今宵の喜劇にカーテンフォールなど必要なかったのです3
八月二十二日。花火大会当日。
時計を見ると午後三時二十分だった。そろそろ浴衣に着替えて準備をした方がいいだろう。私は整理していたファイルを閉じて本棚に戻した。店長は相変わらずテレビを見ながら仕事をしている。今日は私が夕方からいないから代わりに店番をするために出かけなかったのだろう。
「よし、着替えるかっ」
自分の部屋の真ん中に立って、意気込んで手提げカバンから浴衣を取り出す。まずは白い肌着を着て、その上から浴衣を羽織る。生地がたるまないように気を付けながら腰紐をきつめに結ぶ。よし、ここまでは完璧。あとは問題の帯だけど、家でお母さんと一緒にやった時一回できたからたぶん大丈夫だ。私は帯の結び方をネットで調べてプリントアウトしたものを取り出した。これは文庫結びといって、一番一般的な結び方らしい。
「えーと、まず片方を半分に折って肩にかけておいて……」
半分に折ってない方を腰に巻いていって、重なった帯の上の方をこう……斜めに折って、肩にかけておいて方を上から被せて端を下から……あれ?どうなってるのこれ?いいや、とりあえず結んで、長く余ってる方を裏返しに向けて広げて……。
薄々わかっていた。だが認めたくなかった。説明文の九番目でもうわからなくなってる……!写真付きでわかりやすいサイトを選んだのに!
だが大丈夫、別に焦ってはいない。ここは何でも屋だぜ?何でも屋は何でもできるから何でも屋なんだぜ?ということで、私は帯を持って店へ向かった。
「店長~、帯結べます?」
ノートパソコンの上に両手を置いたままぼーっとテレビを眺めていた店長に声をかける。紅色の帯を差し出す私を見て、店長はちょっと呆れた顔をした。
「何でわざわざ半幅帯にしたの。もともと結んであるやつあるでしょ」
「いや、こっちの方がカッコイイかなと」
苦笑いを浮かべる私から帯を受け取る店長。ソファーの背もたれに座って私の腰に帯を巻いてゆく。……いや、私の背が小さくて巻きにくいから背もたれに座ったとかそういうのは断じてない、はず。
「ちょっと袖上げて」
言われた通り長い袖を持ち上げて突っ立っていると、店長はあっという間に帯を結い終わった。最後に結び目の形を軽く整える。
「これ何か私が調べたやつと違いますね」
「ああ、これみやこ結びっていうの。雅美ちゃんにぴったりでしょ」
「へー。ありがとうございます」
みやこ結びなんて結び方があるのか。入り組んだ帯が大きな蝶みたいなリボンになっていて、文庫結びの十倍豪華だ。帯の裏面の黄色もちらっと見えていてかわいい。
「それにしても店長、何で浴衣の帯なんて結べるんですか?」
純粋に思ったことを尋ねてみた。だってこの結び方は明らかに女性向けだ。自分が着るときにはしないだろう。
「昔よく深夜にさせられてたからね。帯と本押し付けられたら嫌でも覚えるでしょ」
「ああ、なるほど。深夜さん着物とか着そうな家柄ですよね」
「ほんとは自分でできなきゃダメらしいんだけどね。深夜は今でもできないよ」
自分の仕事は終わったとばかりに店長はテレビを眺める作業に戻った。私もここを出るまでもう少しあるし、一緒にテレビでも見て時間を潰そうと隣のソファーに座った。今のうちに荷物を確認しておくかと巾着袋の口を開けた途端、中に入れておいたスマートフォンが鳴り出した。これは電話がかかってきた時の音だ。
「はいもしもし?」
すぐに通話ボタンを押してスマホを耳に当てると、にっしーの申し訳なさそうな声が聞こえてきた。
《あっらー……すみません……。今日バイトの子が風邪で一人休んで、私閉店まで仕事になっちゃいました……》
「えええええええっ!?」
私の大声に、店長が何事かとこちらを見る。スマホからはにっしーが《すみませんすみません》と連呼する声が流れていた。
「そ、それ断れないの?」
《今日お客さんがすごく多くて……。今も無理言って電話だけさせてもらってる状況なんで……》
にっしーは申し訳なさそうにまた《すみません》と言った。私はふっと短いため息をつく。
「わかった、仕事ならしょうがないしね。代わりにまた今度近所の夏祭り行こ。花火はないけど……」
なおも謝り続けるにっしーに「仕事頑張ってね」と言って電話を切った。そして今度は失望のこもった大きなため息をつく。
「雅美ちゃん大丈夫?」
「今日の花火大会ナシになりました……」
「うん、そうだと思った」
私は壁にかかった時計を見た。あと三時間と少しで花火が上がり始めるだろう。一万発の花火が。
「あ~~……せっかく浴衣買ったのに……くそぅ……」
「そんなに行きたかったの?」
「店長今からでもどうです?花音ちゃんと。私店番しとくんで」
「……遠慮しとくよ」
今の私はそんなに落胆しているのだろうか。店長が意地悪の一つも言ってこないなんて。
テレビが流す雑音を聞きながら時間が流れてゆくのを感じる。せっかく着た浴衣を着替える気にもなれず、私はただただ考えていた。考えてしまっていた。
「にっしーは悪くないにっしーは悪くないにっしーは悪くないにっしーは悪くない……」
にっしーはバイトの子が一人休んだと言っていたが、考えてみればその子絶対今日の花火大会行ってるよ。理由は風邪だとか何とか言っていたらしいが、そんなものどう見たって嘘だろう。
「にっしーは悪くないにっしーは悪くないにっしーは悪くない」
だったらその子がサボってにっしーが働くなんておかしいんじゃないか。何でその子の代わりににっしーが花火大会諦めなくちゃいけないんだ。にっしーもにっしーだ。そりゃ先輩に仕事残ってと頼まれたら断りにくいのはわかるが、私と花火大会に行くという立派な理由があるのに断れないなんて。にっしーはもう少し押しの強さというものをだな……。
「にっしーは悪くないにっしーは悪くないにっしーが悪いにっしーが悪いにっしーが悪いっ!」
ぶつぶつ呟いていたのを大声に変えて言う。
「ああもう、にっしーが悪い!仕事なんて断れバカ!」
「雅美ちゃん……」
くそぅ、もう七時を五分も過ぎた。花火が上がるのは七時からだ。空は快晴。花火は綺麗に見えるだろう。
「くそぅ……花火大会行きたかった……」
息と一緒に本音を吐き出す。すると今まで私の落胆ぶりを黙って見ていた店長が、突然私の腕を掴んだ。
「雅美ちゃん、立って」
「へっ?なんでで……ひゃあっ」
何でですかと問うよりも、私が立ち上がるよりも早く店長は立ち上がり、私の腕を掴んだまま店の裏へ向かう。私はそれに引きずられるようについて行った。
台所の前を通り、靴を脱ぎ捨て、ついた場所は瀬川君の部屋の前。店長が私の腕を掴んでいるのとは逆の手で部屋のドアをノックすると、瀬川君が無言で顔を出した。その瀬川君の腕も掴んで店長はまたずんずん歩き出した。瀬川君はびっくりした顔で私を見る。
私に説明を求められても答えられない。むしろ説明してほしいのは私の方だ。そう思っていると、店長はそのまま二階への階段を上りはじめた。
「店長!?二階はダメなんじゃ……」
「いいからいいから」
階段を上りきり、腕を引かれるままに廊下と部屋を突き進む。店長がようやく立ち止まった場所はベランダだった。木製の床と手すりの、店の外からいつも見ているあのベランダだ。手すりのすぐ下の瓦屋根には【何でも屋朱雀】と書かれた看板がある。そして、夜空を見上げるとそこには色とりどりの花火が咲いていた。
「店長、何なんですかこれは」
「雅美ちゃんが花火見たいって言うからさ」
無表情のまま問う瀬川君に店長が答える。それから店長は、隣の私を見下ろして尋ねた。
「満足した?」
「……はい、ありがとうございます……」
「なら良かった」
それからベランダに三人並んで花火を見た。花火大会の会場はここから少し遠いが、空が晴れているのとこの辺りに高い建物が少ないおかげでよく見えた。リンゴ飴も焼きそばもなかったけど、三人で見る花火は綺麗で、この店はやっぱりいいなぁと改めて好きになった。
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