動揺、激昂、白状




廊下を歩いている最中、店長が口を開いた。

「そういえば、雅美ちゃんが殴られた時アリバイがあった人を教えとくね」

「アリバイですか」

「うん、雅美ちゃんを殴るのは無理そうだった人達」

そう言われて、私は耳に神経を集中させた。瀬川君はすでに知っているのか、表情を変えずにぼーっと私達のやり取りを見ていた。

「まず、三千流さんと拓海さんとコックの中村さん。この三人は寝れないって言って二〇七号室でずっと話してたらしい」

私は一つ頷いた。店長が続きを話す。

「次に、絵里香さんと料理長とメイドの浜松さん。三人で厨房で酒飲んでた」

「こんな時によくお酒なんて飲めますね……」

「信じられないよね。ちなみに本人達はこっそり飲んでたつもりらしいけど」

まぁ、お客さん用の高いお酒を見たら飲みたくなってしまったのだろう。私はお酒は飲んだことはないが、その気持ちはわからなくもない。こんな事件が起こった今、客用の酒を飲んだって問い詰める人はいないだろうし。

「あと、幸一さんと由香里さんは部屋で寝てたって言ってるけど、これをどれくらい信用するかは雅美ちゃんに任せるよ」

容疑者同士がお互いのアリバイを証言しているのか……。もし二人がグルなら、この証言はアリバイにならない。でも、この二人がグルということは有り得るだろうか?幸一さんは将来経営する会社のために遺産がほしい。由香里さんは自分の欲を満たすために遺産がほしい。二人とも同じ目的なら、結託する可能性はあるか……?

だが由香里さんは今までに嘘の証言はしていない。三千院さんの部屋に行った時間も正確だし、盗み聞きした三千流さんとの会話も内容が一致している。もし幸一さんとグルなら、自分達の犯行を隠すために嘘の一つでもつきそうなものだけれど。

長男夫婦について考えている間に、彼らの部屋である二〇九号室に到着した。居場所のわかっている者達から片っ端に話を聞くことにしたのだ。店長がドアをノックする。

「幸一さん、もう一回話聞いてもいい?」

少しの間があったが、「どうぞ」という快い返事が返ってきた。ドアが開き、幸一さんが私達を部屋に招き入れる。

「こんな時間にすみません」

現在朝の七時前だ。みんな殺人事件のせいでほとんど眠れていないだろうし、なるべくゆっくりしたいだろう。私が軽く頭を下げると、幸一さんは「こんな時なんだから仕方ないさ」と微笑んだ。

長男夫婦は窓際の一人掛けソファーに座り、私達三人はベッドの端に腰掛けた。由香里さんが紅茶をテーブルに置きながら、なるべく打ち解けた調子で言った。

「今回は三人で来たのね。お名前は何でしたっけ」

名前を聞かれた瀬川君は、無表情無抑揚で「瀬川です」と簡潔に答えた。由香里さんは表面的には気を悪くした様子は見せなかった。紅茶を一口飲み、幸一さんが口を開く。

「それで、今回はどんなご用で……?」

「全然犯人の目星がつかないから、もう一度みんなに話を聞いて回ろうと思って」

店長が「全く事件が解けないんですよ~」という雰囲気を醸し出しつつ答える。醸し出しつつっていうか、押し付けているくらいの勢いだが。

「ああそうなんですか、大変ですよね、警察も来れないし……。私達に出来ることがあったら何でも言ってください」

「でも、雨もずいぶん弱まってきましたから、そろそろ土砂を撤去し始めている頃じゃありません?」

「いや、雨が完全に止むまで危ないんじゃないかな。また新しい土砂崩れが起きたら……」

幸一さんの言葉に、由香里さんは「そうよね……」と落胆した。それに気づいた幸一さんは、声を優しくしてこう言う。

「君が怖がるのはわかる。こんなに近くで殺人事件が起きたのだから……。でも大丈夫だ、僕が側にいるからね」

幸一さんの励ます言葉に、由香里さんは「ありがとう、信じていますわ」と微笑んだ。ここだけ見ると、殺人なんかとは無縁な、一般家庭のおしどり夫婦のようだ。と、幸一さんが顔を私に向ける。

「そういえば、君は犯人に閉じ込められたんだって……?大丈夫だったのかい?」

「はい、怪我もたいしたことありませんし……」

私はなるべく何てことないような顔で答えた。幸一さんは申し訳なさそうな顔をする。

「僕は君を探すのを手伝わなかったんだ。すまない……。でも、この部屋を離れたくなかったから……」

彼はそう言って隣の由香里さんを見た。由香里さんを放っておけないから私の捜索に参加できなかったと言いたいらしい。そういえば、私を探し回ってくれた人は使用人ばかりだった。三千院家の人にとっては、私の一人や二人殺されてもどうでもよかったのかもしれない。

「二人はすごく仲が良さそうだね。いつも一緒にいるの?」

一瞬あいた間をついて、店長が思ってもいないことを言う。その言葉に幸一さんは目尻を下げて答えた。逆に由香里さんの笑顔は少し固くなったような気がするが。

「ええ、なるべく共にいるようにしています。仕事の時まではそうはいきませんが……。出来るだけ早く家に帰ります。妻が待っているので」

幸一さんは明らかにデレデレしていた。由香里さんは微笑みを浮かべたまま何も言わない。店長が思ってもいないことを言ったので、私も言ってみることにする。

「素敵ですね。最近は浮気する旦那さんも多いみたいですが、幸一さんなら心配ありませんね」

由香里さんにニコッと笑顔を向けると、彼女は「ええ」と短く答えた。私は「羨ましいです」と更に追い打ちをかける。

と、ここで店長が口を開いた。彼は少しの間幸一さんを眺めていたかと思うとこう言った。

「幸一さん、何か昨夜より調子が良さそうだね。何かあったの?」

その質問に幸一さんはドキッとしたようだった。一瞬息を詰まらせる。しかし、すぐにぎこちない笑みを浮かべてこう返した。

「そ、そうですかね?きっともうすぐ警察が来てくれるという安心感からでしょう。早く久能木の家に帰りたいですからね。母のことでいろいろやらなければならないこともありますし……」

少し早口になって幸一さんはそう説明した。店長はそれ以上は追及せずに「長男はいろいろ大変だね」と返した。

改めて幸一さんを観察してみると、確かに顔色がよくなっている。表情も心なしか晴れやかだ。彼の言う通り、この屋敷から出れるという安心感による変化だろうか?

幸一さんの心境の変化について考えていると、店長がちらっと私に視線を向けた。どうやら私から聞いてもいいらしい。私は部屋へ入ってからずっと聞きたかったことを幸一さんに質問した。

「あの、一つ確かめたいことがあるんですけど」

そう切り出すと、幸一さんは店長から私に視線を移した。由香里さんも私を見る。

「幸一さん、三千院さんの部屋に行った時トイレに行きましたよね?あれって部屋に行く前でした?後でした?」

幸一さんは少し悩んでからそれに答えた。その時間の自分の行動を思い出しているのだろうか。

「あれは確か後だったはずだよ」

「間違いないですか?」

「ええ。パーティーに戻る前に、ついでに寄ろうと思ったんだ。階段を上がる時にトイレの前を通るからね」

「なるほど、わかりました。ありがとうございます」

幸一さんの答えは自然なものだった。三千院さんの部屋からパーティー会場に向かう途中、トイレが目に入る。ついでだから寄っていく。何もおかしい所はない。この証言は信用してもいいだろう。

「なら、パーティー会場に帰る途中誰かに会わなかった?」

店長が質問をしたので、幸一さんはそちらに視線を戻した。

「いえ、誰にも会いませんでしたね。その、けっこう長い時間トイレに入っていたものですから。急に一人になったらぼーっとしてしまって」

「あれだけの人の中にいたらしょうがないね」

「ええ、前半は挨拶回りだけで終わってしまいましたし……。ああそうだ、そういえば、トイレで三千流に会いました。私がトイレに入ると、中にちょうど三千流がいたんです」

「なるほどね……。まぁ誰だってトイレくらい行くからね。それより、幸一さんがトイレに行ったのが先か後かわかってよかったよ」

「こんなことが捜索に役立つのですか?」

「すごく大事なことだよ。犯行時刻が幸一さんが部屋を出てから三時四十五分に死体が発見されるまでに絞られたからね。トイレに入っている間に犯人が階段を下りたのなら、幸一さんにも見られなかっただろうしね」

幸一さんは店長のその説明に目を丸くしてびっくりしていた。ついでに言うと、私もびっくりしている。容疑者にそんなことぺらぺら喋ってしまって大丈夫なのだろうか。幸一さんは容疑者から外れたってことかな?

幸一さんが少し上ずった声で言った次の言葉で、彼は私と全然違うことにびっくりしていたことがわかった。

「死体発見時刻は三時四十五分なんですか?私は五時四十分頃だと聞いていたんですが」

「三時四十五分に死んでいるのを確認した人がいたんだよ。それより、その五時四十分っていうのはどこで知ったの?」

「ええと、実は……執事の酒本君から聞きまして……。ところで、その本当の第一発見者はいったい誰なんですか?」

「ごめんだけど、本人に言わないでって言われてるんだよね」

「それなら仕方ありませんね……。気にしないでください、興味本位で聞いただけですから」

幸一さんは眉を下げて笑顔を作った。二葉さんは確か口止めなんてしなかったはずだが、彼女の証言だということは幸一さん達には秘密にしておくつもりなのか。犯行時刻のことは話したのに。普段から割とそうだが、ますます店長の考えていることがわからないな。

その時、部屋のドアがコンコンと鳴った。部屋にいた全員がドアに視線を向ける。幸一さんは私達にしたのと同じように返事をしながら、立ち上がってドアの方へ寄った。

「幸一様、由香里様、朝食のご用意が出来ておりますがどう致しましょう」

これは執事長の声だ。部屋の時計に目を向けると七時二十三分だった。ドアを開けた幸一さんは、一度振り返って由香里さんに尋ねる。

「由香里、朝食はどうする?」

由香里さんは「いただきます」と答えた。私は幸一さんが料理を受け取る様子を何の気無しに眺めていた。

「パンとコーヒーくらいしかご用意できませんでしたが」

「十分ですよ。ありがとう」

顔を上げた執事長が私に気づき、軽く頭を下げた。私も会釈を返す。台車の上にはまだ何枚か皿が乗っていて、別の部屋にも朝食を届けに行くことがわかった。

「食事を邪魔しちゃ悪いね。僕らはそろそろ失礼するよ」

店長が立ち上がったので幸一さんは壁に寄って道を譲った。瀬川君が無言で店長に続き、私も慌てて立ち上がる。幸一さんの前を通り過ぎた店長が、思い出したかのように足を止めた。

「そういえば、遺産の分配ってどうなってるの?やっぱり兄弟に均等に渡るのかな」

幸一さんが喉の奥で小さく「えっ」と言った。コーヒーの水面が一度だけ大きく揺れて、一滴お盆に跳ねた。

「え、ええ、母からはそのように聞いています。実際に遺言書を見せてもらったことはありませんが、もちろん兄弟で均等に分配し、他は使用人達に少々と、慈善団体への寄付になるはずです」

幸一さんは気を持ち直してにこやかにそう説明し、一旦私達に背中を向けテーブルに盆を置いた。由香里さんがさりげなく幸一さんの顔色をチェックしていた。

「やはり、今回のことは遺産絡みのものなのですか?」

「三千院さんが誰かを贔屓していたならそうかとも思ったんだけど、みんなの手に平等に渡るならそうじゃなかったみたいだね」

店長はそう答えると、「じゃあこれで」と言って部屋を出た。私達が廊下に出ると、ちょうど執事長が隣の二葉さんの部屋に朝食を届け終えた所だった。執事長の下げた頭の目の前で二〇七号室のドアがパタンと閉まる。顔を上げた執事長に店長は声をかけた。

「大変そうだね。ちゃんと休んでるの?」

執事長はこちらを向いて姿勢を正した。私達が相手でも丁寧な態度だ。

「少しばかり仮眠の時間をいただきました。ですが、どうにも眠れませんでした」

「雨弱まってきたけど、道ってどうなってるのかな?」

「他の者に見に行かせたところ、やはり土砂が道を塞いでいるようです。つい先程電話が復旧しましたので警察の方には事情をお伝えしたのですが、土砂の撤去にはまだ時間がかかるようです」

やっぱり土砂崩れが起きていたのか。しかし、昨夜の天気は近年稀に見る大荒れだった。それでなくともこんな山の上なのだから、この状況は避けられなかっただろう。

「なるほどね。じゃあもうちょっと続けられるね」

店長の言葉に、ピンと背筋を伸ばして立っていた執事長が身じろぎした。

「あの……私の我が儘で巻き込んでしまって申し訳ないのですが、やはりお三方もそろそろ休まれては……」

言いづらそうにそう言った後、執事長はちらっと私に視線を向けた。私が地下に閉じ込められたことに責任を感じているのだろう。

「大丈夫大丈夫、一度受けた依頼だから最後までやるよ。ところで、この部屋今中に誰がいた?」

「二葉様がお一人でおられました。拓海様はいらっしゃいませんでした。おそらく一階の客室か、パーティー会場にいるのかと」

執事長はまだ何か言いたそうだったが、結局それを飲み込んで、店長の問いに答えた。

「そっか。じゃあ僕らちょっと二葉さんと話してくるよ」

店長はそう言うと、さっそく二〇七号室のドアを叩いた。中から二葉さんの返事が聞こえる。執事長は私達に一礼すると、台車を押して隣の二〇五号室へ向かった。

「二葉さん、最後にちょっとだけ話聞いてもいい?」

店長がそう言うと、警戒するようにゆっくりドアが開いた。

「ええ、朝食を食べながらでよければ。ですが、天気も回復してきましたし、そろそろ警察が来るのでは?」

「仕事だからさ。最後までちゃんとやらないとね」

「そうですか……」

二葉さんはあまり納得していないようだったが、「どうぞ」と手で部屋の中を指した。私達はぞろぞろと上がり込む。もしかしたら、食事中に来られて少し迷惑しているのかもしれない。

「お茶を淹れましょうか」

二葉さんがティーカップに手を伸ばしたが、店長は「すぐ出てくから」とそれを断った。私達は先程と同じようにベッドに腰掛け、二葉さんは窓際のソファーに座った。テーブルの上には食べ始めたばかりの朝食が乗っている。

「それで、お話というのは?」

二葉さんはロールパンにバターを塗りながら尋ねた。料理人達が用意した朝食は、パンとポテトとコーヒーだった。昨日の数々の料理に比べたら、地味だと感じざるを得ない。

「実は全然犯人がわからないからさ、改めて何か思い出せないか聞きにきたんだ」

二葉さんは咀嚼したパンを飲み込むと、コーヒーを一口飲んだ。

「私も少しくらいこの事件について考えました。ですが、三時四十五分には母は死んでいたということしかお役に立てることはありません」

「じゃあ、三時から三時四十五分の間に、怪しい様子でパーティー会場を出て行く人を見なかった?」

「いいえ。あまり周りを気にしていませんでしたので」

「そっか……。二葉さんって三千院さんの部屋に行くまでずっと拓海さんと一緒にいたんだよね?」

「ええ、夫婦ですから」

二葉さんは当然とばかりに答えた。

「じゃあ拓海さんにも犯行は無理だね」

「そのようですね。第一、彼は殺人なんて野蛮なことを出来る人ではありません」

二葉さんは店長を見てきっぱりとそう言った。店長の「優しそうな人だもんね」という嘘に、二葉さんは少し満足そうな顔をした。そこで私はあることを思い出して「あれっ」と声を上げてしまった。

「そういえば、二葉さんって会場のドア近くで私に助言してくれましたよね。私がハンカチを落としたって言ったら、そこの執事に聞いてみたらって」

「えっ?」

「あれって確か三時二十分頃だったはずなんですけど、その時は二葉さん一人だったんですね」

絵里香さんがハンカチを落とす直前、私は柱時計で時刻を確認していた。あれは確か三時二十分に少し長針が届いていないくらい、つまり三時十八分だったはずだ。この時間はまだ殺人は行われていない。ちょうど三千流さんが会場に戻って来たくらいだろう。

「え、ええ、あの時は拓海とはぐれてしまってて。私も探してる最中だったんです。でもそのあとすぐに合流しましたから」

二葉さんは無意識のうちにバターナイフを手に取り、すぐに置き直した。店長が即座に問い掛ける。

「それって何分くらいはぐれてた?」

「さ、三分くらいでしょうか。気づいたら隣に拓海がいなくて、でも探せば近くにいたので」

二葉さんは明らかにうろたえている。どう見ても怪しい。本当はもっと長い時間はぐれていたのではないか?そもそも、三時四十五分には死んでいたという二葉さんの証言を立証するものは何もない。彼女が嘘をついているのだとしたら……。本当の犯行時刻は三時四十五分なのだとしたら……。

そこまで考えて、二葉さんに警戒されないように、私はわざと明るめの声でこう言った。

「三分なら二人に犯行は無理ですね。二人のアリバイが証明されてよかったです」

「早く犯人が見つかればいいですけれど。こんな恐ろしいことってありませんものね」

二葉さんは気を落ち着けるためか、コーヒーに口をつけた。だが、コーヒーはあと一口しか残っていなかったのですぐに空になってしまう。その様子を見ていた店長が、また妙な一言を言った。

「二葉さんお腹空いてたの?」

「……どうしてですか?」

二葉さんが訝しげな目で店長を見る。そんな彼女に、店長はしれっとこう答えた。

「いや、警戒もせず物食べてるから。殺人事件が起きて犯人と缶詰状態なのに、僕だったら物を口に入れるなんてできないな~」

二葉さんはハッと目の前の皿を見た。パンもポテトもコーヒーもきれいに完食されている。

「け、警戒しなかったわけではありませんが、私はうちの使用人を信じているので」

「そっか。変なこと言ってごめんね。僕らそろそろ他の人の話を聞きに行くよ」

店長はそう言ってベッドから立ち上がった。私も腰を上げようとしたところで、店長が思い出したかのようにこう言った。

「そういえば、拓海さんがハンカチなくしたって言ってたんだけど、見つかった?」

心構えが出来ていなかったため、二葉さんはすぐには答えられなかった。彼女は素早く呼吸を整えると、澄ました顔でこう答えた。

「さあ、ハンカチをなくしたというのも初耳でしたので」

「調査中に拾ったんだけどさ、これもしかして拓海さんのじゃない?」

店長はそう言いながらポケットから白いハンカチを取り出すと、二葉さんに差し出した。ハンカチの端には金の糸で模様が刺繍されている。二葉さんはその刺繍を確認して、少し表情を緩めて手を伸ばした。

「確かに、これは拓海の物です。彼にわたしておきます」

「これ、殺人現場で拾ったやつなんだけど」

二葉さんが呼吸を止めて固まった。ハンカチを受け取ろうと伸ばされた手が中途半端な位置で停止している。

「これ拓海さんのなの?」

「あ、いえ、あの、違うみたいですね。母のものでしょうか。拓海は母の部屋には行っていないのですから、それが拓海の物のわけありませんしね」

二葉さんは素早く手を引っ込め、しどろもどろになりながらそう言った。目は左右に泳いでいて、まるで私達の方を見ていない。

「そっか、残念。拓海さんのだと思ったんだけどなぁ」

店長がハンカチを持つ位置を変えると、その手の下から血のシミが現れた。上手く手で隠して二葉さんに差し出したのだ。二葉さんは一瞬その血に怯んだが、すぐに別人のように声を大きくして言った。

「あなた達、拓海を疑っているんですね!?それは愚かな行為です!拓海は虫一匹殺せやしないんですから!」

あまりの豹変っぷりに私は思わず腰を浮かしたまま固まってしまった。二葉さんは顔を真っ赤にし、歯を剥き出しにしながらなおも店長に食ってかかる。私の彼女にたいする冷静な女性のイメージは見事に吹き飛んでしまった。

「馬鹿みたいです!拓海を疑うなんて!本当に恐ろしい!信じられません!あの人は素晴らしい人間なんです!あなた達みたいな低俗なゴミとは違うのです!あの人を疑うなんて!信じられない!信じられない!信じられない!」

「あー……うん……。とりあえず落ち着いたら?」

「出て行ってください!今すぐに!」

二葉さんは私達を追い払うようにバッと腕を振った。私は勢いよく鼻先を通り過ぎた指先に怯んでしまい、後ずさるように二葉さんから離れた。

激昂した二葉さんにより私達は部屋を追い出されてしまう。私はまだバクバク鳴っている心臓を、大きく息を吸って落ち着かせた。

「いやー怖いね、他人の地雷って」

「全力で地雷踏み抜きに行った人が何言ってるんですか」

やれやれと言いたげな顔をする店長に、瀬川君が冷静にツッコミを入れた。目と鼻の先で人が豹変する様を体験したというのに、この二人のメンタルはいったいどうなっているのだろうか。とにかく、こんなに怒らせてしまっては今後二葉さんと話すことは難しいだろう。

「それより早く拓海さんを探した方がいいんじゃないですか」

「そうだね。一階の客室かパーティー会場だっけ?」

瀬川君がさっさと歩き出したので、店長もそれに続く。私も慌てて二人の後を追った。二〇九号室、二〇七号室と来れば次は二〇五号室かと思っていたのだが、どうやら先に拓海さんに話を聞きに行くらしい。この進行方向からすると、二人が目指しているのはおそらくパーティー会場だろう。

「あ、そうだ、ちょっと厨房に寄ってもいい?」

厨房へ続く階段室のドアの前に来た時、店長は唐突にそう言った。一歩前を歩いていた瀬川君が振り返る。

「時間がかかるようなら僕らは先に行ってますが」

「大丈夫、すぐ終わるから」

そう答えるなり店長は階段室のドアを開け中に入っていった。私と瀬川君は顔を見合わせ、結局店長の後について行った。

「ちょっと聞きたいことあるんだけど」

厨房のスライドドアを開けるなり店長はそう言った。その声に中にいた料理長とコックの立木さんと中村さん、メイドの三雲さんが振り返った。コック達は朝食を作り、三雲さんは配膳の準備をしている。

「今ちょっと忙しいんだけど」

「すぐ済むから」

ポテトを揚げていた料理長は、鍋を中村さんに任すとエプロンで手を拭きながらこちらに近づいてきた。

「私でも構わないかい?」

「昨日の夜ここにいた?」

「ええ、十二時近くまでいましたよ」

「ならちょうどいいや。誰か親族の人で、お腹が空いたから食べ物がほしいって言ってきた人いない?」

「ええ何人かいましたけど」

それがどうしたんだという顔で店長の顔を見る料理長。実際、今の私も同じ表情をしているだろう。

「誰が何時に何を食べたか教えてほしいんだけど」

「そんな細かいこと言われてもねぇ」

「お願い」

「まぁ、なるべく正確に思い出してみますよ」

料理長は少しの間考え込むと、次のように話した。

「十時ちょっと過ぎに拓海様が、十一時前に絵里香様が、その五分程後に三千流様が来ました。残り物の料理を出すのはどうかと思ったから、とりあえずおにぎりを出したましよ。この騒動で手をつけてないままのお米があるって言ったら、じゃあそれでいいって言われたものだからね。三千流様なんて自分からおにぎりをくれって言ってきたほどだよ」

店長はそれだけ聞くと、「ありがとう」とだけ言ってさっさと厨房を出て行ってしまった。私は料理長にペコリと頭を下げると、店長と瀬川君を追いかけた。

パーティー会場の両開きのドアは開け放たれており、中に三人の人物がいることがすぐにわかった。部屋の右手奥のテーブルで朝食を囲んでいる三人は、拓海さんと、のっぽとちびの執事だ。三人は近づいてくる私達に気づいて顔を上げた。

「どうしたんですか?探偵さん」

執事達は小さく頭を下げ、拓海さんは私達に声をかけた。店長は「犯人の検討が全然つかないからもう一回みんなに話を聞いて回ってるんだ」と答えたが、それ毎回言わなければならないことなのだろうか。

「僕と話して捜索が進展するならいくらでも付き合いますよ」

店長の言葉に、拓海さんは人懐っこい笑みを浮かべた。さらには私達が座る椅子を運ぶのを手伝ってくれた。

「絵里香さんから聞きましたけど、兄弟夫婦の中で犯行現場に行ってないのって僕だけなんですね」

「そうだね。運がいいね」

「正直言って、部屋に行かなくてラッキーだと思ってますよ」

拓海さんは「不謹慎でしたね」と言って微笑んだ。私は一つ気になって、店長が二葉さんにしたのと同じ質問をしてみる。

「拓海さん、殺人犯がいる屋敷で出された食べ物食べるの怖くないんですか?」

拓海さんは私の方に顔を向けて「もちろん怖いよ」と笑った。

「だから酒本さんと井頭さんが食べて何にもないのを確認してから口に入れたんだ」

「えっ、ひどいですよ拓海様。僕らを実験台にしたんですか」

「ごめんごめん。でもあなた達が当たり前のように口に入れるから」

執事達は拓海さんを詰問するが、その表情を見るからに本気で怒っているわけではないようだ。友人同士がじゃれあっているような雰囲気に似ている。

それと、拓海さんが名前を出した時彼らの反応を見てわかったが、今まで執事Bやのっぽの執事などと呼んできたが、どうやらのっぽの方が酒本さん、ちびの方が井頭さんというらしい。

「拓海さんに一つ確認しておきたいことがあるんだけど」

「何ですか?」

「パーティーの最中二葉さんと離れた瞬間はどれくらいあった?」

拓海さんは手にしていたパンを口に放り込むと、少し上を向いて「うーん」と考え込んだ。

「全体の三分の二くらいでしょうか。でも、三時以降はわりと一緒にいたと思います。二葉が景子さんの部屋に行くまでは」

「三時以降で離れてたのは最大何分くらい?」

「さあ……十分くらいでしょうか。あれは確か……三時二十分……いや、三時十五分くらいに一度はぐれたんです。その時時計を見たんで間違いありません。三時以降だと、他に別行動だった瞬間は無いと思います」

「ということは、三時十五分から三時二十五分の間か。でもこの時間だと絵里香さんと被っちゃうから二葉さんに犯行は無理だね」

「それはよかった。でもアリバイなんてなくても二葉にはやれませんよ。心優しい女性ですから」

拓海さんがそう答えると、それを二人の執事が「ヒューヒュー」だの「相変わらず熱々ですね!」などと囃し立てた。拓海さんは「やめてくださいよ~」などと言って笑っているが、その言葉が本心であることを四乃さんの証言から知っている私達は何とも言えない気持ちになった。

「そういえば、二葉さんって三千院さんの部屋に行く時に何て言って拓海さんと別れたの?」

店長の声に、ふざけ合っていた三人は騒ぐのを止めた。拓海さんはあまり考え込まずにその質問に答える。

「気づいたらいなくなってたんですよ。でもはぐれてもいつも二葉は僕のこと見つけてくれるし、あまり気にしませんでしたね」

「帰って来た時二葉さんどんな様子だった?」

「正直に言って、普段と変わりないと思っていました。旦那失格ですね」

拓海さんはそう言ってうなだれてみせた。話をしている最中に三人は食事を終えていて、酒本さんが立ち上がって皿を回収し始めた。

酒本さんは回収した皿を盆に乗せ、私達に一礼すると部屋を出て行った。井頭さんもそれについて行く。テーブルの上がすっきりして、完全に食後の雑談ムードになった。拓海さんが椅子をこちら側に向け、私に話しかける。

「そういえば、君は犯人に襲われたって聞いたけど、大丈夫だったの?」

「ええ、なんとか」

「自力で出てきたらしいけど」

「そうなんですよ。もう無我夢中で」

「すごいね。やっぱり探偵って自分の身が危ない時もあるの?その経験があったから自力で脱出できたのかな」

私はその言葉に「それもあるかもしれませんね」と答えた。正直、この何でも屋という仕事は探偵より自分の身が危ないと思う。住居不法侵入及び窃盗で捕まりかけたこともあるし、何なら連続殺人鬼とのバトルで死にかけたこともある。さらには殺人の片棒を担いだことまであるのだ。肉体的にも法律的にも危険だらけだ。

「頭殴られて気を失ったって井頭さんに聞いたけど、殴られた時犯人の顔とか見なかったの?」

「はい……。反対向きに倒れてたら犯人の足くらいは見えたんでしょうけど……」

「でも無事でよかったね。犯人はもう一人殺してるんだから、君も殺されててもおかしくなかったよ」

拓海さんの言葉に私はぶんぶんと首を縦に振った。ど、ここで今まで黙って私達のやり取りを聞いていた店長が口を開いた。

「そういえば、拓海さんって雅美ちゃんが殴られた時三千流さん達と自分の部屋にいたんだよね。その時何で二葉さんは一緒じゃなかったの?」

その言葉で、私は先程店長から聞いた情報を思い返した。確か拓海さんは三千流さんとコックの中村さんと一緒に二〇七号室にいたとのことだ。確かに、どうして二葉さんは一緒じゃなかったんだろう。

「僕達がうるさかったからか二葉は居づらかったようで。すぐに部屋を出て行ってしまったんです」

「どこに行くとか言ってた?」

「いえ。ただ、メイドの明石さんが起きていたら彼女に話し相手になってもらいたいと言っていました」

「そっか。タイミングが違えば閉じ込められてたのは二葉さんだったかもしれないね」

「ええ、だから探偵さんが襲われたって聞いた時ヒヤッとしましたよ。けっこう長い時間二葉を一人にしてしまっていたから」

拓海さんはそう言って、ホッと肩で息をついた。

「そういえば、拓海さんにも一緒に考えてほしい問題があるんだけど」

店長がそう切り出すと、拓海さんはそちらに身体が向くように座り直した。

「何ですか?でも僕に話してもいいんですか?僕って一応容疑者じゃないですっけ」

「拓海さんは部屋に行ってないから、ほとんどシロみたいなもんだよ」

店長の答えに拓海さんは「それは良かった」と笑顔を浮かべた。

「実は犯人が三千院さんの机の引き出しから何かを探した形跡があったんだけど、犯人は何を探したんだと思う?」

「そうですね……普通に考えたら、金目のものでも探したんじゃないですか?」

「でも荷物検査したらバレちゃうじゃん。僕らがしなくても警察がするかもしれないし」

店長の反論に拓海さんは「言われてみればそうですね」と納得した。

「しかも、執事長に確認してもらったら引き出しから無くなった物は一つもないんだ」

「それはおかしいですね。犯人だって早く逃げたいはずなのに何も盗らずに引き出しだけ荒らすなんて」

「何で荒らしたって思ったの?」

「……どういう意味ですか?」

「僕荒らされてたなんて一言も言ってないんだけど」

広いパーティー会場が一瞬シンと静まり返った。私も瀬川君も、拓海さんの一挙一動を逃すまいと彼を凝視していた。

「……聞いたんですよ、使用人に」

「どの使用人?」

拓海さんは何とか言葉を捻り出したが、店長が直ぐさま放った次の質問にまた答えを詰まらせた。

「だ、誰だったかな。ちょっと思い出せません。何せ、殺人事件で混乱してましたから」

「この屋敷で、引き出しの状態を見たのは僕と医者と二葉さんと執事長だけだよ」

「…………」

拓海さんはついに何も言わなくなってしまった。店長はもう聞くことはないとばかりに立ち上がり、拓海さんを見下ろして言った。

「ありがとう拓海さん。おかげで調査が進展したよ」

瀬川君が無言で立ち上がり、私も大急ぎでそれを真似た。拓海さんは部屋に行ったのに行っていないと嘘をついていた。ということは、部屋で瀬川君と話し合った、「拓海さんが犯人で二葉さんがそれを庇っている」という推理が正解だったのだろうか。

明石さんが犯人だとして、これからどうするんだろうと店長を見上げた時、俯いていた拓海さんが何かを呟いた。よく聞き取れなかったので、私は次の言葉に備えて耳を澄ました。

「……やったのは僕じゃない」

今度は聞き取れた。それは自分の無実を訴える言葉だった。店長はその言葉を待っていたのか、すかさず「じゃあ全部正直に話してくれる?」と言った。拓海さんはこくりと頷いたが、膝の上の両拳が白くなるほど強く握られていた。

「僕が行った時にはもう死んでたんだ」

「部屋に行った時間は?」

「三時五十分……」

「行った理由は?」

「遺産が欲しかったから、媚びに行ったんだ。わかるだろ」

拓海さんの放つ雰囲気はさっきまでとは別人に感じられた。さっきまでの人懐っこい柔和な雰囲気は、今では精神年齢の低い若者に変わっている。

「じゃあここからが本題。部屋に行って何した?」

「……何もせずにすぐ部屋を出た」

「わかった、なら代わりに僕が説明するよ。君は三千院さんが死んでいるのを見つけて、まず引き出しを漁った。でも目当ての遺言書は見つからなかった」

拓海さんは否定も肯定もせず、ただ黙っていた。

「次に自分のハンカチに血を染み込ませて、ドレスにかかっていたビニールに包んでポケットに入れた。この作業をしている時にドアをノックされたからノックを返した。違う?」

「……何で僕が血なんか拭かなくちゃいけないの?」

「拭いたんじゃないよ、持ってったんだよ。四乃ちゃんのスカートに血を付けたのは君でしょ?三千院さんの死が発表されてお客さんがパニックになっている時なら目立たず出来たはずだよ」

「…………」

「何も言わないってことは肯定でいいよね」

そう言われても、拓海さんは何も言い返しさなかった。もしかしたら予想もしていなかった状況に内心パニックになっているのかもしれない。

「でも安心して、拓海さんがやったんじゃないってことは信じてるから」

店長のその言葉に、拓海さんはゆっくりと顔を上げた。その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。

「……本当に?」

「もちろん。お前は自分の手は絶対に汚さないタイプだよ」

拓海さんの顔から表情が消えた。店長はさっさと踵を返してドアの方へ向かった。瀬川君もそれについて行ったので、私も後を追う。部屋を出るとき振り返ると、拓海さんがじっとこっちを見ていて何だかゾッとした。

階段で店長に追い付くと、私はさっそくさっきのやり取りについて尋ねた。

「店長、さっきのどういうことですか?拓海さんが犯人じゃなって本当ですか?」

「本当だよ。拓海さんなら間違いなく別の誰かにさせるだろうね。例えば、上手いこと言って二葉さんをその気にさせたり。実際二人だけの家を建てようとか言って四乃ちゃんを始末させようとしてたし」

「そんな……。でも、それでも犯人は別にいるんですよね?」

「そうだね。拓海さんは四乃さんを犯人にして遺産の取り分が増えるように計画しただけだよ」

まさかこんな展開になるなんて想像もしていなかった。事件は急展開だ。もしかしたら、本当にこの事件解決できてしまうかもしれない。

「それにしても、そこまでわかってたなら言ってくれればいいのに」

私との会話が終わったからか、瀬川君が店長にぶすっと文句を言った。その点については全くの同感である。

「まぁまぁ、細かいことは気にせずに」

「本当に人が悪いですね。まぁ今に始まったことじゃありませんけど」

階段を下りて玄関ホールを横切っていると、客室に人がいるのが見えた。私が二葉さんと拓海さんの会話を盗み聞きし、閉じ込められた私が出てきたあの客室だ。先頭を歩いていた店長もそれを見つけたらしく、足を止めた。

「あそこに三千流さんがいるから、ついでに話聞いてこう」

異論はなかったので、私と瀬川君は首を縦に振る。また何か新しい情報が得られるといいが。この事件を解決してやると闘志を新たにして、三千流さんのいる客室へと向かった。




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