犬も食わない2




「花音ちゃん、お待たせ~」

「いいえ、突然呼び出してしまって申し訳ありませんわ」

カフェに到着して、すぐに隅の席に座る花音ちゃんを発見した。店員さんに連れと相席する旨を伝え、彼女の元に向かう。花音ちゃんはわざわざ立ち上がって私を出迎えてくれた。

向かいの席に座り、紅茶を一杯頼んで、花音ちゃんを観察する。パステルカラーのワンピースに小ぶりなバッグを合わせている。化粧もナチュラルメイクの粋をギリギリ出ないラインでバッチリと決めていた。

「さっきはどうしたのかと思って心配してたんだ。どうせ店長が何か言ったんだろうとは思ったけど」

席についてさっそく問題の話題を出した。わざわざ私を呼び出したのだから、花音ちゃんも早くこの話をしたいだろうと思ったのだ。

「いいえ、蓮太郎さんだけが悪いのではありませんわ。今回は私も酷いことを言いましたもの」

「花音ちゃんがそんなこと言うの珍しいね。何て言ったの?」

「……せっかく会いに来たのにどうして優しくしてくださいませんのとか言ってしまいましたわ。恥ずかしい」

そこに店員さんがやって来て、私の前に紅茶とチーズケーキを置いた。赤の他人にさっきの言葉を聞かれたのが恥ずかしいのか、花音ちゃんは頬を更に赤くした。

「それのどこが酷いことなの?ほんとのことじゃん」

「全然本当ではありませんわ。付き合ってもいない男性に言う台詞ではないですもの。ああ、どうしてあんな彼女気取りのクソ女みたいなことを言ってしまったのでしょう。恥ずかしい……。穴があったら入りたい……」

もともとピンク色のチークを塗っている花音ちゃんのほっぺたは、最早茹でダコのようだった。

「しかもそれだけではありませんの。来てほしいとか一言も言ってないんだけどと返されて、他の女性にはそんな事ないのに私だけ突き放すのはおかしいって叫んでしまいましたの!」

花音ちゃんは顔を両手で覆うと、めそめそと泣き言を呟き出した。

「ああ恥ずかしい恥ずかしい。女の嫉妬ほど醜いものはありませんわ。完全に鬱陶しい女に成り下がりましたわ。こんな面倒臭いことを言われて喜ぶ殿方はおりませんわ!」

「まぁまぁ花音ちゃん、ほらチーズケーキだよ、あーん」

私がフォークを差し出すと、花音ちゃんは手をどけて口を開いた。しばらく黙ってケーキを咀嚼する。

「で、店長はそれに何て返したの?」

「……別に私にだけ素っ気ないわけではないとおっしゃいましたわ……。でも誰がどう見ても私にだけ冷たいでしょう!?」

「うーん、申し訳ないけど否定できない……」

「やっぱりですわ!やっぱりそうですわよね。ですから私、ならどうして私が来ても喜びませんの、私は追い返そうとしますの、私に会いに来てくれませんの!って言ってしまったんです!恥ずかしい!」

花音ちゃんはまた手で顔を覆ってしまった。

「いやでもさ、たまにはそういうこと言うのもいいと思うよ?本音っていうの?正直店長は花音ちゃんの懐の深さに甘え過ぎだよ」

私の言葉に、花音ちゃんは現した顔にクエスチョンを浮かべる。

「だって店長、花音ちゃんになら何言っても許されると思ってるもん。もうあなたのこと嫌いになりましたわ!くらい言って動揺させてやればいいのに」

「……残念ながら雅美さん、これだけ言っても蓮太郎さんは全く動揺なさいませんでしたわ」

「そんなことないよ。私は少なからず気にはかけてると思うなぁ」

宥める為ではなく本当にそう思っているのだが、どうやら花音ちゃんは信じていないらしい。なら押し問答になる前に、さっさと話を進めることにする。

「まぁそれはそれとして、店長は何て返したの?」

「喜ぶようなことされてないし普通にしてたら追い返さないしわざわざ会おうと思う前に仕事で顔合わせてるじゃんって言われましたわ」

「ふむふむ」

「それについ、私のアプローチの方法が悪いって言いたいんですの!?って叫びましたら、何だわかってたんだと笑われまして……」

「うー……ん」

「ならアプローチの方法を変えますわと宣言してから、こう上目使いで頬を染めて二人で海に行きません?って誘ってみたのですが」

「ああここで海か」

両手を組んで目をうるうるさせながら私を見上げていた花音ちゃんは、いつもの顔に戻って再びクエスチョンを浮かべた。

「ううん何でもない、続けて続けて」

「はあ……なら続けますけれど、そんな感じで海に誘ってみましたの。それに蓮太郎さん何て答えたと思います?海嫌いだから行かないって!行かないって!」

「じゃあ別のところ誘えば……」

「アプローチ変えたらイエスって言ってくれるのではないのですか!どうしてノーなんですの!」

「それ店長に言ったの?」

「そっくりそのまま言いましたわ……。そうしたらやり方変えたらイエスと言うとは約束してないって!」

「まぁ確かに」

「それに私が怒鳴り返して飛び出した時、雅美さんがやって来たのですわ」

「なるほどそのタイミングで」

私は無意識のうちに左肩をさすった。

「だいたいわかったけど、でもそれって花音ちゃん別に悪いこと言ってないじゃん。気まずくなる必要ないよ」

「必要大ありですわ。あんな身勝手なことをまくし立ててしまって。本当に恥ずかしいですわ。私どうしたらいいんですの」

またもや頬を染め、手で顔を覆って頭を振る花音ちゃん。そんなに気にする必要ないとは思うのだが。言ってることもやってることも思ってたより通常運行だよ。

「とりあえずさ、店戻らない?今なら店長いるしさ」

「さっきの今でですの?もっと日を改めてお互い今日のことを忘れたころに……」

「大丈夫大丈夫。それに時間あいて次来にくくなるの困るでしょ?私がいつものコメディみたいな雰囲気に持ってってあげるからさ、リセットして帰ろうよ」

これだけ言ってもまだ腰が重たい花音ちゃんに、私は「次来るときの為にさ」と付け足す。すると彼女はようやく腹を決めたようだ。花音ちゃんも、気まずい気持ちのまま今日帰っては次店長に会いにくくなるということは理解しているらしい。

「わかりましたわ。私、仲直りいたします」

「だからもともと喧嘩なんてしてないって。まぁそうと決まればさっそく行こう」

私は一口だけ残っていた紅茶を飲み干すと、伝票を持ってレジへ向かった。

数分後、私と花音ちゃんは朱雀店の前にいた。花音ちゃんが「やっぱり帰る」と言い出す前に、到着して間髪入れずに引き戸を開ける。

「店長ー、帰りましたー」

花音ちゃんの腕を引きながら店の奥に進むと、ソファーに座っている店長がノートパソコンから顔を上げた。私に挨拶を返そうとして、私の後ろにいる花音ちゃんの姿を認める。

「え、何で花音連れてきたの」

「まだそこにいたんで、たまには三人でお喋りもいいかと思いまして」

私は花音ちゃんを普段瀬川君が座っている席に座らせると、自分は台所へ向かった。手を洗い、紅茶を三つ淹れる。それをお盆に乗せて店に戻ると、予想外に二人は会話をしていた。

「ですから、それはおかしいですわ。蓮太郎さんはお兄様には会いにわざわざ玄武店まで来ますのに、私にはそうしてくださいませんもの」

「全然おかしくないでしょ。そりゃ陸男とお前が全く同じ人間だったとしたらそうとも言えるけど、実際はそうじゃないだろ」

「だとしても、あまりに私の扱いが雑すぎるのではありません?私でなければ怒るどころではありませんわよ」

「怒ってないんならそれでいいじゃん」

「怒ってはいなくてもショックですわ」

「なら逆に考えよう。花音だけその扱いってことは、それってむしろ特別扱いしてるってことじゃない?」

「そ、それは……むぅ……ちょっと……。あら?雅美さん、いつからそこに?」

「つい今、一秒前」

本当はもうちょっと前からいたのだが、一秒前も一分前も変わらないだろう。私はテーブルに紅茶を置くと、唯一空いているソファーに座った。店長から見て斜め左、花音ちゃんの正面である。

「二人とも結構普通に話してるじゃないですか。心配して損しました」

「別に喧嘩してたわけじゃないからね」

店長がカップに口をつけながらそう答えた。花音ちゃんはもじもじと少し身体を揺すっただけである。

「そういえば花音ちゃん、夏休みはどう?高校生は先月から休みに入ってるんだよね?どっか行った?」

「ええ、いろいろ行きましたわよ。友達と海とプールに。山はさすがにお断りしましたけれど」

「へー、いいね。でも行ったわりには全然焼けてないじゃん」

「二時間毎に日焼け止めを塗り直し、常に影の下にいるようにいたしましたから」

「それって行って楽しいの?」

その言葉に私は店長に目を向けた。私も全く同じことを思ったが、わざわざ口には出さなかったのに。

「楽しいですわよ。それなりには」

「別によくない?ちょっとくらい焼けたって。どうせ冬になれば戻るんだから」

「いや店長それは違いますよ。季節問わず焼けないに越したことないんですよ」

「そう言う雅美ちゃんはすでに少し焼けてるじゃん」

そう言われて、私は「だって日焼け止め塗り直すの面倒臭い……」とゴニョゴニョ呟いた。朝塗った日焼け止めの効力が午後には失われていることは理解しているが、いちいち塗り直すのはやはり手間だ。私化粧直しとかもしないタイプだし。

「ですが雅美さん、実際こところ日焼け止めは大事ですわよ。美白の時代ですもの」

「わかってはいるんだけどねぇ……」

「九月になっても紫外線は刺さりますわよ。私オススメの日焼け止めがありますの。雅美さんもいかがです?」

そう言って花音ちゃんがカバンから取り出した金色の容器は、ドラッグストアなどで二千円くらいで売られているものだった。

「使いかけのものですが、雅美さんに差し上げますわ」

「ええ!いいよ、悪いし」

「何てことありませんわ。たくさんストックしてありますもの。それにこれ一つで雅美さんの美意識が上がるなら安いものですわ」

花音ちゃんはそう言いながら、日焼け止めの容器を私の手にねじ込んだ。

「まぁそう言うなら貰っておくよ。ありがとう」

私は手の中の容器を一度じっくり見て、その後テーブルの上に置いた。中身は半分ほど入っているようだ。

「実はそれ、前に蓮太郎さんにもオススメしましたんですのよ」

「え、店長日焼け止めとか使ってたんですか」

「今はね」

「信じられませんが、ちょっと前まで本当に何も塗っておられなかったのですわよ」

「花音が紫外線は病気にもなるって脅すからさ」

「でも本当のことですわ。命を落とす病気にもなりかねませんのよ。蓮太郎さんが死んでしまったら私は生きていけませんわ」

「へー」

私は「へー」の後に何と言おうか考えたが、結局何も思いつかず口を閉じるしかなかった。

「あ、そうだ雅美ちゃん。昨日にぃぽんに貰ったお菓子あるけど食べる?」

しかし私が口を閉じて間髪入れずに店長がそう言ってくれたので、私は「食べます!」と有りがたくその言葉にすがった。

「じゃあ取ってくるから待ってて」

店長はソファーから立ち上がり、店の裏へ消えていった。どうやら向かう場所は台所らしい。

私は店長がいないわずかな時間を使い、花音ちゃんに小声で声をかけた。

「店長全然怒ってないじゃん」

私の言葉に花音ちゃんはほわほわと微笑んで返す。

「ええ、安心しましたわ。ですがよく考えたら蓮太郎さんは心の広いお方、私の戯言くらいで腹を立てることなどなかったのですわ」

「いやまぁ心が広いのは認めるけど、そんな高貴な感じにしなくても」

「いえ雅美さん、私はどうして蓮太郎さんがこんななんの変哲もない普通の街で普通の生活をしているのか昔から疑問だったのですわ。蓮太郎さんなら会社を興したり芸能人になったりできるはずなのに」

「否定はしないけど、あの人基本やる気ないじゃん」

「ありがたいですわ。蓮太郎さんが手を伸ばせば届く距離にいてくれて」

そう言ったあと、花音ちゃんは小さく「まぁ気持ちには届いていないみたいですが」と付け足した。それに返す言葉を私が考えている時、綺麗なラッピングの箱を持った店長が戻って来た。このタイミングならさっきの会話は聞かれていないだろう。

「何貰ったんですか?」

「クッキーだって」

店長はソファーに座るやいなや、箱の包装を解き始めた。中からはシックでオシャレな箱が現れ、三種類のクッキーが詰まっていた。どこのお菓子かはわからないが、おそらく高いものだろう。

「そういえば荷太郎さん、先日神戸へ出張に行かれてましたわね」

「そうそう、どっか行くたびに何か買ってくるんだよねぇ」

クッキーを一種ずつ計三枚取り分けながら店長はこう続けた。

「どっかっていうか滋賀を出るたびに買ってくるよね」

「荷太郎さんが出張好きな理由がわかりましたわ」

花音ちゃんが一枚取って封を開けたので、私もクッキーに手を伸ばした。プレーン、チョコ、抹茶とラインナップがある中、とりあえずプレーンを選ぶ。

「別に自分が行かなくてもいい時も行くよね、にぃぽんは」

「いいのではないですの。白虎店は鈴鹿さんもしっかりまとめてらっしゃいますし、それにあそこは古参の社員さんが多いですから」

「正直空気悪いよねあそこ」

「うちの雰囲気に慣れているとどうしても……。八束さんや甘利さんと顔を合わせた時も気まずいですし……」

「甘利さんって僕好きになれないなぁ。ねちっこいよねあの人」

「いちいち嫌味ったらしい方ですわ。まぁ売り上げが常にうちの方が優っているので、大っぴらには言ってきませんが」

「でも二言目には本家だ直系だって言ってくるでしょ。ああいうのほんと鬱陶しい」

「ノット直系だからって下に見ないでほしいですわ。たいした特技も無いくせに大物面して」

「自己顕示欲の塊だよね。いつも大きな仕事で一発当てるの狙ってるけど、結局あの年まで中堅だもんな」

「才能ないんですわよ。経験だけ無駄に長くて、見かけだけのベテランですわ」

二人の正社員トークに混じれない私は、おとなしくクッキーをサクサクいわせていた。私が五枚目のクッキーに手を伸ばした時、二枚目の封を開けた花音ちゃんが私に話を振ってきた。

「その点朱雀店は気楽ですわよね。顔だけ大きいおじ様方もいませんし、若い方だけの空気って楽しいですわよね」

「ああ、うん。今の話聞いてるとそう思うよ」

私は中途半端な位置で止まっていた手でクッキーを掴む。一番おいしいのはやはりプレーンだと思った。

「私も朱雀店で働きたいですわ。ねぇ蓮太郎さん、一人くらい従業員増やしてもいいのではありません?」

「今のところ人手は足りてるから大丈夫」

「ですが蓮太郎さん、最近忙しくされているではありませんか」

「うー……ん、今はまだ回ってるから大丈夫」

「本当に仕事が片付かなくなったらいつでも私を呼び付けてくれてかまいませんのよ。いつでも異動する準備はできていますわ!期間限定でも」

「大丈夫大丈夫」

「大丈夫」を繰り返す店長に、花音ちゃんはようやく引き下がった。いつもならもう二、三大丈夫くらいは食い下がっただろうが、朝のこともあってか今日は大人しめのようだ。

「まぁ朱雀店は一応瀬川さんが有能でいらっしゃいますしね」

「あ、そうそう、リッ君なんだけどさ、花音ちょっとあれ教えてあげてくれない?」

クエスチョンを浮かべる花音ちゃんに、店長が「花音が得意なやつ」と補足する。どうやら花音ちゃんはそれで理解できたようだ。彼女は眉間に浅いシワを作る。

「ですが瀬川さんにその気がありますかしら?」

「リッ君運動しないだけで運動神経は悪くないよ」

「それはまぁ、なんとなくわかりますわ。一目しか見る機会はありませんでしたが、久世さんの体術は素晴らしいものでしたし」

「僕いざとなった時の陸男と花音って理想だと思うんだよねぇ」

「ですが瀬川さんにねぇ……」

何の話かはわからないが、店長の頼みだというのに珍しく花音ちゃんが渋っている。私はだいぶ数が減ったクッキーに手を伸ばしつつ二人の会話を聞いていた。しかし、唐突に自分の名前が出て顔を上げる。

「でしたら、雅美さんの方がいいのではありません?その方が私もやる気が出ますわ」

花音ちゃんの言葉に店長が私の顔を見る。その表情には「微妙」の二文字が浮かんでいた。

「雅美ちゃんかぁ。だって雅美ちゃん学校卒業したらバイト辞めるじゃん」

「えっ」

何でも屋の正社員を目指していることを未だに店長に言えないでいるので、私は思わず声を出してしまった。しかし店長も花音ちゃんもそれは気にしなかったようだ。

「それはそうですけれど、雅美さん四大の今一年生でしょう?あと三年あるではありませんか。雅美さんの後に入ってきた子に教えることもできますし」

「でも長い目で見た方がいいと思うよ。簡単に身に付く技術じゃないし」

「まぁ蓮太郎さんがおっしゃるなら……。社員希望の方に教えた方が有意義なことは私も理解しておりますし」

花音ちゃんはまだ納得しきれていないようだったが、それ以上反論するのをやめた。花音ちゃん的には瀬川君と関わることに気が進まないだけなのだ。それをあんまり前面に押し出すと店長からの評価を落とすと考えたのだろう。

「ですが私もあまり時間を取ることはできませんわ。自分の店の者も育成しなければなりませんし」

「いいよ空いてる時だけで。リッ君をそっちに寄越すからさ」

「瀬川さんはいい顔をするでしょうか……」

花音ちゃんがチラリと店の裏に目を向ける。おそらく自室にいる瀬川君のことを考えたのだろう。私もちょろっと瀬川君のことを考えてみて、そして口を開いた。

「何の話かはわからないけど、仕事の勉強なら瀬川君頑張るんじゃないかな?瀬川君って仕事のためならすごい努力しそうだし」

私の言葉に、しかし花音ちゃんは瀬川君に触れずにこう返した。

「雅美さんは仕事のためならすごい努力はいたしませんの?」

「え、私?まぁ出来る限りのことはしようとは思うけど……」

私の答えを言葉尻まで聞く前に、花音ちゃんは店長に顔を向けた。

「蓮太郎さん、聞きまして?雅美さんやる気あるみたいですわよ!」

「そんなにリッ君嫌なの?」

店長のズバッとした質問に、花音ちゃんは笑顔を引っ込め代わりに唇を尖らせてこう返した。

「別に嫌というわけではありませんわ……雅美さんの方が気が楽だというだけで」

「無理にとは言わないよ。にぃぽんに頼むのは癪だけど高良君だっていいんだからさ」

「そんな、誰だっていいだなんて!」

「誰でもいいわけじゃないよ。そこそこ腕が立たないと。でも花音が嫌なら他に人当たるしかないじゃん」

「嫌ですわ、嫌ですわ!」

花音ちゃんは両拳を握りしめ頭をぶんぶんと振った。ゆるくパーマを当てた茶髪が激しく揺れる。

「私が一番上手いですもの、私に頼るべきですわ!」

「花音が一番なのは認めるよ。でも乗り気じゃないんでしょ」

「わかりましたわ、やりますわ!他の人に頼むくらいなら私が!」

「そう?ありがとね」

何だか花音ちゃんが上手く丸め込まれた気がするが、どうやら私には関係のない話のようなので何も言わないことにする。花音ちゃんは乱れた髪をさっと整え、モゾモゾと座り直した。

話が一段落し、会話の間に微妙な間が出来る。店長は何も考えていないだろうが、私と花音ちゃんは次の話題を考えながらクッキーに手を伸ばした。ほとんど私が食べてしまったクッキーは残り五枚しかなく、そのうちの二枚が私と花音ちゃんの手に渡る。私達が封を開けクッキーを口にしようとしたところで、引き戸が開くガラガラという音が聞こえた。

「い、いらっしゃいませ!」

私はクッキーをテーブルに置き、慌てて立ち上がる。引き戸の方へ向かおうとした時、来客が真っ直ぐこちらへ歩いてくるのが見えた。引き戸を開けた正体はお客さんではなく陸男さんだった。

「悪かったな、蓮太郎、荒木さん。花音を引き取りに来た」

そう言いながらこっちにやって来る陸男さんに、花音ちゃんが立ち上がって振り向く。彼女とは逆に私はソファーにストンと腰を下ろした。

「お前朝から見かけねぇと思ったらこんな所に入り浸ってたのかよ」

「いいではないですか!今日はたいした仕事もありませんし!」

「たいした仕事はねぇけどいくらなんでも居すぎだろ。何時間いんだよ。帰るぞ」

当然のように反発する花音ちゃんに、最早面倒臭そうに説得する陸男さん。おそらく二人は似たようなやり取りをもう何十回と繰り返してきたのだろう。

「嫌ですわ!私の時間をどう使おうが私の勝手ですもの!」

「そりゃそうだけどよ、相手の迷惑も考えねぇと」

「迷惑なんかじゃありませんわ!ねぇ蓮太郎さん!」

そう言って振り返った花音ちゃんの視線の先には、スマートフォンで電話中の店長の姿があった。玄武店の二人は自分達のやり取りに夢中で気付かなかったが、つい先程かかってきたのだ。正確に言うと花音ちゃんが「今日はたいした仕事もありませんし!」と言った辺りである。

「ほら、蓮太郎も仕事あるし帰るぞ」

「うぅ……仕事の電話ではないかもしれないではありませんの」

花音ちゃんが自分の言葉に自信なさ気な顔をして店長を見る。私達も店長の電話が終わるまで静かにしていた。通話はすぐに終わった。事務的な口調で応答していた店長は、スマホをポケットに突っ込むと立ち上がって陸男さんに顔を向けた。

「せっかく来てくれたとこ悪いけど急用入った」

「おお、みたいだな。気をつけてけよ」

店長はチェストから車の鍵を取り出すと次は花音ちゃんに声をかけた。

「さっき言ってたやつ詳細は店舗にメールするから」

「あ、はいですわ」

花音ちゃんは店長の動きを追うように身体の向きを回転させる。店長は最後に私にこう言った。

「僕出かけるから、何かあったらリッ君に言って」

「はい」

私は返事をして頷いた。店長はそれを確認するとすぐに店の裏に姿を消した。花音ちゃんと陸男さん、そして私だけが残される。

「……蓮太郎さんが行ってしまったのでは、帰るしかありませんわね」

花音ちゃんはのろのろと荷物をまとめ出した。夢から覚めた直後のような呆けた表情をしている。

「残念だね、店長急用なんて。今日調子良かったのに」

私の言葉にまだ立ったままの陸男さんが不思議そうな顔をしたが、私も花音ちゃんも一切の説明はしなかった。

「ええ、こんなに話せたのですから、今日は素敵な日ですわ」

「ね、やっぱり戻って来て良かったでしょ」

「雅美さんのおっしゃる通りですわね。本当にありがとうございますですわ」

呆けた顔をしていた花音ちゃんは、今度はふにゃふにゃと微笑みだした。陸男さんは未だにクエスチョンを浮かべているが、店長から多少優しくされたのだろうという事くらいは察しているだろう。

「本当はもっとお邪魔していたかったのですが、これにて失礼いたしますわ。お兄様も来たことですし」

花音ちゃんは立ち上がると少し恨みがましい目で陸男さんを見た。だが今回は店長に急用が入ってしまったのだから、陸男さんは一ミリも悪くない。むしろ電車で帰る面倒が無くなっただけ彼に感謝すべきだ。

「それでは雅美さん、また近いうちに。蓮太郎さんによろしくお願いいたします」

「うん、またね」

玄関へ向かう兄妹をお見送りしようと私も立ち上がる。陸男さんが先に戸をくぐり、花音ちゃんもそれに続くと思ったその時、彼女は立ち止まって私を振り返った。

「あの、雅美さん、ご迷惑は承知なのですが、一つ伝言を頼まれてくれませんか?」

「いいよ、店長に?」

立ち止まった花音ちゃんをチラリと見た陸男さんだが、足は止めずにすぐそこに停めたバイクの方へ向かった。私達の話を聞くつもりはないようだ。花音ちゃんが心なし小声だったから気を使ったのだろう。

「ええ、今日のこと、やはり私の言い過ぎだったと謝っておいて頂けませんか?直接言うべきなのはわかっているのですが……」

「オッケー、任せておいて」

私がニコッと微笑むと、花音ちゃんはホッと表情を緩めた。

今度こそお見送りして、小さくなる二人乗りのバイクから視線を外す。店に入って引き戸をピシャリと閉めると、涼しい空気が私を包み込んだ。

テーブルの上のカップを片付けながら思う。先程の花音ちゃんの伝言、おそらく私は伝えないだろう。だって反省してたのはきっと店長の方。

泡を立てたスポンジをカップのカーブに滑らせながら、つい微笑む。だって今日の店長、花音ちゃんに「帰れ」って一度も言わなかったもん。




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