めんどくさい程遠回り6




店の引き戸の前に立ってしばらくじっとしていた。夕方と呼ぶにはまだ早い時間。しかし外の気温は高く、コンビニから店までのわずかな距離でも、歩くと汗が吹き出てきた。早く涼しい店内に入らないとせっかくのデザートがダメになってしまうなと思いつつ、私は引き戸の前に立ち続けていた。

もし私が、「お前の努力なんて全部無駄だ、凡人は天才には勝てない」と言われたら、どんな気持ちになるだろう。そんなことわかりきっているけれど、でも、悲しくなったり苦しくなったりするだろう。頑張るのが嫌になってしまうだろう。

引き戸に手をかけた。そのままひと思いに、ガラガラと横に引く。ぶわっと冷たい空気が私にぶつかった。引き戸を開けた音で私が帰ってきたことはどうせバレている。私はいつも通りを装って店の中に足を踏み入れた。

カウンターの前を横切って店の奥に進むと、店長は私が飛び出した時と同じようにソファーに座っていた。私が近付いて来たことを察知した店長は顔を上げた。

「おかえり雅美ちゃん。遅かったね」

「すみません……」

テーブルには私が出た時のままプリントが散乱していて、今日もお客さんは来なかったことが窺えた。と、一枚のプリントを店長が差し出す。何だろうと思いながらもそれを受け取った。

「?何ですか……ってうまッ!」

プリントの裏にはシャーペンで絵が描かれていた。これは確か、モネの日傘をさす婦人……?

「あのね雅美ちゃん、僕にも苦手なことくらいあるよ。絵を描くのとか」

「どこがですか!」

シャーペン一本でこれだけの絵を描いておいて、どの口がそんなことを言うんだ!お前もう私の代わりに芸大行けよ!とツッコミを入れたいのをグッとこらえていると、店長は不貞腐れた様子で言った。

「模写はできるけど自分で考えては描けない。独創性がないからね」

「それは……」

「だから僕は美術の授業が嫌いだったわけだけど。ていうかあれってやる必要ある?」

「現役芸大生に言わないでくださいよ……」

まぁ私も、絵がすごく好きなわけではなくて、勉強が嫌いだったから半ば逃げるように芸大を選んだのだが。とは言っても絵を描くのは楽しいし、特に秀でた教科もなかったので、この選択は間違ってなかったと思っている。

「でも店長にも苦手なことがあって安心しました」

私の顔には自然と小さな笑みが浮かんでいた。ソファーのいつもの席に座ると、店長は不満そうな顔をして言い返した。

「雅美ちゃんは僕のこと何だと思ってるの?」

「サボってばっかりのどうしようもない上司です」

「だからね雅美ちゃん、縁の下の力持ちって……」

「わかってますわかってます」

私はテーブルに広がっている課題を片付けた。今日はもう課題はやらない。課題は家でやるものだ。家でやって終わるかどうかはわからないが、夏休みはまだ半分ある。なんとかなるだろう。

そういえば、と私はソファーの傍らに置いたコンビニ袋の存在を思い出した。課題をしまったトートバッグをソファーの足元に置いて、コンビニ袋をテーブルに乗せる。

「そういえばお兄さんにコンビニのデザートもらいましたよ」

「にぃぽんに?何で?」

「さっきたまたま会ったんで。店長どれ食べます?」

私は袋の中に入っていた五、六個の様々なデザートをテーブルに並べた。店長はそのうちプリンアラモードを手に取った。私は自分の狙っていたものが取られなかったことに安心しながら、チーズケーキに手を伸ばす。

「ここまで来て店に寄らないなんて珍しいね」

「そ、そうですよね。気が変わったんでしょうか」

おそらく私が店長とケンカしていなければ寄ったのだろうが、やっぱりお兄さんには悪いことをしてしまったな。一郎さんはお兄さんは甘い物をめったに食べないと言っていたし、コンビニでデザートの棚の前にいたのも店長への手土産を買うつもりだったからだろう。

「まぁこの前会ったばっかりだから来ない方がいいんだけどね」

「この前ってもう二ヶ月も前じゃないですか」

「え?ああ、そうだったね」

確か先月の頭に、依頼人のストーカーの輸送報告とか口実を作ってお兄さんが店に来たはずだ。二ヶ月ってけっこう長い時間だと思うが、それを「この前」と言うなんて。お兄さんが可哀想だ。

「そういえば店長はお兄さんと兄弟喧嘩したことあります?」

「さぁ、無いんじゃない?僕もにぃぽんもあんまりケンカとかするタイプじゃないしさ」

「そうですか……。私はけっこうするんですけどねぇ……」

きっと店長は嘘をついたな、と思った。それとも、子供時代のお兄さんとのケンカをケンカとして数えたくなかったのか。何にせよ、部外者の私が首を突っ込むことではないのだろう。でも気になるし……。

「兄弟喧嘩ってどんなことするの?」

「子供の頃は単純に殴り合いしてましたけど……最近は口喧嘩が多いですね」

殴り合いが無くなったのはただ単に身体が大きくなって力の差が出てしまったからだろうが、それでもこの歳でも口喧嘩はたまにする。もう少し年を取って、おじさんおばさんになったら兄弟喧嘩も無くなるのだろうか。お姉ちゃんとはもともとけっこう年が離れていたし、早くに家を出て行ったからあまりケンカはしなかったのだが。

「へー、殴り合いはしたことないなぁ。それって怪我とかしないの?」

「それきっとお兄さんが暴力に走るタイプじゃなかっただけですよ。怪我はまぁ、酷い時はしましたけど、たいてい見兼ねたお母さんが仲裁に入るので」

「ああなるほど、母親が間に入るのか。納得した」

妙にしっくりきたという顔をする店長を見て、私は黄龍で見た店長のお母さんを思い出してみた。一度しか見ていないし直接口を利いたこともないが、たしかに兄弟喧嘩の仲裁に入るような人ではないかもしれない。というか、完全にイメージだけで言うのは申し訳ないが、ちゃんと子育てをしたようには見えなかった。

「店長のお母さんって一回だけ見たことありますけど、綺麗な人ですね。女優って言われても信じますよ」

「顔だけね」

「でも一緒にいた花音ちゃんの反応がイマイチあれだったんで……」

「花音は嫌いだろうねたぶん。あの人上辺でしか人を判断しないから」

「じゃあ私は顔も覚えてもらってないですね。あ、でも、ということは店長のお父さんって実はすごい性格イケメ……あれ?」

「どうしたの?」

「すみません、何でもないです」

店長のお父さんは確か説明会の時に会ったあの人だ。「お父様と呼びなさい!」が印象的な。おじいさんは社長の一郎さんだし、お母さんはさっき言った通りこの前会った。お兄さん以外に兄弟はいないと言っていたし、あとはおばあさんに会ったら店長の家族コンプリートじゃないか?イメージほど謎でも何でもないよこの人。それに比べて店長からした私の家族の謎っぷりといったら。

と、店の裏から瀬川君が出て来た。瀬川君は私の顔を見ると口を開く。

「荒木さん戻ってきたんですね」

この口ぶりからすると、昼間私が出て行ったことは知っているようだ。もしかしたら本当にあの怒鳴り声が聞こえていたのかもしれない。だとしたら恥ずかしいな。とにもかくにも、心配をかけただろうから謝っておいた方がいいだろう。

「ごめんね瀬川君、突然出て行っちゃって」

「いいよ。どうせ店長が余計なこと言ったんでしょ?」

「リッ君の一言で僕の心が傷付いたんだけど」

「そうですか。救急車呼びましょうか?」

安定の瀬川君。でも瀬川君って店長以外にはそういうピリッとしたこと言わないよね。私も言われたことないし。それほど仲がいいということかな?だとしたら私はまだあんまり仲が良くないということになるが、二年以上も一緒に仕事しててそれはどうなの。

「そういえば瀬川君はどうしたの?」

普段自分の部屋にこもりきりの瀬川君が、今回はどんな用事で店に出てきたのか聞いてみたのだが、瀬川君は不思議そうな顔をしてこう返した。

「?別にどうもしてないけど……」

「あ、そうだったんだ、ごめん」

じゃあ一体なんの用事で来たんだ!?瀬川君が用事も無いのに店に出てくるなんて今までほとんど無かった。本当にふらっと気分で店に出ただけなら、それはにわかには信じがたいことなのだが。

「お茶淹れてくるよ」

私がそう言うと瀬川君はようやくソファーに座った。長居するつもりは無かったのだろうか。ちょっと店の様子を見に来ただけ?うーん、わからない。わからないが、私が瀬川君の行動理由を正しく推測できたことがあっただろうか。

一つ淹れるならついでにもう二つ。私は三人分のお茶を淹れて店に戻った。テーブルにお茶を置くと、お兄さんにもらったスイーツをもりもり食べていた瀬川君が「ありがとう」と言った。

「そういえばここ数日お客さん来ませんね。連続記録更新するんじゃないですか?」

「いや、昔三週間くらい来なかったことあったよ。五年くらい前」

「それは酷いですね。じゃあ十日じゃまだまだか……」

お客さんが来てくれないと本当にやることが無い。もしかして瀬川君もすることがなくて暇だから店に来たのかも。私にはよくわからない裏方の仕事をしている瀬川君だが、お客さんが来なければ仕事も減るだろう。

「まぁ暑いしいいじゃん。こんな時期にペット探しの依頼なんて来たら地獄だよ?雅美ちゃんが」

「何で私だけ地獄を見なきゃならないんですか。店長も手伝ってくださいよ」

「それは僕じゃなくてほら、リッ君に頼めば……あれ?リッくーん?」

瀬川君は返事よりスイーツを食べることを優先したようで、店長の声をガン無視した。

「それに雅美ちゃんも最近親が厳しいみたいだしさ、仕事なんて無い方がいいって」

「でもこう毎日暇じゃ……」

夏休みということもあり、日付と曜日の感覚が曖昧になってくる。一日中ずーっと暑くて、時間の感覚まで無くなってくる程だ。

「このマンネリを打ち砕く何かがあればいいんですけど……」

「そういえば雅美ちゃんって毎日店にいるけど友達いないの?」

「なっ、し、失礼ですね!いますよ友達くらい!みんな忙しいみたいですけど……」

私は大学も県外だし、そもそも大学にいる友達自体県外から通っている子が多いし、そんなに頻繁に会うことはできないのだ。バイトをしている子も多いし、遊ぶには入念に計画を立てる必要がある。そして結局「お互い遠いし正直ちょっと面倒臭いね。会おうと思えば学校で会えるしまぁいっか」となるのだ。

「それにこの前花火大会行く予定だったじゃないですか!……ドタキャンされちゃいましたけど」

「うんそうだったねごめんごめん。そんなに必死になるとは思わなかった」

「私は店長みたいにふらふらせずに真面目に働いてるんですっ」

あまり必死すぎると本当に友達がいない人みたいになってしまう。私は心の中で深呼吸をして気を落ち着けた。

「そういえば店長、青龍店からしつこくメールが来てましたがどうしましょう」

「無視していいよ」

「そうですか」

瀬川君は一言で返事を済ませると、三つ目のスイーツに手を伸ばした。どう見ても私と店長は一つしか食べていないのに、遠慮というものはないのか。

「ダメですよ店長、ちゃんと返事しないと。仕事のメールなんじゃないんですか?」

「仕事のメールっていうか勇人が頭の悪さをひけらかしてるだけのメールだから」

「大事なメールだったらどうするんですか」

「大事な用件だとたいてい店長補佐から送られてくるから大丈夫」

「仕事に支障が出ないならいいですけど……」

まぁ確かに、店長補佐がどんな人であろうと勇人さんより酷いということはないだろう。それに店長補佐はたぶん店長が信頼している人だと思う。この前の琵琶湖ベストカップルコンテストの時間変更を連絡したのは店長補佐の人ではないかと推測している。副店長という可能性も無いことはないが、普通に考えると店長補佐だろう。店長補佐は店長がいない時の代わりなんだから。

そんな店長補佐がいてくれるならひとまず安心だ。青龍店は勇人さんが威張り散らしていると独尊君が言っていたが、いったいどんな雰囲気で仕事をしているんだろう。今度独尊君に詳しく聞いてみようか。

このあとは珍しく瀬川君も交えて、三人でくだらない話をした。一時間程で瀬川君は自分の部屋へ帰ったので、私もカウンターでファイル整理を始める。いつもの朱雀店だった。

午後九時。私はファイルを閉じてカウンターから立ち上がった。ソファーにいる店長にもう帰る旨を伝える。自分の部屋から荷物を取ってきて、普段なら「お疲れ様です」と言いながら通り抜けるはずのソファーの後ろで足を止めた。

「店長」

声をかけると、ノートパソコンを開いたまま頬杖をついてぼーっとテレビを眺めていた店長が振り返った。

「今日はすみませんでした」

「どうしたのいきなり」

「いえちょっと……。ちゃんと謝っておこうと思いまして」

今日店に帰ってきて、店長は私に謝る機会をくれなかった。でもそうやって甘えてちゃダメだ。悪いことしたと思ったらちゃんと「ごめんなさい」を言わないと。

店長はこちらに向けていた顔を正面に戻した。私からは店長の後頭部だけが見える。

「別に怒ってはいないよ。ほら、僕心広いからさ」

「そうですね」

一度はそう呟いたが、私はすぐに明るい声に戻すとこう言い直した。「仕方ないのでそういうことにしておきましょうっ」

「何その上から目線」

「言っときますけど、普段店長がふらふら外出するのを咎めない私の方が心広いですからね」

「リッ君は文句も言わないのに」

「私のだって文句じゃないですよ部下としての至極当然な言葉を……」

「わかった、その話はまたいつか聞こう」

「いつかっていつですか!」

私はそのまま数歩歩いて引き戸の方へ向かった。その場で振り返って、ちゃんと聞こえるようにいつもより少し大きめの声で言う。

「お疲れ様です、また明日」

店長は「おつかれ」と言ってひらひらと手を振った。外に出ると昼間は太陽に熱されていた空気が冷えていて、少し心地よかった。私は自転車のサドルに跨ると、家へ向かって軽快にペダルを漕ぎだした。




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