好きも愛してるも重すぎた3




翌日、九時十五分。身支度を整えた私は朝食を摂るために一階へ降りた。昨日の夜は何も食べずに寝てしまったのでお腹がぺこぺこだ。ちょうど仕事へ行くところだった兄が玄関で靴を履きながら、私に「おはよう」と挨拶した。

「おはようお兄ちゃん。朝早いね」

「まぁな。お前も今日も朝からバイトか?」

「うん。休みの日は朝から入れますって言っちゃってるしね」

スニーカーの靴紐を結び終えた兄は、立ち上がって私に向き直った。玄関の段差のおかげで目線がほぼ水平になる。

「お前バイト先のこと隠してるみたいだけどさ、そろそろ言った方がいいんじゃねぇ?」

「言うってお母さん達に?」

「今のバイト始めてもう二年くらい経つだろ。あんまり隠しすぎるのもどうかと思うぞ?」

「でもちょっと説明しにくい仕事だしさ。大学卒業してからちゃんと話そうと思ってるんだけど……」

「大学卒業って三年以上先じゃねーか。そんな先まで親父たちが……」

すぐ側のリビングのドアが開いたので、お兄ちゃんは慌てて口を閉じた。お母さんが顔を出して私に「ご飯食べないの?」と言った。私とお兄ちゃんはかなり小さな声で話していたが、もしかしたらお母さんに聞かれていたかもしれない。

「仕事行ってきます」

「い、行ってらっしゃい」

「行ってらっしゃい、気をつけてね」

お兄ちゃんはお母さんの視線から逃げるように家を出る。私も先程までの会話を誤魔化すように挨拶をし、お母さんは普段と変わらない調子で送り出した。お母さんがリビングに入らないのかという顔をしたので、私は大人しくドアをくぐった。

もう社会人の姉が県外で一人暮らしをしている今、お兄ちゃんが出て行ったリビングは私、父、母の三人だけだ。テーブルではお父さんが新聞を広げていて、ラップのかかった皿には目玉焼きが乗っていた。

「いただきます」

長年の生活の中で自分の席となったイスに座る。私が目玉焼きを食べていると、お母さんが焼きたてのトーストを出してくれた。

「そういえば雅美、昨日は何時頃帰って来たの?」

お父さんの隣のイスに母が腰掛けた。お父さんは新聞から目を離そうとしないが、おそらく私達の会話に聞き耳を立てているだろう。

「一時前くらいかなぁ。それがどうかしたの?」

「ううん?あんまり遅いと心配だから」

お母さんはコーヒーを一口飲んだ。空気が少し緊迫している。

「昨日は確かカラオケで……えーっと、誰ちゃんと行ったんだっけ?大学のお友達よね?」

「同じ学部の千紘ちゃんだよ。高瀬に住んでる」

「ああ、そうだったわね」

千紘ちゃんには事前に口裏を合わせてくれとお願いしておいた。私の両親は彼女と面識もないし連絡先も知らないが、念には念を入れてだ。入念に準備を整えておいた、この勝負私の勝ちだ。

「その千紘ちゃんってずいぶんお金持ちなのねぇ」

「えっ、な、何で?」

千紘ちゃんは家族間でもあまり会話に出てくるような人物ではない。もちろん千紘ちゃんがお金持ちなどと親に話した覚えはないし、実際彼女の家の収入は普通レベルだ。私が身構えていると、お母さんはコーヒーから顔を上げてこう言った。

「だってずいぶん高そうな車で送ってもらってたじゃない。あの黒い車、お友達のなんでしょ?」

「う、うん、まぁね。親の借りたんだって。でもあの車そんなに高いんだ知らなかったなぁ」

私は動揺を何とか隠してトーストにかぶりついた。昨日の夜お母さん起きてたんだ……。お母さん達の寝室の窓からは確かに玄関先が見える。だがあの暗さじゃ、運転席の顔までは見えなかっただろう。

でも良かった。本当は昨日のアリバイ作りの共犯はにっしーに頼もうと思っていたのだ。だがにっしーはつい最近実際に遊んだばかりだったので、一応別の子に変えておいた。それが良かった。何せにっしーはまだ高校二年生だ。車の免許など持っていないのである。

「私もう行かなきゃ」

急いでトーストを口に押し込んで席を立つ。お皿を流しに置き、逃げるように洗面所へ向かった。これ以上追求される前にさっさとバイトへ行ってしまおう。洗面所で歯磨きをしていると、お母さんがヒソヒソ話す声が聞こえてきた。私はブラッシングを止めて耳を澄ませる。

「だって普通あんなぺこぺこ頭下げるかしら?同い年の友達でしょう?そりゃ送ってもらったんだからお礼は言うべきでしょうけど、まるで年上と喋ってるみたいな動きだったわよ?」

それにお父さんが何か返したが、声が低くてよく聞き取れない。すぐにまたお母さんが話し出した。

「あの子バイトのこと何も話さないし、絶対危ない仕事してると思うのよ。たまに夜中に帰ってくるし。私達には隠してるけど、怪我して帰ってきた時もあったじゃない」

またお父さんが何か喋る。私は歯ブラシを口にくわえたまま、リビングのドアに耳を押し付けていた。

「何かあってからじゃ遅いでしょ。……私今日あの子のあとつけてみようかと思うんだけど。せめてバイト先の場所くらいわかれば」

私はその言葉にドキッとした。慌てて歯磨きを終えて部屋にカバンを取りに行く。手早く髪型を整えると、ドア越しにリビングへ叫んだ。

「行ってきます!」

カバンを自転車のカゴに放り込んでペダルに力を込める。お母さんは自転車を持っていないから車で追うしかないはずだ。なるべく細い道を通って行こう。

時々振り返りつつ店へ向かったが、お母さんがついてくる気配はなかった。家を出てすぐに細い路地に曲がったので見失ったのかもしれない。店につくのは普段より五分ほどかかったが、家を出るのが早かったので結果的に普段より三十分も早く出勤した。私が店に入ると、カウンターに座っていた店長が少し驚いた顔をする。

「今日は早いね雅美ちゃん」

「ちょっと、いろいろありまして……」

私が自室に荷物を置きに行っているうちに店長は来客用のソファーへ移動していた。私がカウンターに座ってすぐに、目の前の引き戸が開いて瀬川君が入ってきた。

「おはよう瀬川君」

「おはよう。今日は早いんだね」

「うん、ちょっといろいろあって……」

瀬川君は通りがかりに店長に挨拶を返して、店の裏へ消えて行った。私が瀬川君より早く店につくのは本当に珍しい。何か用がある日じゃないとこんなことは滅多にない。先程店長が少し驚いた顔をしたのは、入ってきたのが瀬川君でなく私だったからかもしれない。

「そういえば店長、昨日のストーカーはどうなったんですか?」

私は壁越しに店長に声をかけた。この場所に座っていてはお互いの表情は見えないのだ。

「白虎店に丸投げした。今日の昼のにでも中国に送られると思うよ」

「何か遠くなってません?」

「ストーカーの会社、中国に工場があるからそこに勤務させるって」

なるほど、あのストーカーは中国工場で毎日毎日ベルトコンベアの前で働くことが決まったという事か。さすがに国外に追放されたらもう志水さんをストーキングできないだろう。これで一安心だ。

午前中はカウンターでファイル整理をし、昼になったら店長が作ったオムライスを食べ、食べ終わると店の掃除を始めた。店長は今日は珍しく一日中店にいて、私がバタバタと動き回っている間、カウンターでノートパソコン相手ににらめっこをしていた。

そんなこんなで午後四時。床の水拭きまで終わらせて、仕上げにカウンターを拭いていたら、真後ろの引き戸がガラガラと開いた。お客さんが来たのかと慌てて振り返ると、そこには真っ黒のスーツを着て真っ黒のハットを被った真っ黒の髪のお兄さんが立っていた。相変わらず全身真っ黒なお姿だ。

「お兄さん!いらっしゃいませ。今日は運がいいですね。店長いますよ」

「そうか。……いや、蓮太郎がいようがいまいが来る予定だったんたがな、本当に」

「ふふ、そうでしたね。すみません」

私は雑巾をカウンターの上に置き、来客用のソファーの方へお兄さんを案内した。店長が露骨に嫌そうな顔をしてお兄さんを見上げる。

「何しに来たの?」

「近くまで来たからついでにな。間島卓郎の輸送報告も兼ねて」

「ああそうなんだ。で、何しに来たの?」

「……最近お前の顔を見ていなかったから寂しくてな」

「僕はにぃぽんの顔なんて見なくても寂しくないけどね」

私は「お兄さん相変わらずだなぁ」と苦笑しながらちゃっちゃとカウンターを拭き、雑巾を持ったまま店の裏へ向かった。洗面所に雑巾を投げ置き手を洗い、台所でお茶を淹れる。お兄さんの前にお茶を置いて、少し迷ったが空いているソファーに腰掛けた。どうやら仕事の話ではないらしいし、私が混ざっても大丈夫だろう。

「お兄さんは今日は時間あるんですか?」

「ああ……。今日は本当は休日だったんだ。間島の輸送が終わったらすることがなくてな」

この間島というのは昨日のストーカーだ。おそらく捕まってそのままの状態で中国の工場に送られたのだろう。可哀想にとは思わないことにする。ストーカーは女性の敵だ。

「休みなら家で昼寝でもしとけばいいじゃん」

「昼寝はあまり好きじゃないんだ。変な時間に寝ると身体が怠くなるからな」

「へぇ、知らなかった」

「お前は生活リズムを崩しても元気そうだからな」

「僕はにぃぽんの生活リズムなんて知らないのににぃぽんは僕のこと知ってるのが何かキモいよね。中国の工場に飛ばすべきかな」

店長がお兄さんに「早く帰れオーラ」を放ち始める。せっかく来たのにこれではお兄さんが可哀想だ。私が助け舟を出してあげなければ。おそらく今日も、休日だったのに突然店長が仕事を押し付けるから張り切ってしまったのだろう。部下にでも任せればいいのに、かわいい弟に頼まれたからって。

「まぁまぁ、お兄さんも店長の生活を心配してるんですよ。お兄さん、せっかく来たんだからゆっくりしていきますよね?」

「あ、ああ。何せ今日は休日だからな」

「なら二人で喋っとけば?」

顔を輝かせて答えたお兄さんだが、直後の店長の一言に意気消沈した。いかん、このままでは店長が出掛けてしまう。

「で、でも!兄弟なんだから何か積もる話があるんじゃないですか?」

「そ、そうだ。俺が最近体験した面白い話をしよう」

「二ヶ月前会ったばっかりなんだから積もるほど話ないし、にぃぽんの話は総じてつまらないから遠慮しとく」

さすが店長、鉄壁の守りだな。だが思ったのだけれど、お兄さんといい花音ちゃんといい、店長がそんなだから愛情表現が過度になるんじゃないか?

「ええ!二ヶ月も会ってなかったんですか!?二ヶ月分の話するのに二時間はかかりますよ!」

「そうだな、俺とお前の話で合わせて四時間だな」

「何で僕の話をにぃぽんにしなきゃならないのかわからないし、僕は別ににぃぽんの話聞きたくない」

私はバンッとテーブルに手をついて立ち上がった。店長とお兄さんの視線が私に集まる。

「店長!そんなに冷たくしたらお兄さんが可哀想じゃないですか!」

「荒木さん……」

「たった二人の兄弟なんですよ!?もっと構ってあげてください!」

「荒木さん、俺少し泣いてもいいかな……」

私の言い分に店長は「何言ってんだこいつ」という顔をする。なんとも失礼な表情だが、口に出さないだけマシだろう。

「犬や猫じゃあるまいし、何でこんな可愛げのない真っ黒くろすけに構わないといけないの」

「店長いくらなんでも冷たすぎますよ!私だってお兄ちゃんともっと会話しますよ!?」

「その家庭ごとにそれぞれの事情があるものだよ雅美ちゃん」

「お兄さんは店長に歩み寄ろうとしてるんですから構ってあげればいいじゃないですかっ。兄弟喧嘩してるわけじゃないんでしょう!?」

「歩み寄ろうとしたところをあえて突き放すのが新しい構い方だと思わない?」

「思いませんっ!」

「わかった、なら、」

店長はテーブルの上のスマホをポケットに入れると立ち上がった。

「この場は僕が出て行こう」

「何でそうなるんですか!ちょっと!」

手をひらひらさせながら「にぃぽんが帰った頃に戻るから」と言う店長の背中を見送って、私は「もうっ!」と大声を上げながら勢い良くソファーに腰を下ろした。そして先程からピクリとも動かなくなったお兄さんに詰め寄る。

「ちょっとお兄さん!何で引き止めないんですか!」

「いや、歩み寄ったところをあえて突き放されるのも新しい構われ方かと思って」

「そんなわけないじゃないですか!」

私が全身全霊でツッコミを入れる中、お兄さんは懐からもぞもぞと一冊の本を取り出した。

「今日は上手く話せると思ったんだけどな……」

お兄さんの手元を覗き込んで本のタイトルを確認すると、そこには【久しぶりに会った人との話し方】と書かれていた。私はその本をバシィッと払い落す。

「何で兄弟相手に、しかも二ヶ月しか開いてないのにそんな本がいるんですか!」

私だって姉と会うのは、ひどい時は正月だけの年に一回だが、そんな本欲しいと思ったことないぞ!

「一応こんな本も買ってみたんだが……」

そう言いながらお兄さんはまたもぞもぞと取り出した。

「これは……」

「【O型人間の性格診断書】だ」

「全っ然使えませんよそんな本!」

「ちなみに俺はAB型だ」

「聞いてません!」

私の怒涛のツッコミにお兄さんは少ししょんぼりして二冊の本をテーブルに並べた。

「だいたい、こんなマニュアル通りにいったら苦労しないじゃないですか。こんな本買ったって何の役にも立ちませんよ」

「わかってはいるんだが、つい……」

「じゃあお兄さんは今後本屋に入るの禁止です」

「いや、この二冊はネット通販だ」

「Amazonesも禁止!」

確かに、某大型通販サイトのAmazonesを見ているとついつい買い物カゴに商品を入れてしまうのはわかるが、そんな無駄な物を買っても部屋のゴミが増えるだけだ。人間関係が攻略本で上手くいけば苦労はしない。

「そもそも、何で店長ってお兄さんに対してあんななんですか?」

さすがにツッコミ疲れた。少し落ち着こうと、私は大きく深呼吸してからそう尋ねた。

「それは全面的に俺が悪いんだ」

「お兄さんが構ってほしすぎてウザかったからとかですか?」

「荒木さん、君はたまにキツいことを言うんだな」

お兄さんは全面的に自分が悪いと言ったが、私の知る限り店長は最初からあんな態度だったし、もしかしたら私の想像以上に大規模な兄弟喧嘩なのかもしれない。きっと冷蔵庫のプリンを勝手に食べたとかそういうレベルではないだろう。私とお兄ちゃんの喧嘩はいつもそんなことが発端なのだが。

「今日はもう帰ることにするよ。久しぶりに蓮太郎が口を利いてくれたから嬉しかったしな」

「そうですか。頭お大事に」

「荒木さん、俺をナメてはいけないぞ。最近また着信拒否に登録されたばかりだからな」

呆れてものも言えない私をほっぽり出して、お兄さんは「次に解除してもらえるのは半年後くらいかもしれん」とぶつぶつ呟いた。

お兄さんの言動にいちいちツッコミを入れるのは疲れるので、もう帰ってもらうことにする。店先でお見送りすると、お兄さんは「また来る」と言って去って行った。これでしばらくすれば店長も戻って来るだろう。

お兄さんが帰ったら戻って来ると言っていたが、店長はその宣言通り、本当にお兄さんが出て行ってすぐに帰ってきた。

「おかえりなさい店長。早かったですね」

「そんなに遠くまで行かなかったからね」

指定席であるソファーに座るためか、カウンターにいる私の前を横切って店の奥へ進む店長。私もお茶を淹れる為に立ち上がった。すると、店長がテーブルの上から何か拾い上げたのが見えた。

「あ」

それはお兄さんが置いていった【O型人間の性格診断書】という本だった。おそらく持って帰るのを忘れたのだろう。

「何買ってんだか」

店長はパラパラとページをめくると、そのままもう一冊と共にごみ箱に捨てた。

「何で捨てるんですか。私ちょっと読みたかったのに」

私はごみ箱から【O型人間の性格診断書】を拾い上げると、適当なページを開いた。幸いこのごみ箱はほとんど紙ゴミしか捨てないので本は綺麗なままだ。

「雅美ちゃんってO型だっけ?」

「そうですよ。一緒ですね」

「ならやっぱりそんな本当てにならないね。僕と雅美ちゃん性格違うもん」

私が本を読み始めて動かなくなったせいか、店長は自分でお茶を淹れに行くようだ。私はそんな店長の背中に、見ているページを開いて文句を言った。

「でもほら、書いてることけっこう当たってますよ」

「どうせ万人に当て嵌まること書いてるだけでしょ」

「むぅ……」

まぁそう言われればそうかもしれない。けど、これが当て嵌まっている私は、いわゆる「その他大勢」ってことなのか?それって何かちょっと複雑。

私は本を閉じるとごみ箱に捨てて店長を追いかけた。

「待ってください私が淹れます。店長また新しいの開けちゃうんですから!」



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