理性や衝動は全て一つの意思4
四月三十日、木曜日。つい亮平さんに怒鳴ってしまった日の翌日。私は合い鍵を持って村田家の玄関のドアの前に立っていた。
「やっぱり入りにくい……」
昨日あんなことを怒鳴ってしまったのだ。私は自分が言ったことは間違っていないと思うが、亮平さんだってイジメという辛い現実から逃げて引きこもりになったのだ。少しキツいことを言い過ぎたかもしれない。今日は亮平さんと話しにくかった。いや、もう話してもくれないかもしれない。
「…………」
私は決意を固めると、ドアの鍵穴に合い鍵を差した。これは仕事だ。嫌だからって逃げ帰ることはできない。
私はすっかり見慣れた階段を上り、亮平さんの部屋のドアをノックした。
「こんにちは。荒木です」
昨日のことは無かったことにして話そう。その方が亮平さんも話しやすいような気がする。
「今日は晴れてますね。外は歩くと暑かったですよ」
亮平さんは昨日のことを怒っているだろうし、何を言っても無視される覚悟でいたが、彼は意外にもいつもと変わらない調子で声をかけてきた。
「……また来たのか。欝陶しいから帰れ」
もしかしたら亮平さんも私が来たことが意外だったのかもしれない。昨日の今日で気まずいのは向こうも同じだっただろう。
「どうせ金貰ってるから来てるんだろ」
「そりゃ仕事ですから」
「なら金だけ貰ってとっとと帰れよ。誰も見てねーんだから、わざわざ俺と話さなくてもいいだろ」
「聞いてなかったんですか。あなたと話すのが仕事なんです。あなたを説得できなければお金は戴けません」
私だってさっさと亮平さんを説得して通常の業務に戻りたいのだが、こうやって会話をして彼を説得するのが仕事なのだからしかない。しかし会話に応じてくれるということは、少しずつだがゴールに近づいているということだろうか。なら、もう昨日のようなヘマはしない。感情に任せて怒鳴り散らしてゴールが遠退くのは避けたい。
「亮平さんは今日は何をして過ごしていたんですか?」
説得するとかしないとか、親にお金貰って頼まれたんだろとか、そういう話だとまた言い争いになりかねない。私は話題を当たり障りのないものに切り替えた。
「私は今日も学校の帰りなんですけど、亮平さんはどうしてました?」
「…………」
あれ?返事がなくなったな。そう思いつつもしばらく待っていたら、ボソッと小さく答えが返ってきた。
「……アニメ見てた」
「……そうですか。どんなアニメを見てたんですか?」
私はアニメをほとんど見ない人間だが、この話題を続行させて大丈夫だっただろうか。自分の好きな物にたいしてテキトーな返事をされたら怒るかもしれない。国民的長寿アニメの「ドラいもん」や「サザエちゃん」ならまだまともな反応できるんだけど。
「フリーズローズの一期を朝からずっと見てた。二期決定したから」
「そ、そうなんですか……」
ダメだ、「そうなんですか」しか言えない。タイトルからどんな系統のストーリーなのかも想像つかないし。ローズだから王宮とかお姫様とか出てくるのかな?
「お前フリーズローズ知らないだろ。そうやってテキトーに話合わせようとしてもすぐにわかるんだからな」
「じゃあどんなお話なのか教えてくれません?」
完璧な返しだ。私は心の中で自画自賛した。これなら亮平さんにずっと喋らすことが出来るし、自分の好きな話題で話していたらきっと気分も盛り上がるだろう。私がどこまでその話についていけるかが問題だが。
それから約三十分間、私は登場人物の性格や背景、ストーリーについてみっちりと話を聞かされた。ちなみにストーリーは氷の女神と呼ばれるクールなヒロインと苦労人凡人主人公が魔法でバトルする学園ファンタジーらしい。うーん、タイトルからは想像がつかない。
「それで、亮平さんはそのアニメのどの部分が一番好きなんですか?」
「やっぱり如月野薔薇がかわいいところだな。あのツンデレがいいよな」
ちなみに如月野薔薇(きさらぎのばら)とはヒロインの名前だ。最初に聞いたとき、私はそれが人の名前なのかと耳を疑った。
「結局ヒロインがかわいいだけじゃないですか」
「野薔薇は本当にかわいいんだよ!これだから三次元の女は!」
「三次元にだってかわいい子いっぱいいますよ。それにアニメのキャラクターじゃ話せないじゃないですか」
この意見はどうやら亮平さんの逆鱗に触れたようだ。彼は突然声を大きくした。
「うるせーブス!三次元の女共はどうせ金持ちかイケメンだったらそれでいいんだろ!二次元の女の子達を見習え!このブス!」
「わ、私の顔も見たことないくせにブスとか言わないでください!」
「ブスじゃねーんならちゃんと顔見せてみろよ!毎日毎日ドアに隠れてんじゃねーか!」
「だったら亮平さんが部屋から出て来てくださいよ!毎日毎日部屋の中に隠れてるだけじゃないですか!」
「そ、その手には乗らねーからな!俺は部屋から出ない!」
結局この日はアニメの話聞かされただけで終わったな、と帰り道店に向かいながら思った。だが亮平さんもだいぶ自然に話せてきている。あとは部屋の外はもっと素晴らしい世界だと教えることが出来れば……。
翌日、五月一日、金曜日。いつも通り亮平さんの部屋のドアをノックした私の隣に、いつもと違って店長が立っていた。昨日亮平さんとした会話を店長に話したら、今日は自分も来ると言い出したのだ。いったいどういう心境の変化なのだろう。この人の考えていることは相変わらずわからないな。
「こんにちは、亮平さん。今日はですね、私の他にもう一人来てるんです。うちの店の店長なんですけど」
亮平さんからの反応はない。初対面の人がいるから様子を伺っているのだろう。
「亮平さんに話したいことがあるんですって」
ドアの向こうにそう言って、隣の店長を見上げる。どんなに私が話しかけても部屋から出ないの一点張りの亮平さんに、いったいどんなご高説を聞かせてくれるのだろうか。
「亮平さんいる?いたら返事して」
店長が話しかけるが、もちろん亮平さんからの返事はない。私だって初めて声を聞くのに一週間かかったのだ。しかも第一声は「帰れ」だった。返事してと言って簡単にしてくれるわけないだろう。
「返事しないんだったら無理矢理ドアこじ開けるから」
何だその強行策は。亮平さんは依然として黙ったままだが、少し焦っている雰囲気を感じないでもない。
「返事がないみたいだね。雅美ちゃん、バール貸して」
「えっ!?」
貸してと言われても私はバールなんて持ってない。持って来いとも言われていない。少し悩んで、私は六角スパナを差し出した。店長は何が入っているのかは知らないが左手に紙袋を持っているので、私は空いている右手にスパナを乗せた。店長はそれを声を出さないように笑いながら受け取る。
店長はスパナをわざと音が鳴るようにドアの隙間に差し込み、ドアをギシギシ鳴らし始めた。良かった、本当にドアを破るわけじゃないんだ。別に弁償の金額とかは全然気にしていないのだが、こんな強行策に出たら説得を頼んできたご両親に合わせる顔がなかった。それにたとえ無理矢理部屋から引きずり出したとしても、ドアが直ればまた引きこもるだろう。
しかし亮平さんは本当にドアが壊されると思ったのか、ドアを叩きながら声を出した。
「わかったわかりました、返事するのでドアは壊さないでください!」
「素直でよろしい」
店長は私にスパナを返した。私はスパナに傷がついていないかチェックしてから鞄にしまう。
「それで、話は何なんですか。言っときますけど、俺は絶対外に出ませんよ。絶対働きません。ドアを壊したって、直してまた引きこもってやります」
説得しても無駄なことをアピールする亮平さん。しかし店長は亮平さんの言葉には返事をせずに、まるで見当違いなことを言い出した。
「そういえば、この家はまだローンが残ってるだろうね。築何年くらい?」
これには思わずに亮平さんも黙った。しかし何か返事をしなければドアを壊されると思ったのか、無理矢理言葉を捻り出す。
「お、俺が生まれるちょっと前だと思うから……二十四、五年じゃないですか?」
「奥さんまで働きに出てて大変だね。旦那さんの収入だけじゃ生活厳しいの?」
「俺に働けって言われても嫌ですからね」
「そんなこと言ってないよ。ところで、君の説得にご両親が支払っている依頼料って、一日いくらくらいだと思う?」
思わず黙った亮平さんに、店長は「ちなみにうちは真っ当な会社じゃないから法外な料金を取ってるよ」と付け足した。
「い、一日一万くらい……?」
亮平さんが何とか絞り出した答えを聞いて、店長はちょっと笑った。依頼人達が普段どれくらいの依頼料を支払っているのか私も気になるが、店長はきっと教えてくれないだろう。
「さあどうかな。でも亮平さんがさっさと部屋から出ないと、どんどん料金が高くなってどんどん家計は苦しくなるよね」
「…………」
「そしたらそのうちご飯も食べれなくなるかもね。そのあとは亮平さんの漫画とかゲームとか要らない物をお金に変えて、その次に売るとしたらやっぱり家かなぁ」
「…………」
「家が無くなったら亮平さんどこに籠城するの?僕達説得に行かなきゃいけないから先に教えといてよ」
「…………」
「あ、それとも亮平さんを置いて親が逃げ出す可能性の方が高いかもね。こんな金だけかかって何も返してくれないような息子守ってたら身がもたないもんね。そしたら料金の請求は亮平さんの所にいくから。親の居場所はわからないしね」
「…………」
「そういえば、親が逃げたら亮平さん家のローンも払わなくちゃいけないんだね。亮平さんって自分の貯金はあるの?それとも闇金にでもお金借りる?」
「…………」
「ああ、あと……」
「わ、わかりました部屋から出ます。だからもう止めてください」
それを聞いて私は思わず顔をほころばせた。これで明日から普通の業務に戻れる!
私と店長が黙って見守っていると、カチャッと部屋の鍵が外れて、静かにドアが開いた。中から亮平さんが顔を出す。彼は驚いたような表情で店長の顔を見て、スッと視線を逸した。その姿はくたびれた部屋着と伸びきった長い髪、数日間剃っていないであろう伸びた髭というもの。とても外に出られる姿ではない。
「はじめまして亮平さん。明日もここに来なくて済んで僕は安心してるよ」
「は、はじめまして……」
店長はちらっと私を見て、「雅美ちゃんも挨拶しとく?」と言った。私は亮平さんと向き合うように立つ。
「はじめまして亮平さん、荒木です」
私がそう言うと、亮平さんは俯いていた顔を少しだけ上げて私を見ると、一言呟いた。
「空音リッカに似てるね」
私が「どういう意味ですか」という意味を込めて無言で店長を見上げると、店長も「僕もちょっとわからない」という顔をした。
「亮平さん、とりあえずこれあげる」
亮平さんが振り向くと、店長は半ば押し付けるように紙袋をわたした。ちらりと中が見えたが、中身は数冊の雑誌のようだ。
「なんですか、これ……」
「求人情報誌。言っとくけど部屋から出ただけじゃ何も変わらないからね。今度は働くように説得してくれって依頼されると思うから」
店長の言葉で、紙袋の中をを覗き込んでいた亮平さんの顔が曇った。店長はそんな亮平さんの肩をぽんぽんと叩く。
「まぁ、もし就職決まらなかったらうちの会社で雇ってあげるから、その時は言ってよ」
そう言って店長はさっさと階段を下りて行った。私は亮平さんに「頑張ってください」と一言言うと、店長の後を追いかけた。
駅までの道を並んで歩きながら、私は気になっていたことを店長に尋ねる。
「そういえば、結局依頼料って一日いくらなんですか?」
私の問いに店長は笑いながら答えた。
「一日あたりっていうか、亮平さんが部屋から出なかったら報酬はゼロだよ。依頼は亮平さんを部屋から出すことだからね」
それなら、結局亮平さんは騙されたということか。でも店長が出張ってくるなら、私の二週間はいったい何だったんだろう。
その翌日、依頼人の夏子さんが店にやって来た。私と店長は「ありがとうございます」と何度も頭を下げられた。
昨日夏子さんが仕事を終えて家に帰ると、リビングで亮平さんが求人情報誌を読んでいて、心臓が飛び出る程驚いたそうだ。さらに感動でその場に泣き崩れたらしい。亮平さんは風呂もトイレも親の目を盗んで済ませ、ご飯も夏子さんが部屋の前に置いておくだけだったので、夏子さんがちゃんと息子の顔を見たのは実に数年ぶりとのことだ。
夏子さんはお礼の後、もうひとつ依頼をしてきた。亮平さんの身嗜みについてだ。部屋から出たはいいものの、あれでは外に出れないから家の中でなんとか整えてほしいとのことだった。この依頼については、今日店長と、店長の知り合いという美容師が村田家に行っている。髪を切って髭を剃って、きちんとした服を着ればだいぶ良くなるだろう。
そういえば、今日村田家に行っている店長の知り合いの美容師は、おそらく三千院さんのバースデーパーティーの時に私がヘアアレンジをしてもらえなかった、あの美容師さんだろうなと思う。店長とは駅で落ち合う予定らしく、今日店に来たわけではないので確認もしていないが。
私はパタンとファイルを閉じてカウンターから立ち上がった。そろそろ休憩がてらお茶でも淹れて来ようと思う。朝から出て行った店長も、もうしばらくすれば帰ってくるだろう。
私はカウンターから抜け出すと、お茶を淹れに台所へ向かった。
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