犬も食わない
「ああ~……あっづい……」
思わず口から溢れる悪態。今日は八月五日、水曜日。夏真っ盛り。ようやく夏休みに突入した私は、こうして足を引きずるように朝からバイトへ向かっているのだ。八月に入ったこの時期、朝も昼も夜も関係なく暑い。
「くそ、くそ兄貴。くそ、」
更に運の悪いことに、この晴天の中今日は徒歩出勤だ。朝早く仕事に出て行った兄が、「いやー昨日チャリ盗まれちまってさ、借りるわー。ははは」などと内心で言いながら無断で私の自転車を持っていったのだ。いつもの時間に玄関を出て庭先の駐輪スペースを見た私に殺意が湧いたのは言うまでもない。
「いや多少の遅刻は全然いいんだけどさぁ……」
このカンカン照りの太陽の下徒歩で三十分近く歩くのは苦行だ。自転車を漕いでせめてもの風を感じていたかった。
「だいたいお兄ちゃんは車も乗れるし原付きも持ってるんだからわざわざ自転車選ばなくても……」
周りに人がいないものだから思わず声に出る不満。おそらく駅前の駐輪場の契約の関係で自転車しか選択肢がなかったのだろうが、そんなこと私には関係ない。そりゃあ私だって、車の免許持ってるってことはお兄ちゃんの原付きに乗っても何の問題もないんだけど、そんなこと私には関係ない。というか原付きなんて一回も運転したことないからそれは本当に関係ないのだ。
暑い暑いクソ兄貴クソ兄貴、と呪文のように繰り返しながら、ようやく店に到着する。
「おはようござ……ぎゃっ」
「蓮太郎さんの、バカ━━!」
挨拶をしながら店の引き戸を開けたら花音ちゃんが飛び出してきた。彼女は私の肩に体当たりをかましてそのまま走り去ってしまう。私は崩れかけた体勢を立て直して、店の中にいる店長に尋ねた。
「……ついに夫婦喧嘩ですか?」
「ふざけたこと言わないで」
私は花音ちゃんにタックルされた左肩を擦りながら店へ入った。
自室へ向かう途中、壁にかかった時計を確認する。時刻は十時五十五分。いつもより三十分程遅刻である。が、この店にはシフトというものが無いので、同時に遅刻という概念もない。大幅に遅れる時はそりゃ連絡くらいするけどね。
自分の部屋に薄っぺらいトートバッグを置き、腰にエプロンを巻く。店へ出る前に台所に寄って紅茶を三杯淹れた。たっぷりの氷でキンキンに冷やす。うち一つは瀬川君の部屋へ持って行き、出勤した報告の代わりに挨拶をした。後の二つをお盆に乗せ、店へ戻る。
来客用のソファーでテレビを眺めている店長の前に紅茶を置き、自分もいつものソファーに腰掛けた。店長が紅茶に口をつけたタイミングで私は声をかける。言っておくがバッドタイミングを狙ったわけではない、偶然だ。
「で、花音ちゃんに何したんですか?」
「ぶっ、ゲホッ、ごほっ、……それ掘り下げる?」
「あ、すみません、タイミング悪かったですね」
キロリと睨む店長に私は軽い調子で謝罪した。もともと店長に睨まれてもあまり凄みを覚えないが、更に今はむせて涙目になっているのでもうおかしさしか感じない。
「いや、でも気になるじゃないですか。私花音ちゃん応援してますし」
「だから何で花音派なの。被害者の身にもなってよ」
「まぁまぁそれは置いといて。結局何で花音ちゃん飛び出してったんですか?」
しつこく聞いたら教えてくれるだろうと思ってそうすると、店長は小さくため息をついてからこう言った。まぁどうせ花音ちゃんに聞いたらわかるし、店長もそう思ったから比較的素直に教えてくれたのだと思うが。
「いつもの調子で海に行こうって言われたから嫌だって言っただけだよ」
「えー、普段と変わりないですね」
「でしょ。だから今日は単に花音の機嫌が悪かったんだって」
「そうなんですかねぇ……」
一瞬納得しかけたが、よく考えたらそうは思えなくなってきた。普段の花音ちゃんだったら、いくら店長に酷いこと言われて飛び出したとしても、私に肩をぶつけた時に足を止めて謝ったと思うのだ。でも今朝はそのまま飛び出して行った。
「それで、ほんとのところは何て言ったんですか?」
「え?いやそれだけだよ」
「本当ですか?」
「ほんとほんと」
私は内心で唸った。正直店長が本気で嘘をついたら私には見破れないと思うが、まぁ今のところ店長は嘘をついていないように見える。私はもう一度内心で唸ると、立ち上がってカウンターへ向かった。
本棚から適当なファイルを一冊引き抜いてからカウンターに座る。そしてエプロンのポケットからスマートフォンを取り出した。花音ちゃんのアカウントを呼び出し、ポチポチとメッセージを作成する。
【おはよう。さっき店を飛び出してったけど大丈夫?また店長がなんか言った?】
困り顔の絵文字をつけて送信。スマホをカウンターに置いて「ふぅ」と小さく息を吐いた。
あんまり私にグイグイ首を突っ込まれるのは嫌かな?と思ったのだが、思い直してやっぱり相談に乗ることにした。今朝の花音ちゃんは少しおかしく見えたし、店長のつっけんどんな言葉にショックを受けていないか心配になったのだ。まぁあんな人に九年も片想いしているのだから多少の言動には動じないとは思うが……。
【おはようございます。雅美さん、今朝はすみません。本当はその場で謝るべきだったのですが、売り言葉に買い言葉で蓮太郎さんと口喧嘩をしてしまいまして……】
私は返ってきたメッセージに「ふむ」と頷き、返信文を作成する。
【店長全然気にしてないよ。戻っておいでよ】
もう電車に乗ってしまったかもしれないが、まだこの近くで時間を潰している可能性に賭けてそう言ってみる。すると今度はちょっと時間が空いてからメッセージが返ってきた。
【いいえ、少し頭を冷やそうと思いますわ。実は私今朱雀店の近くのカフェに居ますの。もしお時間ありましたら雅美さんもいかがですか?】
私はすぐに行くという旨を返信して立ち上がった。朱雀店の近くのカフェと言えば、夫婦で経営しているあの雰囲気のいい店「GOOD LIFE」である。
「雅美ちゃんどっか行くの?」
立ち上がってエプロンの紐を解いた私に、来客用のソファーで寛いだままの店長がそう尋ねてきた。
「はい、ちょっと急用が入りました。特に仕事もないし大丈夫ですよね?」
「うん、まぁリッ君もいるしね」
私は畳んだエプロンをカウンターの下にしまい、財布とスマホだけ握りしめて引き戸の前に立つ。
「じゃあちょっと行ってきます。すぐ戻りますね」
「行ってらっしゃーい」
壁から顔を覗かせると、店長がひらひらと片手を振った。私は店を出て引き戸を閉め、カフェへ向けて歩き出した。
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