未完成な世界で、未熟な人間が身勝手に呼吸をして
「さて、と」
九月二日、水曜日。ついにここまで来てしまった。しかも一人で。こんなところに来るくらいなら家で大人しく課題でもしていた方がいいんじゃないのかと言われそうだが、私はそんなこと微塵も思わない。
ユーフォリア研究所。店長の言う通り、全然怪しげな組織でも何でもない真っ当な研究所なのかもしれない。でも今のところ手掛かりが何も無いのなら、私はここに来るしかなかった。
先月にっしーと浴衣を買いに行った日。あれは確か八月十八日だったはずだ。その日私は怪しげな白衣の男達に連れ去られる一人の男の子を見た。もしこの研究所が本当に危ない研究をしていて、あの男の子の白髪や体調不良が人体実験によるものだったとしたら……。
全ては私の想像に過ぎない。誰かに話せば妄想だと鼻で笑われるだろう。でももしあの男の子や、他の被験者が苦しんでいるのだとしたら、知ってしまった私はそれを助けなければならないんじゃないのか?誰に言われたわけではない。でもそうしないと自分を納得させることができなかった。
ユーフォリア研究所の高い塀を見上げて思う。あの男の子に会ってからもう十五日も経ってしまったが、彼は大丈夫だろうか。どんな研究をしているのかもわからない。ユーフォリア研究所のホームページには、当たり障りのない言葉だけがつらつらと並べられていた。
「まずは……」
まずはこの研究所にどうやって侵入するかだ。私だって今日一日で全部解決できるなんて、そんなこと思っていない。今日は下見だ。内部がどうなっていて、どんな危ない研究をしているのかがわからないと、対策の立てようがない。ちなみに、店長と瀬川君に話したら止められるだろうから二人には言っていない。
見る限り、この研究所のバカ高い塀の内部に入る方法は一つだけ。塀にいくつか開いている門。門のところにある機械に、社員証のような物をタッチするのだ。見たところ門に人はおらず、完全に機械で従業員の出入りを管理しているらしい。この高さの塀━━というかもはや壁を乗り越えることはおそらく不可能だし、どうにかしてあの門をくぐり抜ける方法を探さなければ……。
近くの茂みに隠れながら必死に方法を考えていると、塀沿いに歩いてくる人影が小さく見えた。どうやら女性のようで、ワイシャツとスーツスカートの上に白衣を着ている。しめた、と思った。ホームページに研究所内の様子として掲載されていた写真に写っていた研究員達は、ほとんど全員白衣の下にスーツを着ていたので、私も大学の入学式で使ったスーツを引っ張り出して着て来たのだ。私は手提げ鞄からスパナを取り出すと、ギュッと握りしめた。
先程の女性には眠ってもらい、社員証と白衣を拝借した。ずっとここに寝かせておくわけにはいかないので、研究所周辺の茂みに女性を隠す。おそらく周りから見えにくいように研究所の周りに茂みを作ったのだろうが、私には好都合だ。
私は首から社員証の入った紐付きのケースをかけると、なるべく堂々と胸を張って歩き出した。
門の上の方にはやはり監視カメラが設置されている。私は出来る限り顔を伏せて、見よう見まねで機械に社員証をかざした。機械はピコンと高い音を鳴らすと、社員証のすぐ横の画面に女性の名前と顔写真を映し出した。
作戦成功だ。塀の中に入ることが出来た。私はなるべくここの研究者に見えるよう、しゃんとして歩き出した。
塀の内部はいくつかの建物が無秩序に建ち並んでいた。塀の外から見てもだだっ広い建物だと思っていたが、塀の中が更にいくつかの建物に分かれていただなんて。研究所のホームページには内部の地図などは全く載っていなかった。未知の領域だ。さて、どこへ行こう。
あまりここで立ち止まっていると研究所の人間に怪しまれるだろう。門を入ってすぐのこの辺りには人は全くいないが、少し先にはちらほらと白衣が歩いているのが見える。ここから見るだけでも建物が四つあり、奥の方にもまだ建っているようだ。建物は一つがアパートくらい大きい物や、小さめの一軒家くらいのサイズのものといろいろだ。私は意を決すると足を前に踏み出した。
どこへ行くか決めたわけではない。どこへ行ったら一番いいのかもわからない。しかし忘れてはいけない、今日私は下見をしにここに来たのだ。この研究所をなるべく多く見る。なるべく多く知る。だったらどこから回ろうが関係ないはずだ。
私の前を一人の女性が歩いている。その前を何やら資料を持った男性が歩いている。目の前の人の後をつけたらきっとすぐにバレると思った私は、二つ前の人の後について行こうと思った。これなら迷わずどこかしらに連れて行ってくれるはずだ。私は自分もそこに向かっているような足取りでついて行けばいい。
女性は途中で一つの建物に入って行ったが、早足で私を追い越した別の女性が私と男性の間に入った。私と男性の距離はかなりある。まさか後をつけているようにも見えまい。もし建物の入り方にも認証などがあったとしても、前を歩く男性と同じようにすればいいのだ。
私が後をつけていた男性は、門を入ったところから見えた四つの建物のうち一番右端の建物に入った。白色の立方体の建物に、大きくて平べったい四角い建物がくっついている。目の前の男性は入り口脇の機械に社員証をかざしてから建物の中に入った。私もそれを真似るが、社員証をかざすのは入り口のロックを外すためではないらしい。入り口にカギはかかっていなかった。タイムカードのようなものだろうか。
建物に入ると、前方三、四メートルの所に階段が見えた。右手側にも部屋があるみたいだが、あの男性はどこに行ったのだろう。右の部屋は一部がガラス張りになっているため室内が見えたのだが、数人の白衣が談笑をしていたり、パソコンとにらめっこしている人がいたり。並んだ机の上にパソコンが置いてあるところを見ると、どうやらデスクワークをする部屋らしい。
私はなるべく素早く、だけど目立たないように部屋の前を突っ切った。幸い私に気づいた者はいない。いや、存在には気付いているけれど、わざわざ目を向けなかっただけかもしれない。
階段の踊り場は壁があるので右の部屋からは見えない。私は一息ついた。入り口と階段のちょうど中間にあるエレベーターを見ると、ドア上のランプが三階で停止した。先程の男性は三階に行ったようだ。私もそこを目指すべきだろうか。
いや。私は考え直した。もし三階に行ってたくさんの人がいたらどうする。この研究所の研究員同士がどれくらい仲がいいのかは知らないが、右側の部屋を見る限り談笑したりはするようだ。もし見たことのない人間が研究所内にいたら気付くだろう。ここはなるべく人の少ないところから調べて行った方がいい。
エレベーターに乗るにはガラス張りの右側の部屋に姿を見せることになる。私は気合を入れ直すと、なるべく足音を立てないようにして階段を上がった。
二階。一階の階段は一番奥にあったはずだが、二階に出てみると真ん中より入り口寄りの場所に出て来た。階段の裏に何か部屋があるか、凹みのある形をしているかだったのだろう。
踊り場の壁から顔を覗かせて、素早く辺りを見回す。広いフロアだった。ここでようやくエレベーターの表示に目を向けたが、そこには【生物開発部第一ラボ】と書かれていた。広い部屋でたくさんの白衣が顕微鏡やシャーレを覗き込んでいる。皆真剣な表情だ。
この部屋に入るのはさすがに無理だろう。私はもう一度エレベーターの表示に目を向けた。最上階は【生物開発部資料室】となっている。私はそっと階段に引き返すと、最上階を目指した。
最上階はその全面が本棚で埋め尽くされていた。金属製のよくあるような本棚が狭い感覚で並んでいて、そこにファイルや本が無造作に突っ込まれている。
周りに人がいないのを確認して、私はそっと踊り場から踏み出した。最上階には人影が少なかった。全くいないというわけではないが、どこを通るかちゃんと考えて選べば誰にも見られずに済むだろう。静かな空間では紙をめくる音だけが響いていた。
私はなるべく人がいない辺りへ行き、ファイルの背表紙に目を通す。だいたいの資料はコンピューターで記録しているのだろうか。資料の扱いは本当に杜撰で、背表紙に見出しが書かれていないものも多かった。
見た目的に新しそうなファイルを手に取ってみる。パラパラとめくってみると、人体の図が出て来た。適当な文章に目を通してみるが、専門用語が多くてあまり理解できない。さらにパラパラとめくると、何やら細胞を写したような写真が多く出てきた。
その隣に【REX】という背表紙のファイルを見つけた。十五年くらい前のファイルだろうか。人名のような見出しが気になってとりあえず中を見てみると、大きなガラスの容器に入った胎児のような写真が目に飛び込んできた。ペラペラとページをめくってゆくと、どうやら男の子の成長記録だということがわかる。しかし一番最後のページには【実験により死亡】という文字が並んでいた。
「…………」
少し手前の文章を読んでみる。【筋肉の強化剤を投与した直後左腕が膨れ上がり破裂。その後試作段階であった延命剤を試験的に投与。直後に全身の穴から血を流し間もなく死亡】。私はしばらく身体が動かなかった。写真に写っているレックスという男の子は、まだ八、九歳くらいに見える。こんな小さな子供を使って……人体実験をしているなんて……。
そしてもう一つ気になっていたことがあった。写真の中のレックスという男の子には、犬のような耳と尾が生えていた。
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