仮想から連想する恋物語
今日は新婚一日目。昨日まで結婚式や披露宴などで忙しく休む暇もなかったが、今日からは夫婦二人でゆっくりできる。といっても、私の愛しの旦那様は朝早く仕事に行ってしまったのだが。
午後八時。リビングのテーブルで夕飯のオムライスを眺める。彼はあとどれくらいしたら帰ってくるのだろうか。すっかり冷めてしまったオムライスと壁の時計を交互に眺め、彼の帰りを待つ。外に出て、そこまで迎えに行った方がいいだろうか。
ちょっとそこまで。待ちきれなくてついに立ち上がったとき、ちょうど玄関のドアが開く音がした。帰ってきた!私はリビングを飛び出し玄関へ向かった。
玄関へ行くと彼が靴を脱いでいるところだった。堅苦しくて嫌いと言っていたスーツも、私は似合っていると思う。
「お帰りなさいませ、蓮太郎さん。ご飯になさいます?お風呂になさいます?それとも、わ、た、く、し?」
特上のスマイルでそう言うと、蓮太郎さんは小さくため息をついた。仕事で疲れていらっしゃるのだわ。
「夕飯」
「晩御飯ですわね、今温め直しま……」
「を作る」
蓮太郎さんは私の横を通り過ぎると、そのままリビングへ入って行った。私は慌ててそれを追いかける。
「待ってくださいまし、晩御飯なら私がオムライスを作りましたわっ。蓮太郎さんはゆっくりなさって……」
「石炭のことオムライスって言うの止めてあげてくれる?オムライスが可哀相でしょ」
蓮太郎さんは脱いだ上着を投げるように椅子に掛けると、ワイシャツの袖を捲りながらリビングと直通のキッチンへ向かった。私はまたもそれを追いかける。
「なら何かお手伝いしますわ。そうだ、卵を持って来ますわねっ」
私がそう言うと、蓮太郎さんは三角コーナーを見ながら逆にこう尋ねてきた。
「……花音、あれ作るのに卵何個割った?」
「さ、さあ……。数えてませんでしたので」
流しの三角コーナーを覗き込んで数えると、卵の殻はちょうど十個入っていた。私はすぐにそれを報告する。
「もう花音は食べ物に触らないで。台所に近づかないで」
「床はちゃんと拭いておきましたわ?あっ、蓮太郎さんはオムライスはお嫌でした?」
蓮太郎さんは何も言わずに私の肩をくるっと回すと、無言で私をキッチンから追い出した。私はもう一度キッチンへ入ろうと近づいたが、蓮太郎さんに嫌われてしまうことを恐れて思い止まった。夕飯を作る彼の後ろ姿を眺める。
このままではいけない。蓮太郎さんは仕事で疲れて帰ってきているのに、家事までさせてしまっているなんて。私も何かしなければ。
と言っても、昨日越してきたばかりなので部屋には物が無く片付いている。お風呂も沸かして保温してあるし、洗う皿もない。何かすることはないかと辺りを見回すと、先程蓮太郎さんが椅子にかけたスーツの上着が目に入った。私はそれを手に取るとそっとリビングを出た。
脱衣所で洗濯機の回転を眺めていると、すぐ側のドアが開いて蓮太郎さんが顔を出した。
「夕飯できたよ」
「はい、今行きますわ」
蓮太郎さんは稼動している洗濯機を見て怪訝そうな顔をする。
「何洗ってるの?」
「蓮太郎さんの上着ですわ。明日も着ますでしょう?」
私がそう答えると、蓮太郎さんは何故か盛大にため息をついた。そして洗濯機のスイッチを切る。
「ど、どうなさいましたの?まだ洗濯は終わってませんわよ?」
「あのね花音、普通スーツは洗濯しないの。シワになるでしょ?」
蓮太郎さんが洗濯機からスーツを取り出して広げる。スーツはしわしわになって見る陰もなくなっていた。
「も、申し訳ございませんわ、あの、私……」
「別に一着くらいいいけどさ。他にも持ってるし」
また失敗してしまった。私は蓮太郎さんの役に立ちたかっただけなのに。
蓮太郎さんが手を離すと、スーツはボチャンと音を立てて洗濯機の中に消えた。
「とりあえず先にご飯食べよう」
蓮太郎さんが出て行ったので、私もその後に続いた。照明を消すと脱衣所は真っ暗になった。
リビングに行くとテーブルに夕飯が用意されていた。二人分のポークソテーとミネストローネスープが並んでいる。どうしてこんなに美味しそうに作れるのだろう。というか、どうして私はこれが作れないのだろう。
夕飯を食べている間は、あまり会話はなかった。私はもともと食事中はほとんど喋らないタイプなのだが、蓮太郎さんも同じだったなら嬉しい。
夕飯を食べ終わると、蓮太郎さんがお皿をキッチンの流しに持って行こうとしたので私はそれを制止した。
「待ってくださいまし。お皿洗いくらい私がいたしますわっ」
「大丈夫?できる?」
「お任せくださいまし!」
「まだそんなに枚数ないからあんまり割らないでね」
私がお皿を持ってキッチンへ向かう様子を、蓮太郎さんが心配そうに見ていた。
「ふぅ、何とか割らずに済みましたわ」
お皿とコップを洗い終わり、私は額の汗を拭った。今まであまり家事をしたことはなかったが、好きな人の為に家事をするって素敵ですわね。
リビングに戻ると、蓮太郎さんはテレビの前のソファーに座っていた。テレビからは流行りのドラマが流れているが、資料を眺めているところを見るとどうやら仕事中らしい。私は近づいていいものか迷ったが、意を決すると蓮太郎さんの隣にそっと腰掛けた。
「なんの資料を見てますの?」
「白虎店のお嬢様護衛するやつ。何か変な犯罪組織が出てきてややこしくなってきた」
私は蓮太郎さんの手元の資料を覗いてみたが、最近仕事から離れ気味だったのでさっぱりだった。
しばらくドラマを見ていると、蓮太郎さんがようやく資料から顔を上げた。私はそのタイミングを見計らって言う。
「お風呂沸いてますけど、もう入られます?」
「後でいいや。花音先に入ってきたら?」
一度はそう言った蓮太郎さんだったが、何やら思い直したようですぐにこう言った。
「いや、待って。やっぱり先に入ってくる」
蓮太郎さんは目の前のテーブルに資料を置くと、風呂場の方へ歩いて行ってしまった。私はどうしたのだろうと思ってその背中を目で追った。
お風呂に入りに行ったものと思っていた蓮太郎さんだが、ものの一分で戻ってきてしまった。右手をタオルで拭いながらこちらに近づいてくる。
「花音ちょっと来て」
「はい」
もしかしてまた何かやらかしてしまったのだろうか。でもお風呂にお湯を張るくらい私でもできる簡単なこと。失敗のしようがない。お湯が溢れないように、湯舟がいっぱいになるまでちゃんと見張っていたし。
蓮太郎さんは私を連れて廊下を進むと、脱衣所を通り越して浴室の中に足を踏み入れた。そして壁に埋め込まれた小型の機械を指差して尋ねる。
「何て書いてある?」
「ええと……六十五度?」
「そう、今このお湯は六十五度ってこと。花音は僕を殺すつもり?」
蓮太郎さんが湯舟にかかったフタを開けると、ぶわっと白い湯気が溢れてきた。
「そこに温度が出るなんて知らなかったんですの。お風呂はいつもお兄様か来夢が入れておりましたので……」
湯舟に手を入れてお湯の温度を確かめもしなかったので、まさかそんなに高温になっているとは思わなかった。
風呂の湯もまともに沸かせない無能な女だと思われただろうか。
「花音もしかしてあの蛇口でお湯入れた?」
「ええ、そうですわ」
蛇口の隣に二つの丸いハンドルがついている。ひとつは水が出るハンドル、もうひとつはお湯が出るハンドル。あれで湯を張るのが普通なのではないだろうか。
「あのさ、ここで温度設定してこのボタン押せば勝手にお湯が溜まるから」
「し、知りませんでしたわ……。今のお風呂はこんなにハイテクでしたのね……」
「わかったら明日からこの方法で入れてね」
「あ、明日も私が入れてよろしいのですか!?」
「それともこれも僕の仕事だった?」
「そ、そういうつもりで言ったんじゃありませんわっ。明日こそちゃんと入れてみせますっ」
もしかしたらお前はもう風呂の湯を沸かすなと言われてしまうかと不安になったが、明日も私がやっていいと言ってくれた。明日こそちゃんとした温度のお湯を沸かして蓮太郎さんに認められたい。
蓮太郎さんが出た後お風呂に入ったが、お湯は適温になっていた。脱衣所の洗濯機の中も覗いてみたが、スーツはすでに回収されていた。私は洗面所で顔に化粧水を叩きながら申し訳なさを感じていた。蓮太郎さんはこんな役に立たない女と結婚して幸せなのだろうか。
リビングに戻ると、蓮太郎さんは今度こそちゃんとテレビを見ていた。夜中のクオリティーの低いドラマが流れている。
「蓮太郎さん、明日も仕事は朝からですの?」
「うん。引き継ぎ終わったばっかでバタバタしてるからね。忙しいらしい」
私は蓮太郎さんの隣に腰を下ろした。穏やかな時間だ。ただ二人で並んで、たいして面白くもない安っぽいドラマを眺めている。私が何年もずっと夢見てきた、穏やかな時間。
日付が変わる頃、もう寝ようかという雰囲気になった。私も蓮太郎さんも普段はもっと夜遅くまで起きていたりするのだが、何せここ数日はいろいろな準備で忙しかった。明日も仕事があるので早めに寝た方がいいだろう。
廊下を歩く最中、私は少し緊張しながら蓮太郎さんに声をかけた。
「あの、蓮太郎さん」
「何?」
「蓮太郎さんは家具屋さんでああ言いましたけれど、実は私あのベッド買ってしまいましたの」
「えっ、あれ買ったの?」
「そうなんですの。だからあの、ですから……」
私が口をもごもごさせているうちに蓮太郎さんの部屋の前まで来てしまった。ちなみに蓮太郎さんの部屋の真向かいが寝室だ。リビングからこの部屋までそんなに距離はないとわかっていたのに、ついに勇気がなくて言い出せなかった。
「じゃあおやすみ」
「ま、待ってください蓮太郎さん!」
あっさりと自分の部屋へ入ろうとする蓮太郎さんの腕を掴んで引き止める。この怪力も好きな人を物理的に引き止めるのには便利な力ですわね。
「や、やっぱり一緒に寝てくださいませんっ?私達夫婦ですし……っ」
精一杯の勇気を振り絞ってそう言ってみた。しかし蓮太郎さんから返ってきた返事は先日お店でベッドを買った時と同じものだった。
「いや、だって背骨折られたら僕死んじゃうじゃん。花音が寝相悪いの知ってるし」
「そうですわよね……。すみません、引き止めてしまって。また明日、おやすみなさいませ」
私は蓮太郎さんの腕を離すと、飛び込むように寝室に入った。後ろ手にドアを閉めると、目の前に白い布団がかかったベッドが見えた。私はそれにダイブする。
しばらくの間、枕を抱いて端から端まで転がった。気が済むとむくりと起き上がり、少しシワになった布団を眺めた。
「ダブルベッドは広いですわね……」
これなら朝起きた時床に落ちていないかもしれない。私はそんなことを考えながら、しかしベッドの右側に寄って布団に潜り込んだ。少し鼻の奥がツンとした。
蓮太郎さんと結婚する際、私は家事に専念する為という理由で副店長補佐の座をおりた。それと同時に黄龍に移動し、仕事も午前中だけにしてもらった。何でも屋の血族の人間同士が結婚するのは初めての出来事らしくみんな戸惑っていたが、私は一郎さんの直系ではなかったためか午前中で帰っても特に何も言われなかった。玄武店もお兄様がいるので私がいなくても何の問題もない。どうやら私は特別必要とされていなかったらしいとわかって、少し寂しかった。
仕事で私の必要性がそんなに無かったことはよくわかった。なら、蓮太郎さんはどうなのだろう。蓮太郎さんは私と結婚するときに朱雀店を出て、散々嫌いだと言っていた黄龍に来てくれたが、それはどうしてだろう。私達が付き合う際に告白をしたのは私の方だった。結婚を申し込んだのも私の方で、蓮太郎さんは「しかたないな」といった感じでオーケーしてくれた。彼はただ私の我が儘に付き合ってくれているだけなのかもしれない。
家事もまともに出来ない、仕事もそこそこ、力ばかり強くて可愛いげのないこんな女の我が儘を、蓮太郎さんはどうして聞いてくださるのだろう。私のどこに魅力を感じてくれたのだろう。
気が付けば二時間が経っていた。一人で使うダブルベッドは広くて落ち着かない。私の身体は頭だけぐるぐると働かせて、一向に眠くなってくれなかった。
私は身体を起こすと、物音を立てないようにベッドから降りた。そろりそろりと移動して廊下に出る。少し迷ったが、蓮太郎さんの部屋のドアをそっと開いた。
物音が聞こえなかったからてっきりもう寝たのかと思っていたので、部屋の明かりがついていて驚いた。私に気付いた蓮太郎さんが顔を上げて「どうしたの」と尋ねる。パソコンの前に座っているということは、まだ仕事をしていたらしい。
「あの、ちょっと……眠れなくて」
眠れないのは嘘ではなかった。ただ私は、寝ている蓮太郎さんの側にいたら二人で寝ている気分になれるのではというやましい理由で来たので、この答えには少し良心が痛んだ。
「そんなとこにいないで入ったら?」
「おじゃまします……」
部屋に入ったものの、他に椅子もないので私はベッドの端に腰をかけた。パソコンで作業をする蓮太郎さんの横顔が見える。
「まだお仕事をなさってましたのね」
「リッ君が暇さえあれば文句メール送ってきててさ。朱雀の仕事もやらないとね」
「私も何かお手伝いしましょうか。数字をまとめるくらいなら私にもできますわ」
私がそう申し出ると、蓮太郎さんはちらっと私の様子を伺った。
「どうしたの花音」
「何がでしょうか?」
「ちょっと前まで仕事のことには自信満々だったのに」
私はドキッとしたが動揺を顔には出さずに「そうでしたでしょうか」ととぼけた。確かに昔の私は恋愛には不器用でも仕事だけは出来ると思っていた。でも今はもうそんな根拠のない自信は持てなかった。
蓮太郎さんはくるりと椅子を回転させて私の方を向いた。
「やっぱり玄武の方がよかった?」
「黄龍に来たいと言ったのは私の我が儘だったはずですわ」
「うん、そうだったね」
玄武店にいたころ私の心が穏やかだったことは確かだ。玄武店独特の和やかな雰囲気。なんだかんだで頼れるお兄様。黄龍の張り詰めたような空気とは違う場所。だが蓮太郎さんと二人で暮らすにはここに来るしかなかった。私は蓮太郎さんがいてくれればそれで良かった。もしかすると、玄武が私を捨てたのではなく、私が玄武を捨てていたのかもしれない。
「花音は我が儘ばっかりだよね。料理は出来ないし洗濯の仕方も知らない。お風呂のお湯は釜茹で地獄だし馬鹿力で寝相が悪いから一緒に寝れない」
「か、家事は……、一生懸命覚えてゆきますわ……っ」
「期待せずに待ってるよ」
そうだ、せめて家事くらいちゃんと出来なければならない。蓮太郎さんは黄龍の仕事もして朱雀の仕事もしているのに、そのうえ家事までさせるわけにはいかない。
私が顔を伏せたままでいると、左側からにゅっと蓮太郎さんの手が伸びてきた。驚いく間もなく左頬を引っ張られる。
「な、何事でひゅの」
「何か元気ないなーと思って」
「ほ、他にいふらでも励まし用がありゅのでは……」
蓮太郎さんがパッと手を離す。私は左頬をちょっとさすってみた。
「まぁ主婦になったからっていきなり家事が出来るようになるわけじゃないしさ」
「そうかもしれませんが、私にも一応理想の新婚生活というものがあったのですわ」
何が「一応」だ。本当は小学生の頃からずっと考えていたくせに。その妄想の何ひとつとして実現できなかったが。
「確かに家事は出来るに越したことはないけど、別に家事をしてほしいから花音と結婚したわけじゃないし」
私はハッとして顔を上げた。直接聞くのは怖かったが、気が付いたらもう口が動いていた。
「蓮太郎さんはどうして、私なんかと結婚してくれたんですの?」
「じゃあ何で花音は僕と結婚したの?家事をしてほしかったから?」
「そんなの、蓮太郎さんが好きだからに決まっておりますわ!」
「うん、僕もそうだよ」
私はその言葉の意味を理解して、顔が茹蛸のように真っ赤になった。この顔を見られるのが恥ずかしくて、私は頭から布団をかぶった。ほとんど「好き」や「愛している」という言葉を言ってくれない人だから、すごく嬉しかった。
「家事も仕事も上手くやる必要はないよ。僕は花音は無駄に頑張り屋なのを知ってるけど、それでいいと思う。誰も認めてくれなくても、結果が出なくても、しかたないから僕が見ててあげるからさ」
蓮太郎さんが布団越しに頭を撫でてくれているのがわかった。ひどく安心した。
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