誰も知らないハッピーエンド




おそらく一生忘れないであろうあの事件があった翌日。三月二十三日、月曜日。私は何でも屋朱雀店へ向かって歩いていた。ゆったり歩いて三十分。到着したのは午前十時四十五分だった。店の前に止めてある瀬川君の自転車を見てつい笑みを浮かべながら引き戸を開ける。

「おはようございまーす」

目の前の大きな木製のカウンターには誰もいなかった。だが、来客用のソファーの辺りで人が動いた気配がした。私は後ろ手で引き戸を閉め、そちらへ向かう。

「店長、おはようございます」

「どうしたの雅美ちゃん。今日休んでいいって言ったのに」

「だってどうせ瀬川君は来ると思ったんで。なら私だけ休むわけにはいきませんよ」

私の説明を聞いて、店長は「リッ君も雅美ちゃんも元気だね」と言った。正直、元気か元気でないかと言われたらけっこう元気だ。昨日は帰ってから夜中まで爆睡したし、体力は完全に戻っている。

精神面的なことをいうと、三千院さんの死はほとんど私にショックを与えなかった。そもそも、三千院さんはパーティー当日に初めて会ったのだし、会話も全くと言っていい程していない。「知り合いの死」と呼べる程、私と三千院さんは知り合いではなかったのだ。彼女の遺体を見なかったことも、精神への負担が少なかった理由の一つだろう。

「三千院さんは今日お通夜なんですかね?」

「明日お通夜で明後日が告別式らしいよ。家族葬だって」

「そうですか……あっ、今日友引ですもんね」

「それが理由なのか殺人事件だからなのかはわからないけど。でも犯人が自供してるからスムーズに進んでるみたいだね」

三千院さんの死は今朝の新聞にでかでかと載っていた。有名企業の社長の殺人事件、しかも犯人はその息子。さらに殺害動機が遺産絡み……。メディアは好き放題書き立てた。中には使用人の証言なんて記事もあって、読んだ瞬間料理長と七窪さんがされたインタビューだとすぐにわかった。

これだけ騒がれても、新聞にもニュースにも私達の存在は一切出ていなかった。犯人である幸一さんが自らの意思で自首したことになっており、事件を見事解決させた素人探偵の存在は闇に消えたのである。おそらく何でも屋が揉み消したのだろう。関係者にも入念に口止めされている。名探偵を気取れないのはちょっとばかし残念だが、マスコミなどにしつこく付き纏われるのは私も嫌なので、これが一番いいと思う。平穏が一番だ。

自室にいた瀬川君に自分も出勤したことを伝え、荷物を置き腰にエプロンを巻く。店に戻って本棚から適当なファイルを抜き取りカウンターに座った。今日も相変わらず仕事がないのでファイル整理で時間を潰すことにする。昼食後は店の掃除をしよう。二日も掃除をしていないので、やはり埃が溜まってきている。

しばらく私も店長も一言も喋らなかった。ファイル整理は頭の中であれこれ文章を考えるので、静かなのが一番やりやすい。二、三十分の間、いいペースでペンを動かしていた。しかし、ノッてきた私の集中力が、ここでプツリと切れることとなる。

「━━くしゅんっ」

店長がくしゃみをしたのだ。せっかく集中が続いていたのに、ついペンが止まってしまった。私は壁から顔を覗かせて店長の方を見る。

「店長もしかして風邪ですか?」

店長は先程までより少しだけ鼻声になって「かもしれない」と答えた。

「いっつもそんな薄着でいるからですよ。薬呑んだらどうです?」

「普段全然風邪ひかないから薬持ってないんだよね」

私は呆れ気味に言葉を返し、店長はくしゅんくしゅんと連続でくしゃみをした。

「ならしょうがないので自力で治して下さい」

私は店の救急箱の中身を思い返してみたが、確かに消毒液や包帯はあったが、風邪薬はなかった気がする。店長は何か言いながら、そのままの姿勢でずるずるとソファーに倒れ込んだ。ソファーからはみ出した足がぶらぶらしている。

「止めてくださいよ子供じゃあるまいし」

私はその様子を見て苦言を言う。横になりたいのなら自分の部屋で寝てこればいいのに。

と、ここで店の裏から瀬川君が現れた。彼は少し古くなったファイルを手に、真っすぐ店長の方へ近づく。

「店長何やってるんですか。眠いなら上で寝てきてくださいよ」

瀬川君は店長を見下ろすとため息混じりにそう言い、手にしていたファイルをパンと一回叩いた。

「花木さんの報告書なんですけど、どこにやったんですか?持ち出したの店長ですよね」

「あーごめん部屋だわ。後で片付けとく」

「今日中にお願いしますよ」

瀬川君はファイルをテーブルの上に置いた。私は壁からひょっこり顔を出したまま瀬川君に声をかけた。

「あのね瀬川君、店長風邪みたいだからあんまり近づかない方がいいよ」

それを聞いた瀬川君は店長を見下ろし、相変わらずの無表情でこう言った。

「風邪ですか。うつさないで下さいね」

「あのさ何で二人ともそんなに僕に冷たいの?もうちょっと優しくしてくれてもいいじゃん」

「何故だか店長は冷たくあしらってもいい気がするんです」

瀬川君のはさすがに言い過ぎのように思うが。瀬川君は「どうせ寝たら治りますよ」と言うとさっさと自分の部屋へ向かった。店長はその後ろ姿に「リッ君冷たいー。鬼ー。悪魔ー。人で無しー」と怨み言を言う。しかし瀬川君はこのあとすぐ薄手の毛布を持ってきてくれて、店長はころっと手の平を返した。

でもまぁ、瀬川君の言う通り、ただの風邪なら寝てれば治るか。それともちょっとそこの薬局まで薬でも買いに行ってあげた方がいいのかな?ま、そこまでする義理もないか。

私は気合いを入れ直すと、再び集中すべくファイルへと向かった。




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