仕方ない」と呟いた。
アルフ君はいったいこの研究所でどういう立場の人なのだろう。得体のしれない実験の被験者なのだと思っていたが、部長である堅山さんと普通に喋っているし……。白衣も着ていないし、年齢も中高生くらいだから研究員ってこともないだろう。
「もう帰るか?みんなも心配してるだろうし」
堅山さんが顔を覗きこむようにしてそう尋ねると、アルフ君は一瞬だけ私の方に視線を向けてから、小さく頷いた。堅山さんがこちらを振り返る。
「アルフはここで生活してるんだ。アラキもちゃんと外まで案内するよ。安心して」
「あ、ありがとうございます!」
よかった、外に出られる!見つかったのがこの人で本当によかった!
私が心の中でホッと一息ついたところで、ドアがガチャリと開いて心臓が飛び跳ねた。慌てて隠れるところを探そうと思ったが、ドアを開けた主は部屋の中を見て「……どういう状況ですか」と呟いたところだった。完全に見つかった。
ギ、ギ、ギ、と振り返ると、ドアを開けたのは二十代後半くらいの男性で、白衣とメガネを身につけ、伸ばしっぱなしの黒髪を無造作に一つに結っている。眼鏡の奥には切れ長の黄色い瞳が覗いている。彼は明らかに私を見て驚いて━━いや、呆れた顔をしていた。
「そこにいたから匿ったんだ。ほら、早くドアを閉めろ。部屋の中が見えるだろ」
男性は言われた通りドアを閉めたが、なかなかその場を動かなかった。
「相変わらず臭いですねこの部屋。……というか部長が」
そう言って顔をしかめる男性。堅山さんはそんな言葉を気にも留めず、男性の紹介を始めた。
「助手の柊虎之(ひいらぎこゆき)だ。私の言うことは何でも聞く」
「聞きません」
堅山さんの言葉を柊さんが素早く訂正した。今この建物を騒がせている得体のしれない侵入者を上司が匿っていたというのに、柊さんは驚きもしない。むしろ呆れ返っているほどだ。もしかしたら堅山さんは普段から突拍子もないことをする自由奔放な性格で、柊さんはもうそれに慣れてしまっているのかもしれない。
「外も騒がしいし、出るなら早くしないとね。アラキ、この箱に入れ」
堅山さんは先程より少し小さめのダンボール箱を逆さにし、中の物を床にぶちまけて空にすると、台車の上に乗せた。箱の中に入っていたのは大量の汚い洗濯物だったので、正直入りたくないなぁ……と思ってしまった。
おそらくこのダンボール箱の中に私を隠し、台車で外に運ぶ作戦なのだろう。実験のための機材や資料を運ぶのは何ら不自然ではない。簡単だが、私一人では決して出来ない脱出法だ。
「あ、帽子が……」
箱に身体を入れ頭を屈めた時、私は頭にハットが乗っていないのとに気が付いた。アルフ君に助けられた時か、堅山さんに助けられた時か……どちらにしろ、この部屋の前に落ちているだろう。
「ん?帽子がどうした?」
「いえ、変装用に帽子を借りたんですけど、部屋の前に落としちゃったみたいで……」
「オッケー、後で回収しとくよ」
「すみません」
今度こそ私は頭を屈めた。堅山さんがダンボール箱のフタを閉める。ダンボール箱のフタは何かの弾みで開かないように、フタ同士を重ねてしっかりと固定された。
堅山さんが箱の側面をトントンと叩き、「出発するからいいと言うまで静かにしてるんだよ」と言った。それからバシッと肩を叩く音がして、「じゃあ柊、よろしくな」という声が聞こえた。堅山さんではなく柊さんが外まで運んでくれるらしい。確かに、部長である堅山さんが運ぶよりも部下である柊さんがやった方がそれらしい。
台車が動き出した。私は暗闇の中でそっと目をつむる。アルフ君にちゃんと挨拶してから箱に入るべきだったな。堅山さんにももっとしっかりお礼を言いたかったし。
ドアがバタンと閉まる音が聞こえる。廊下に出て、台車のスピードが上がってきた。途中で柊さんが挨拶や侵入者についての簡単な報告をされているのが聞こえてきた。くまなく探しても侵入者の姿が見えないので、この建物の外に出たのではないかという想像がされているらしい。それは私にとってラッキーなことだろうか。それともアンラッキーなことだろうか。
だいぶ長い間揺られていたような気がする。外が見えないからそう感じただけだろうか。突然台車がピタッと停止すると、ダンボール箱のフタがパカッと開いた。私は眩しさに目を細める。
「第四ゲートだ」
柊さんがそう言ったので、私は上体を起こして辺りを確認した。どうやら私が侵入した門のちょうど反対側の場所らしい。塀には小さな機械とドアがついていた。
「悪いが俺にこのドアは開けられない。履歴が残るからな」
おそらくドア横の小さな機械に社員証をタッチしなければドアが開かない仕組みなのだろう。そして社員証をタッチすれば柊さんがここを通ったという証拠が残ってしまう。外に用もないのに人気の少ない出入り口を使用するなんて怪しい行動だ。研究所の人にバレたら柊さんが私を逃がしたことがわかってしまうだろう。
「じゃあどうすればいいですか?」
「そこは部長が上手くやってくれてるはず……お、来たな」
柊さんが上空を見上げたので私も上を見ると、すぐ背後の建物の屋上に人影が見えた。この建物は私が侵入したものとは別の建物だが、また竪山さんの部下だろうか?私がそのまま上を見上げていると、屋上の人影がふらっと揺れたかと思うと、なんとそのまま飛び降りた。
「あ!」
私はそれしか言えずに反射的に顔を逸らす。すると飛び降りた人影は私と柊さんの目の前にスタッと着地した。恐る恐る顔を上げると、その人物はどこも怪我をしておらずゆっくり立ち上がった。身軽なんてレベルではない。まるで跳び箱の上からジャンプしたような何でもない顔をしている。
「呼び出して悪いな。この子を壁の外に出してやってくれないか?」
柊さんがそう言うと、上着のフードを深く被った細身の男性は馴れ馴れしい笑みを浮かべた。
「やだなー柊さん、僕には無理ですよー。だってあんな高い壁。ねぇ?」
最後の「ねぇ?」は私に向けたものだろう。男性はこちらを見てニコッと笑ったが、私は何も返せなかった。
「お前がちょいちょい壁越えて脱走してるの知ってるんだぞ。いいからこの子を逃がすのを手伝ってくれ」
柊さんが呆れ顔でそう言うと、男性は「いやー、バレてましたか」とその三白眼を細めた。そして今度は顔だけでなく身体ごと私の方を見る。
「言っとくが余計な詮索はするなよ。お前はただその子を担いで壁を越えるだけでいい」
「言われなくても知ってますよ、その子侵入者っすよね。ちゃんと聞こえてましたから」
男性の返事に柊さんは目だけそちらに向け「さすがに耳がいいな」と言い、「あれは遮音壁のはずだが」と小声で付け足した。
「まぁどこの誰でも構いませんけど、オレはこのまま散歩に行かせてもらいますよ」
男性は私の前に立つと、そのまま私を担ぎ上げた。まるで米俵のように担がれているが、まさかこのまま壁を登るのか?
「頭痛がする前に帰って来いよ」
「柊さんが偉ーい人に叱られる前に帰ってきます」
柊さんは決まりの悪そうな顔をしたが、男性は愉快そうにちょっと口角を上げると壁のほうを向いた。おかげで私は柊さんと向い合うことができたので、担がれたままの体勢だがお礼を言うことにする。
「あの、ありがとうございました。竪山さんとアルフ君にもそう言っておいてください!」
柊さんが片手を上げてそれに答えた。その直後、男性が軽く膝を曲げたと思ったら、私を担いだまま思い切りジャンプした。
「ええぇえぇぇえええぇえぇぇえ!」
男性は自分の身長の五倍は飛び、地面と柊さんはみるみる遠くなっていった。私が驚き声なのか悲鳴なのかわからない声を上げているうちに、男性は壁の上に着地した。と思ったら、今度はそのまま落下する。
「ぎゃぁぁああああ!」
今度こそ紛うことなき悲鳴を上げ、しばらくの浮遊感のあと地面に着地した。その恐怖から無事生還できたことにホッと胸をなでおろす暇もなく、ドサッと地面に放り出される。この人ホントに私のこと米俵か何かだと思ってるんじゃないだろうか。
それでも一応命の恩人の一人だし、私はお礼を言おうと立ち上がってお尻についた土を払った。
「あの、ありが……」
「じゃ、オレはここで」
私が最後まで言う前に、男性はひらひらと手を振って歩いて行ってしまった。しかも、壁の周りには道があるのに茂みの中へ入って行ってしまったのだ。先程柊さんも「脱走」という言葉を使っていたし、あの男性は人に見つかりたくないのだろうか。
私はハッとして足を動かした。白衣を脱ぎ茂みに投げ込む。ポイ捨てになるが仕方ない、私も早くこの場を離れなければならないのだ。一回だけ背後を振り返り、早足で歩き出した。
この研究所は明らかにやってはならない研究をしている。でも一人で乗り込んでこのザマだ。アルフ君や竪山さんに出会えなければ今頃どうなっていただろうか。
私一人の力では太刀打ち出来ない。自分の無力は理解していたが、こんなに何もできないなんて。力が無いのがもどかしい。私一人では何も救うことができない。
ただこうやって、尻尾を巻いて逃げるだけ。
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