bite the bullet
七月六日、月曜日。店の時計の針が午後九時を指したのを確認して、私はパタンとファイルを閉じた。まだ半分しか整理できていないファイルを本棚にしまい、来客用のソファーにいる店長に声をかける。
「店長、私そろそろ帰りますね」
店の裏にある自室に荷物を取りに行き、再び店に戻る。ソファーの後ろを通るついでに店長に挨拶をする。いつもの行動だ。
「お疲れ様です」
「お疲れー。気をつけて帰ってね」
引き戸を開けて上を見ると満天の星空だった。最近ずっと晴れの日が続いているし、明日もきっと快晴だろう。
いつも通り自転車のカゴにカバンを置こうとして気付く。そうだ、今日は徒歩で来たんだった。一昨日自転車のタイヤがパンクしたのだが、歩いて来れない距離ではないため直しに行くのが面倒で、放置しているのだ。朝は駅までお母さんが送ってくれるし、帰りは二、三十分歩くが運動不足の身体にはちょうどいい。
私はカバンを肩にかけ直すと暗い夜道を歩き出した。
十五分程歩いたところだろうか。私の家がある地区に入った辺りから、背後で足音が聞こえる。そりゃまだ九時過ぎだから通行人の一人や二人いるだろうが、この足音はさっきからずっと私と同じペースを保っているのだ。
「…………」
勇気を出してバッと振り返ってみた。しかし暗い夜道には誰もいない。私は悪寒が背中を駆け抜けるのを感じた。ま、まさか、幽霊!?
再び前を向いて早足に歩き出した。私が歩き出すと、足音は同じスピードでついてくる。私が足を速めると、足音も速くなるのだ。もう五分以上、スニーカーがアスファルトを擦るような足音がついてきている。
角を曲がる時、もう一度だけ背後を見てみた。
「……!?」
角を曲がる一瞬しか見れなかったが、黒い服を着た人物が歩いているのが見えた。この道は街灯がないので先程は見えなかったのだろうか。もしくは、先程は電柱の陰などに隠れていたか……。
そこまで推察して、私はブルッと大きく身震いした。そ、それってまさか、ストーカー!?いやいや、つい先日ストーカー退治の依頼を受けたばかりだから過敏になっているのだ。もっと美人やかわいい子ならわかるが、私にストーカーなんてないないないない。
「き、気のせいだよ……」
気のせい気のせい、きっと私と家が近いんだよ。帰り道が同じなのだ。だからずっとついて来るんだよ。
それだけ、きっとそう。だからストーカーなんて気のせい気のせい気のせい気のせい……。
「…………っ」
ついに私は走り出した。カバンを脇に抱え、髪が乱れるのも構わず、五センチのヒールを必死に前へ出す。私はあまり足が速い方ではないが、全力で走るとすぐに足音は聞こえなくなった。
足音が聞こえなくなっても、恐怖で足を止めることはできなかった。家のドアを破るように開け、鍵をしっかりとかけてようやく安心する。家までずっと全力疾走したのだ。私は呼吸もままならない状態で玄関にへたり込んだ。
ドアを乱暴に閉めたせいか、その音を聞き付けたお母さんがリビングから顔を出した。そして汗だくで玄関に座り込む私を見て驚いた顔をする。
「どうしたの雅美?そんなに汗かいて」
私は何とか呼吸を整えて声を絞り出した。
「お、お母さん、あのね……」
そこで私の脳裏にある考えが浮かぶ。ここでストーカーのことを話せば、お母さんはバイトの帰りが遅いせいにするだろう。確かにそれは事実だ。事実だが……それでバイトに行かせてくれなくなるのは私が困る。
「ちょっと見たいテレビがあって……」
「あらそうなの?でも先にお風呂入ってらっしゃい。テレビは録画すればいいんだから」
「はーい」
私はお母さんに笑顔を返すと、サンダルを脱いで部屋に向かった。言われた通りお風呂に入るため、着替えを持ってすぐに風呂場へ向かう。汗でベタベタしているので早くシャワーで流してしまいたかった。
「…………」
脱衣所にタオルと着替えを置き、浴室に入って窓がしっかりと閉まっていることを確認した。それでもまだ不安で、浴槽の蓋を開け、浴室の中に不審なものがないか見回し、もう一度窓を確認してから服を脱いだ。
お風呂から上がると、お母さんがテレビのリモコンを持って近づいて来た。
「雅美が見たいって言ってた番組どれ?もう十時回ってるわよ?」
「ごめん、それ明日の番組だった」
お母さんを上手く誤魔化して自分の部屋へ行く。ドライヤーで髪を乾かして、これからどうしようかと考える。
普通なら親に相談すべきなのだろうが、できればそれは避けたい。最近嫌に私の仕事に口出ししてくる親が、更にうるさくなるだろう。何とかして自力で解決したい。先日の依頼人の志水さんの例もあるし、おそらく警察は当てにならないだろう。
夕飯を済ませ、家族としばらくの団欒を過ごし、夜の十二時に布団に入った。とりあえず、明日もう一度様子を見てみよう。もしかしたら本当にただの通行人で、ストーカーなんかじゃないのかもしれない。モテ期というものを経験したことがない私にとっては、そちらの方があり得るような気がする。
いつもより早めに布団に入ったせいかなかなか寝付けなかったが、いつの間にか眠っていたようで、次に目を開けた時窓の外はもう朝になっていた。
翌日七日、火曜日、午後九時十五分。今日の仕事を終えいつもと道を歩いていると、私の地区に入った所で背後に気配を感じた。あのスニーカーがアスファルトを擦る足音も聞こえる。昨日と同じ場所だ。ストーカーは一定の距離を開けて私についてくる。
住宅街はまだもう少し先でこの辺はちらほらと家が建っているだけで見晴らしがいい。昨日のように走って巻くなら視界を遮る物が多い住宅街に入ってからの方がいいだろう。幸いストーカーはこれ以上私に近づいてくる様子はない。私は住宅街まで競歩並みの早足で歩き、住宅街に差し掛かると同時に全速力で走り出した。
ストーカーがついてこないのを気配で感じながら、飛び付くように玄関のドアを開ける。閉めるときは落ち着いてゆっくりと閉め、リビングから聞こえたお母さんの「おかえり雅美」という声に「ただいま」と返した。汗だくなのをお母さんに不審がられると厄介なので、呼吸も整えきらずに階段を上がる。自分の部屋のドアを閉めたところで、私はようやく一息ついた。
やっぱりいた。今日もついて来てた。気のせいじゃなかった。どうしよう。やっぱり警察に言った方がいい?でもどうせ何もしてくれないだろう。かえってストーカーを警戒させてしまうかもしれない。
さすがに危機感と恐怖心を覚えた私がまず取った行動は━━。
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