めんどくさい程遠回り
八月三十日、日曜日。私は非常に焦っていた。すでに十二回以上も体験したことのある夏休み。いつも私は早めに宿題に取り掛かり、余裕を持って終わらせていた。しかし今年はバイトにやる気を出しすぎた。正社員になるという目標ができたせいで、私はバイトに力を入れすぎて課題をおろそかにしてしまったのだ。バイト三昧で宿題できてないって、何だ、私にっしーのこと馬鹿にできないじゃないか。
「雅美ちゃん」
「何ですか」
「暑い」
「クーラー効いてるでしょう」
「溶けちゃいそう」
「アイスじゃないんだから人間はそんな簡単に溶けません」
バイトにやる気を出しすぎたせいで、結局バイト先で課題に勤しんでいる私。本末転倒だ。だが、ここはクーラーがガンガンに効いていて快適なのだ……隣の店長がうるさくなければ。
「ねぇ雅美ちゃん」
「ああもううるさいなあ!」
私はテーブルをバンと叩いて立ち上がった。
「さっきから横で暑い暑いばっかり!勉強に集中できないじゃないですか!」
「だって暑いものは暑い」
「店長は暑くて外出れないから暇なだけでしょう!」
「そうだけど……」
「ほら、だらけない!シャキッとする!」
テーブルに頬杖をついている店長に檄を飛ばす。暑いのはみんな同じだ。こっちは課題が山積みで焦っているんだからごちゃごちゃ言わないでほしい。
「何で雅美ちゃんそんなに怒ってるの?暑いから?」
「店長が勉強の邪魔するからですよ!店長は暇でも私は暇じゃないんですからね!」
「勉強っていうかそれ学校の課題でしょ?家でやればよくない?」
「家でやるだけじゃ終わらないからここでやってるんです!もう静かにしててくださいよ!」
私はソファーにストンと腰を下ろし、再びシャープペンシルを握った。今やっているのは英語版絵日記みたいなものだ。その日の出来事を英語で書き、絵をつける。絵がセットに含まれているのは、私が通う大学が芸大だからだ。
だいたい、バイト三昧の私にとっては日記もクソもない。私に日記なんて書かせたら毎日同じ内容になってしまう。別にその日の出来事に限らず、何かに対する自分の考えとかでも良いのだが、そんなことを考えるよりは日記の方が、文章を書くのもイラストをつけるのもまだ簡単だ。私は半分以上妄想で英文を書いてゆく。
「…………」
ようやく訪れてきた私の集中力がプツリと途切れる。……見られている。何故だかわからないけど店長に見られている。
「……何ですか?」
顔を上げて、テーブルに頬杖をついたままジーッと私を見ていた店長に尋ねる。
「別に何もないけど」
「じゃあ見ないでくださいよ気が散るんで」
「雅美ちゃんの言う通り静かにしてたのに?何でそんな文句ばっかり言うの?」
「店長こそ何でそんなに私の邪魔したがるんですか!」
「暇だから」
その答えに私はイラッとする。自然と目が吊り上がる。
「自分が暇なら他の人も暇だと思わないでください!見たらわかるでしょ私焦ってるんです!」
「夏休みの前半に課題に全く手を付けなかった雅美ちゃんの自業自得のような」
「自業自得はわかってますよいちいち言わなくていいです!」
声がどんどん大きくなる。しかし私はそれに気付いていなかった。気づく余裕がなかった。店長は前屈みになっていた体勢をソファーに背を預けるものに変えた。
「ていうかたかが夏休みの宿題にどんだけ時間かけてるの?ちゃっちゃと終わらせちゃえばいいのに」
その言葉に私の中で何かがプツリと切れる音がした。私は先程よりももっと大きな音を出してテーブルを叩いた。ガラス製のテーブルは悲鳴を上げたが、私に構っている暇はなかった。
「できない人の気持ちなんて店長にはわかりませんよ!努力したこともないくせに!」
店長がぱちぱちと二回瞬きをした。きれいな形の目をいつもより大きく開けて、何も言わずに私の顔を眺めている。こんな大声、もしかしたら瀬川君の部屋まで聞こえていたかもしれない。だがそれももうどうでもよかった。
私はスッと立ち上がるとボソッと呟いた。
「散歩してきます」
店長は何も言わなかった。いや、私が言わせなかった。店長が何か言うより先に背を向け、店を出た。何故だか涙が出そうだった。
「暑さのせいだ……」
サボることを知らない太陽の日差し、ミンミンうるさいセミの鳴き声、そして終わらない課題。私はイライラしていたのだ、わかっている。しかしわかっているからといって自制できるものではない。
「…………」
すぐには帰りづらい。頭もまだ完全に冷えてはいない。私は少し考えて、ある場所へ行くことにした。今は休日の真っ昼間だが、何せ夏休みだ。バイト馬鹿のあの子なら絶対いるだろう。私は容赦なく照りつける太陽をひとつ睨んで歩き出した。
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