三度目の一〇六号室
庭師の大東さんは五十過ぎの男性。耳の上の生え際の白髪が目立つ。小柄だががっしりとした体型で、庭師というよりは大工の親方だ。彼は眉頭と額に深いシワを寄せて、そのよく日に焼けた顔をこちらに向けた。
「何だ、探偵ったってガキんちょじゃねえか。あんたらなんかに話すこたあ何もねえぞ」
大東さんは私達を一瞥すると、唸るようにそう言った。三雲さんがドアからこちらを覗いて、諭すようにこう言う。
「大東さん、この人達も仕事でやってるんだから、お願いしますよ」
それから小声で私達に「頑張ってください」と言うと、三雲さんはドアの向こうに消えて行った。四畳半もない狭い部屋に、大東さんと三人きりになる。
大東さんは私達に横顔を向けたまま何も言わないし、どうしようかと悩む。すると店長が靴を脱いで畳の上に上がった。そのまま大東さんの近くに腰を下ろす。私も慌てて靴を脱いで店長の隣に正座した。
「今日すごい雨だけどさ、大東さんって今日一日何してたの?」
店長の問いに大東さんは鼻を鳴らしただけだった。私は困惑した顔を店長に向ける。
「何で無視するの?何か言ってよ」
尚も店長が話し掛けるが、大東さんはそっぽを向いたまま何も答えない。店長は表情で私に「やれやれ」と言った。
「犯行時刻が三時から四時なんだけどさ、その時間何か見なかった?っていうか大東さん何してた?」
店長が声にけだるさを滲ませながらそう質問する。このおじいさんに何か証言してもらうのは無理かもなぁと私が内心諦めたところで、大東さんは年で色の悪くなった唇を開いた。
「お前さん達に話すことなど何もないわ。出て行け」
「何もないならその時間どこにいたのか教えてよ。信用できるかはこっちで判断するから」
大東さんは目玉だけを動かして店長をギロリと睨んだ。
「お前さんさっきから何だその口の利き方は。目上のもんには敬語を使え糞餓鬼が」
「大東さんを目上だと思えたら敬語使うよ」
私は心の中で「あちゃー」と呟いた。いや、顔にも出ていたかもしれない。
大東さんは勢いよく腕をのばすと、側に置いてあった灰皿を掴んで店長の顔面目掛けてぶん投げた。店長が首を動かしてそれを避けると、ガラス製の灰皿はドアにぶつかって砕けた。私は上体を反らして両手で口を塞いでいた。
「出てけえ!その顔を二度と見せるな!」
「はいはい出てくよもう。行こう雅美ちゃん。この人からは何も聞けそうにない」
店長は「よっこらせ」という言葉が聞こえてきそうな動きで立ち上がると、靴を履いてドアノブに手をかけた。私は早く出ましょうという気持ちを乗せて店長の背中をぐいぐい押す。店長はドアから完全に出る前に大東さんを振り返って言った。
「知ってること言いたくなったら来てね」
その言葉に大東さんは唾を吐き捨てた。私は慌てて部屋を飛び出した。
大東さんの部屋のドアを閉めるなり、私は店長に食ってかかった。
「ちょっと店長!あんな態度とったら大東さんが怒るのも当たり前ですよ!」
「ちょっと早く生まれただけで偉そうな顔する人、僕嫌いなんだよね」
「そりゃ私も嫌いですけど!」
テーブルで私達の帰りを待っていた三雲さんがこちらに近づいてきた。明石さんも椅子に座ったままこちらを見ている。二人とも心配そうな顔をしていた。
「あの……大丈夫でした?大東さん怒鳴っていたようですけど……」
「何か怒らせちゃったみたい」
「いえ違うんです、あの人、今朝からずっと機嫌が悪くて」
申し訳なさそうにそう言う三雲さんに、私は「どうしてですか?」と尋ねた。
「普段から愛想のいい方ではないんですけど……。この台風で花壇が全部やられてしまいましたでしょう?大東さん、何日も前からここへ来て庭の手入れをしてましたから……」
「それはお気の毒ですね……」
三雲さんは眉を下げながら「もともと気難しい人なんですけどね」と言った。どうやら大東さんが怒ったのは私達のせいじゃないということを伝えたいらしかった。
「とりあえず、次は料理人達の部屋を教えてくれない?」
「彼らの部屋はその隣です。普通に入ってしまっても大丈夫だと思いますよ」
三雲さんは視線で庭師の部屋の隣のドアを示した。私と店長は彼女にお礼を言ってそのドアをノックした。すぐにドアが開き、ラフな服装をした若い男性が顔を出す。
「僕ら今回の事件の捜査をしてるんだけど、今話してもいい?」
「ああ、あなた方が」
男性は快く私達を部屋へ招き入れた。部屋の中にはもう一人年上の男性がいた。彼も部屋着を着用している。
この部屋は隣の部屋とは違ってフローリングだった。隣の部屋よりは少々広いが、サイズの小さい二段ベッドが両側に設置してあり、中心の僅かなスペースにテーブルが置いてあるだけだった。
二人の料理人は両側のベッドの下段にそれぞれ腰を下ろした。私と店長はテーブルのイスを引いてそこに座った。
「ひとまず君達の名前聞いてもいい?」
店長の問いに、まず年上の料理人が答えた。同じ役職の人達を区別するのに、こうして名前がわかるのはありがたかった。
「俺は立木です」
年上の料理人に、若い料理人も続いた。
「俺は中村。三千院家には半年前から仕えだしたばかりです」
「立木さんに中村さんね。さっそくだけど、犯行時刻の三時から四時、何か怪しいものを見なかった?」
店長の質問に二人は少し考え込んだ。すぐに中村さんが口を開いた。
「その時間はデザート作りをしていませんでしたっけ」
「ああ、そうだそうだ。すごい忙しさだったな」
「そうなんですよ。何せ料理人が三人しかいませんから、手が足りなくて」
「しかもみんなデザートには不慣れで……。パティシエを雇うという話もあったはずなんですけど」
「というわけで、その時間俺らは厨房に缶詰だったわけです」
となると料理人三人はシロかな。忙しい時間に他の二人の目を盗んで厨房を抜け出すなんて無理だろう。それにこの三人には三千院さんを殺す明確な動機が見当たらない。
「その時間厨房にいたのは料理人三人だけだった?」
「ええ。……いや、メイドの七窪さんがいたな」
「そうだそうだ、七窪さんに皿洗いをお願いしていたんだよ。皿もすごい量でね」
「でもあの人すぐにふらふら逃げ出しちゃって」
「やれトイレだとかやれ外の様子を見てくるだとか」
「困りますよねまったく。見栄えが悪いからって裏方に回されてるのに」
「ああ、あんな不細工が出たらお客さんひっくり返っちまうよ」
「ゴリラっぽさなら料理長も負けてませんけどね」
二人の料理人は顔を見合わせて笑った。男性はこうやって陰で女性の容姿について話してるんだなあ。まぁこれについては女性も同じだけど。
「最後の質問だけど、君達から見て犯人って誰だと思う?」
この質問には、二人はそんなに深く考えず答えてくれた。どうやら三千院さんが死んだことをまだ完全に実感できていないらしい。おそらく彼女の死体を見ていない使用人なんてみんなそうだろう。
「やっぱ怪しいのは次男夫婦か七窪さんだよな」
「ですよね。三千流様達は金の亡者だし、アリバイさえ無ければ七窪さんで決まりなんだけどなあ」
「七窪さんって三千院さんの指輪盗んだ人だよね?」
「あ、やっぱ知ってましたか」
「おおかた料理長あたりが喋ったんでしょう」
「それかあの耳障りな声のメイド。派手な色の鳥みたいだ」
「とにもかくにも、七窪さんが指輪を盗んだことは確定的ですからね。何せあの人の部屋からその指輪が出て来たんですから」
「雇い主の宝石を盗むだなんて、どうしてメイドってこう汚いんだ」
「そうでもしなきゃやってられないんですよ。毎日毎日主人の小言を聞かされて」
「だとしても、馬鹿なことをしたもんだぜ」
私と店長は二人の料理人にお礼を言って部屋から出た。彼らからは料理長のアリバイが聞けた。料理人三人の犯行は無理だと断定してしまってもいいだろう。その時間皿洗いをしていた七窪さんはちょいちょい厨房を抜け出していたようなので、シロと言い切るにはまだ気が早い。
私と店長は三雲さんと明石さんにもお礼を言うと、使用人用の小さな建物を出た。外はまだ大雨だ。風も強い。私達は来た時と同様に小走りで屋敷へと戻った。
「これからどうします?」
建物の中に入って一息つくと私は、上着についた雨の雫を払い落としている店長に尋ねた。店長はこちらに顔を向けて、強風で乱れた私のヘアースタイルを指先でさっと直しながら答える。
「とりあえず二葉さんに話聞きに行く?」
「そっか、そうですよね。部屋に行ったはずなのに行ってないなんて嘘ついてましたし……。本当のことを聞かないと」
まぁ二葉さんは犯人ではないが、部屋に行ったと知られると疑われるから嘘をついたという可能性もある。嘘をついたからって彼女を犯人と決め付けるのはまだ早いだろう。とにかく話を聞かないことには始まらない。
私と店長は玄関ホールを横切り、客室と隔ててるドアを抜け、二葉さんと拓海さんの部屋の前にやって来た。ドアをコンコンとノックする。
「二葉さん、いる?」
ノックには返事が無かったが、店長が声をかけると二葉さんの返事があって内側からドアが開いた。彼女は少し強張った顔で私達を見回した。
「どうされたんですか?お話ならさっき済んだはずですが」
「新しく聞きたいことができて。中に入ってもいい?」
二葉さんは一瞬渋ったが、私達を部屋へ招き入れた。部屋の中へ入れたくはなかったが、廊下で話されても困るので仕方なくだろう。
部屋の中には拓海さんもいた。彼と二葉さんはベッドに腰掛け、私と店長は彼らと向かい合うように窓際のソファーに座った。
私達が椅子に落ち着いたのを確認して、拓海さんが口を開いた。
「そういえば、さっきお知らせしたことはどうでした?やっぱり僕の見間違いでしたか?」
「いや、たしかについてたよ。いつついたものだろうね」
「彼女に聞かなかったんですか?」
「聞いても正直に答えてくれるわけないからね。まだ気付いていないふりをしといたよ」
店長の答えに拓海さんは少しがっかりしたような怒ったようなそんな顔をした。二葉さんは話の内容がわからないらしく、不安そうな表情を拓海さんに向けている。今聞かないということは、私達が出て行った後で聞くつもりだろう。
「すみません話を逸らしてしまって。あなた方の用はなんですか?」
「そんなに時間はかからないから安心して。二葉さんが三千院さんの部屋に行った正確な時間と理由を聞きたいだけだから」
この言葉の効果はてきめんだった。二葉さんはさっと顔色を変え、とっさには何も言えなかった。拓海さんは無表情で二葉さんを見ていた。
やがて二葉さんは少し声を震わせてこう言った。
「な、何を言っているのかよくわかりません。私はお母様の部屋には行っていないと先程申し上げたはずですが」
「それが、二葉さんが血相変えて部屋から出て来るところを見た人がいるんだよね」
「見間違いだと思います。私ではありません」
と、ここで店長は一つ嘘をついた。
「でも二人で見たらしいし、二人とも見間違えるっていうのはちょっと考えにくいよね」
二葉さんは押し黙った。膝の上の手は白くなるほど強く握られていた。
ここで、黙って成り行きを見守っていた拓海さんが口を開いた。彼は無意識のうちに険しい顔をしていたのだが、それを優しい微笑みに変えると二葉さんに語りかけた。
「二葉、正直に話した方がいいよ……」
「ち、ちが……っ、私、本当に……」
二葉さんは絶望しきった眼差しを拓海さんに向けるが、拓海さんは彼女の肩にそっと手を置いてこう言った。
「もちろん二葉がやっていないことは知っているよ。二葉は自分が疑われないように部屋に行ってないなんて嘘をついたんだ。そうなんでしょう?」
「ええ、ええ、私、そうなの」
二葉さんは拓海さんに縋り付いて、うわごとのようにそう答えた。拓海さんは優しげな微笑みと声のまま二葉さんを諭す。
「なら、それをちゃんと探偵さん達に言えるね。いいかい、嘘は言っちゃだめだよ」
「私言えるわ。でも拓海、信じて。私はやっていないわ。それだけは信じてちょうだい」
「もちろん、そんなことはわかっているよ。さ、本当のことをこの人達に話すんだ」
二葉さんは頷くと、私達の方に向き直った。目尻を拭って顔を上げた彼女は、もう無機質な冷たい表情の女性に戻っていた。
「すみません、私、本当のことをちゃんとお話します」
店長が先を促すと、二葉さんは冷静に淡々とした声で話し始めた。
「私は確かにお母様の部屋へ行きました。三時四十五分頃です。少しお母様に確認したいことがあったので」
「確認したいことって?」
「……それは言えません。三千院家内の話ですので。お母様の許可がなければ」
「わかった。続きを話して」
「私はお母様の部屋のドアをノックしました。返事はありませんでした。でも私はお母様が中にいることを何故か……不思議と確信していましたので、ドアノブに手をかけました」
「それで?」
「ドアはあっさりと開きました。鍵がかかっていなかったのです。私は部屋の中に一歩足を踏み入れましたが、部屋は真っ暗でした。カーテンも閉じられていまして。それで私は、ほぼ無意識のうちにドアの横の明かりをつけたのです」
「あの部屋の明かりは確かすぐには点かないタイプだったね」
「ええ。お母様が、すぐに点くと目が痛くなるとおっしゃったので、徐々に明るくなるタイプのものに交換したのです。部屋のスイッチを入れると、テーブルに伏しているお母様のシルエットが見えてきました。私は、はじめお母様は寝ているのかと思いました。近づくと、ちょうど明かりが大きくなってきて、お母様が、その、頭から血を流していることに気付いたのです」
「君はその時死体に触った?」
「いいえ!とんでもない!一目見て死んでいるとわかりましたから。私はテーブルのすぐ前まで来ていたのですが、しばらく一歩も動けなくなってしまって。ようやく気を持ち直して、転がるように部屋を出たのです」
「なるほどね。そこを目撃されたのか」
「まさか私を見ている人がいるとは思いませんでした。でもこれだけは信じてください。私はお母様を殺してはいません。神に誓って言えます」
二葉さんは店長の目を真っすぐに見てそう言った。これだけ真剣に言っているのだから、二葉さんの言っていることは本当だろうか?いや、自分が捕まらないためなら本気で嘘くらいつくだろう。
「部屋に行ったことを言わなかった理由は、犯人だと疑われるのを恐れたからでいいんだよね?」
「はい。目撃者がいるとは思いませんでしたし……。犯人にされても不思議ではない状況だと思ったので」
「賢明だと思うよ。他に隠していることはない?」
「……ありません」
二葉さんの答えには少し躊躇いがあったように思えた。店長もそう感じたのだろう、彼は同じ質問を繰り返した。
「本当に?」
「ありません。全部お話しました」
今度の答えはきっぱりとしていた。表情もいっそうきついものになっている。店長は拓海さんの方を向くと、彼にもこう尋ねた。
「拓海さんは?何か話してないことある?」
「いいえ。僕はありません。また何か見つけたら伝えに行きますよ」
「そうしてくれると助かるよ」
二葉さんが三千院さんの部屋に行ったかどうかという話が一段落ついたので、私はその一瞬のタイミングを見計らって拓海さんに尋ねた。
「そういえば、拓海さんはハンカチを拾いませんでした?三千院さんがデザインした刺繍がしてある」
ハンカチという単語が出た瞬間、拓海さんと二葉さんの顔が強張った。見間違いなどではないだろう。拓海さんはすぐに微笑みを取り戻したが、二葉さんの無表情には不自然さがある。
「拾ってないよ。誰かハンカチなくしたの?」
「ええ、まあ……」
私は曖昧に答えた。何となく絵里香さんの名前は出さない方がいいような気がした。
拓海さんが何か言いたげに口を開いたが、結局何も言わなかった。
パーティー会場のドアのところに立っていた執事は、絵里香さんのハンカチを拾った人物はグレーのスーツだと言っていた。この会話中に拓海さんのスーツもグレーだということに気付いた私は、一応確かめてみたのだ。ただ、前にも言った通りグレーのスーツを着た男性なんて何人もいる。ハンカチを拾ったのが拓海さんじゃなくても不思議ではない。
一通りの話は終わったので、私達は退室することにする。私と店長は二人にお礼を言うと部屋を出た。
「二葉さんの言ってることは本当でしょうか?」
「どうだろうね。証言に変なところはないけど、まだ何か隠してることがあるみたいだし」
「部屋に行った理由も明かしませんでしたしね」
二葉さんは明らかにまだ隠していることがある。しかしあそこまで頑なに言おうとしないのなら、何度聞いても意味はないだろう。隠し事をすれば自分の疑いが増すのに、そうまでして隠したいことは何なのだろう。
私が客室と廊下を隔てるのドアのノブに手をかけたところで、背後でガチャリとドアの開く音が聞こえた。振り返ると、二〇七号室から拓海さんが出て来たところだった。彼はしっかりとドアが閉まったことを確認するとこちらへ寄ってきた。
「すみません、一つお話があって」
私と店長は拓海さんの方に向き直る。拓海さんはポケットからハンカチを取り出して店長に差し出した。
「これ、絵里香さんのハンカチじゃないかと思うんですけど」
店長はハンカチを受け取ると、すぐに私にパスした。鼻を近付けなくてもわかる香水の匂い。間違いなく絵里香さんのハンカチだ。
「何で君が持ってるのか一応聞いてもいい?」
「実は僕もハンカチをなくしてしまって。パーティー会場でそれを拾ったんですが、香水の匂いがきついので僕のじゃなくて絵里香さんのではないかと思いまして」
「何でさっき言ってくれなかったんですか?」
「二葉に心配をかけたくなかったからね。僕が絵里香さんのハンカチなんか出したら、きっと二葉はいらぬ心配をしてしまうから」
拓海さんはそう答えると、一度二〇七号室の方を振り返ってから、眉を下げて微笑んだ。
納得できない話ではない……か?たしかに、絵里香さんのハンカチが拓海さんのポケットから出て来たのなら二葉さんはびっくりするだろう。でもそれだけではないか?わざわざ部屋の外でハンカチを出す必要があったか?私達が出て行った後にいくらでも弁明すればいいじゃないか。
それとも二葉さんは拓海さんが絵里香さんのハンカチを持っていたことを知っていた?先程二葉さんも顔色を変えた理由はそれか?でもだからと言って何だ?絵里香さんのハンカチが今回の事件の重要な証拠なわけでもない。これはただの香水臭いハンカチだ。だから拓海さんだって隠さず私達に提出したんじゃないか。
そういえば四乃さんが、二葉さんは表面に出さないだけで拓海さんのことをかなり愛していると言っていた。拓海さんがその気持ちを知っているのだとしたら、些細なことでも心配をかけないように気を配るのは当然のことなのかもしれない。ここは拓海さんの言葉通り受け取っておくことにしよう。
私は店長と拓海さんの会話に意識を戻した。
「で、自分のハンカチは見つかったの?」
「それが見付からないんですよ。使用人達にも聞いてはみたんですが」
「何時頃無くしたかわかる?」
「さあ……三時前にトイレに行った時に気付いたんですが」
「そっか。見つかるといいね」
拓海さんは私達に軽く頭を下げると、二葉さんの待つ二〇七号室へ帰って行った。私達は今度こそドアを開けて屋敷へ足を踏み入れる。
「これからどうするんですか?瀬川君のところに帰りますか?」
「いや、もう一人寄ってから帰ろう」
「もう一人?」
他に誰か話を聞く人があっただろうか?私が首を傾げていると、店長はさっさと歩き出してしまった。
数分後、私達は執事長の條島さんのところにいた。彼は一階玄関ホールから通じている客室の掃除をしていた。私がトイレに行った時に二葉さんと拓海さんが話をしていたあの客室だ。
條島さんは私達が近づいてきたことに気がつき、頭を上げた。
「どうされました?まさか犯人が……」
「違う違う。三千院さんって遺産の管理は誰に頼んでたのかなって思ってさ」
「奥様には顧問弁護士がおります」
執事長は一瞬輝かせた瞳の光を消して答えた。
「今日来てる?」
「ええ、いらっしゃいますよ。一〇四号室です。ご案内いたしましょうか」
再び客室へと向かう私達。歩いている最中、店長が執事長に話し掛けた。
「一〇四号室って僕らの部屋の隣だね」
「そうでございますね。何かあった時すぐに相談できるようにと、近くのお部屋を奥様が指定されたのであります」
「でも三千院さんの部屋の隣って空いてるじゃん。一〇二号室」
「あのお部屋はいつも空いているんでございますよ。奥様は隣の部屋にいて聞き耳でも立てられたら敵わないと常々おっしゃっておりましたから」
ここで一度会話が途切れたが、すぐにまた店長が話し掛けた。
「その弁護士っていつからここに居るの?」
「昨日からでございます」
「何で昨日から来てるの?」
「奥様がお呼びになったのですよ。何でも今日の夜に大事な話があるとか」
「その大事な話の内容は君は聞かされてないの?」
「私はただの執事にございますよ。何故私などに話しましょう」
「だってもう二十五年も三千院さんの所で働いてるんでしょ?」
「そうだとしても、主人と使用人の間には埋まらない溝があるのです」
店長が何も返さないでいると、執事長は自ら話を続けた。
「しかし、今晩呼ぶから部屋に来てくれと言われましたね」
「何時に?」
「何時とは正確に申されませんでしたが、昨日の夜に、明日の晩私が呼んだら来ておくれ、重要な話があるからとおっしゃられました」
「正直言って何の話かと思った?」
「そうですねぇ……重要な話とおっしゃいましたから、私の解雇のお話か、さもなくば奥様のご遺産関係のお話かと……つきましたよ。このお部屋でございます」
執事長は一〇四号室のドアの前で振り返って、小声で私達に「弁護士様のお名前は川端聡様にございます」と言い、ドアを軽くノックした。部屋の中から中年の男性の声が返ってきた。
「川端様、執事長の條島にございます。今回の奥様の件について捜査なされている方々が来られているのですが、ご助力いただけないでしょうか」
すぐに部屋の中から椅子の軋む音がし、足音がこちらに近づいてきた。ドアがほんの数センチだけ開き、その隙間から白髪混じりの男性が顔を覗かせた。
「こちらが探偵の相楽様と荒木様にございます。是非奥様の顧問弁護士である川端様のお話を聞きたいとおっしゃられております」
川端さんはその隙間から私と店長をじろじろと見ると、執事長に視線を移した。
「信用できる人達なんでしょうな?」
「ご安心ください。この方々は奥様とはほとんど接点がございません。その……いつもの奥様の気まぐれで招待された方々なのです」
川端さんは執事長とは顔見知りらしく、彼の言葉を信用してようやくきちんとドアが開かれた。それから川端さんは店長に右手を差し出す。
「いや、疑ってしまってすみませんな。このようなことがあればその……自分の身を守ることは当然必要になってきますからな。私は三千院景子氏の顧問弁護士の川端という者です」
「この状況じゃ仕方のないことだからね。気にしてないよ。僕は相楽。好きなように呼んで」
店長と握手を済ますと、川端さんは私に右手を差し出した。私は慌てて握り返す。
「あ、荒木です。よろしくお願いします」
「こんなにかわいらしいお嬢さんも探偵なのかな?」
「アルバイトだけどね」
執事長とはその場で別れて、私と店長は部屋の中へ招かれた。川端さんは私達にお茶を出したが、今まで同様私達はそれに口をつけなかった。
「さて、三千院氏について聞きたいとのことですが」
「まず始めに、あなたは三千院さんとどれくらいの付き合いなの?」
「二十年程ですな。もともとは私の弁護士の師匠とも呼べる人が、三千院氏━━旦那さんの方のね━━の担当だったのです。それで、氏が引退する際に三千院家の財産の管理は私に任されたわけでして」
「それだけ長い付き合いなら、三千院さんからの信頼も厚かっただろうね」
「ええ、そうであったと自負しております。彼女はまあ、気難しいタイプの女性でしたが、仕事の面においては信頼してくれていましたよ」
「じゃあ本題に入るけど」と店長は前置きをした。川端さんの首が少し前に出た。
「三千院さんって遺言書書いてたよね?その内訳が知りたいんだけど」
そう言われた顧問弁護士は、鼻から長い息を吐いてしばらく黙った。
「遺言書の内容ですか……。そういうことを他人様に言っていいものか……」
「他の人には言わないからさ。調査をするにあたって知らなきゃならないんだよ。それとも、何か言えない理由があるの?」
「実を言うと、三千院氏はご自分の遺言の内容をご家族にも打ち明けていなかったのです。ですから、それをまず貴方方に言ってもよいものか」
「でも今日の九時に家族会議で言うつもりだったんでしょ?」
「な、何故それを?」
「幸一さんと、二葉さんと拓海さんに聞いた」
目を真ん丸にして驚く川端さんに、店長はしれっと嘘をついた。
「息子さんがおっしゃられたのですか。それなら、ここで言ってしまってもいいかもしれませんね」
店長の嘘を馬鹿正直に信じた川端さんは、ひとつ大きく頷くと椅子から立ち上がった。彼はサイドテーブルに立てかけてあった旅行鞄に近寄ると、その中からシンプルな平たいケースを取り出した。ケースの中から一枚の紙を選び、それを手にしてこちらへ戻ってくる。
「これです。まぁ、これはレプリカですが」
「レプリカ?」
店長は差し出された遺言書を受け取った。私も横から覗き込む。文面はひどく簡潔なものだった。
「ええ、レプリカなんですよ。今晩の家族会議で、お子さん方の目の前で三千院氏がそれにサインする予定だったのです。激情したお子さんに破かれても大丈夫なように、本当の遺言書は滋賀の私の事務所に保管してあるのです」
「なるほどね」
店長は私に遺言書を渡したが、私はすでに文面を全て読み終えていた。それほど短い文章だったのだ。なにせ【私三千院景子の財産は死後全て次女四乃に与える】としか書いてなかったのだから。
「三千院さんは昔から遺産は全部四乃ちゃんに遺すって言ってたの?それとも最近言い出した?」
「いえ、二、三年前からずっと言っていましたよ。私も始めは、それじゃあ他のお子さん達があまりにも可哀相だと言ったんですがね。彼女聞かなくて」
「三千院さんは何でこういう遺言書にすることにしたのかな?」
「まあ、単に他のお子さん方はお気に召さなかったのでしょうな。それに、四乃さんは他のご兄弟方とは年も離れていて、大変な可愛がりようでしたから」
「それを兄弟達はよく思ってなかった?」
「ええもちろん。私もお子さん方とはそんなに仲良くしていた方ではないんですがね、それでもわかりますよ。他のご兄弟が四乃さんのことを疎ましく思っていたのは」
「それは三千院さんは気付いてた?」
「気付いていたでしょうね。だから尚更他のお子さん方が気に入らなかったのでしょう。三千院氏の四乃さん贔屓がそういう空気を作っているのだということには、気付いておられなかったみたいですがね」
「じゃあ、自分にたいする兄弟達の気持ちに四乃ちゃんは気付いてたかな?」
「それはどうでしょうな。あの子はちょっとぼやっとしたところがありますからな」
川端さんのその言葉に、店長は小さく苦笑いをした。川端さんはそれに気付かないようだった。
「ありがとう川端さん。すごく重要な話が聞けたよ」
「調査のお役に立てましたかな?」
「もちろん」
川端さんは再び右手を差し出した。私と店長は握手を返し、彼にお礼を言って部屋を出た。
「とりあえずリッ君のとこに戻ろっか」
「待ちくたびれてるでしょうね」
「重度のワーカホリックだからね。することがないのに長時間座ってるのは辛いんじゃない?」
店長は笑いながらそう言って、廊下を歩き始めた。
一〇六号室に帰ると、瀬川君は私達が出て行った時と同じ姿勢で本を読んでいた。変わったことといえば、読んでいる本のページが終盤に差し掛かっていることくらいだ。
「ただいまー。何もなかった?」
「ええ。暇でした」
瀬川君はソファーに座る店長にそう答え、私に「おかえり荒木さん」と挨拶を返した。
「じゃあ使用人達から聞いた話を手っ取り早く説明するね」
「はい。なるべく詳しくお願いします」
瀬川君に釘を刺された店長は、使用人達の証言をちゃんと丁寧に説明した。瀬川君はほとんど口を挟まず聞いていた。
「庭師の人が何を隠してるのか気になりますね」
「たいしたことじゃないかもしれないけどね。あの人僕が気に入らないから話したくないだけなんだよ」
「だったら気に入られるように下手に出ればよかったじゃないですか」
「だってリッ君だったらそうする?」
「もちろんしませんけど」
庭師のおじさんの所には私一人で行った方がよかったのかもな。今更遅いけども。
「二葉さんも三千院さんの部屋に行っていたというのは新しい情報ですね。彼女の証言に嘘はないんですか?」
「僕が見た感じではないと思うけど……僕そういう勘みたいなの苦手だからなあ。雅美ちゃんはどう見えた?」
店長がこちらに振ったので、私は今一度証言中の二葉さんの様子を思い出してみた。
「うーん……正直、みんな怪しく見えちゃって直感とかはあんまり役に立ちそうにないですね……」
私は申し訳なさそうに正直な答えを言い、そしてこう付け足した。
「でも二葉さんはまだ何か隠してることがありそうなので、彼女の証言は完全に信じきれないですね」
「容疑者達は本当の話の中に嘘を混ぜてくるものだよ。全部嘘だと信憑性が薄れるからね。彼等の話がどれが本当でどれが嘘なのか見極めるのが僕らの最初の仕事だよ」
「それが難しいんじゃないですか」
「まぁそうだよね。少しずつ組み立てていかないと」
一瞬間があいたので、私は瀬川君に一つ尋ねてみた。四乃さんのことで彼の意見を聞いてみようと思ったのだ。
「ねぇ瀬川君、四乃さんのスカートに血がついていたことはどう思う?」
瀬川君は少し考え込んでから答えたが、その顔はぱっとしたものではなかった。
「単純に、見た目通り四乃さんが犯人なのか、真犯人が四乃さんに罪を被せるためつけたかのどっちかだと思うよ」
どうやら瀬川君はまだどちらとは断言したくないようだ。彼は店長の方を向いて、「店長はどう思います?」と尋ねた。店長もいくばくか悩みながら答えた。
「僕はどっちかというと後者だと思うなあ」
それから、無意識のうちに足を組み直してこう続けた。私は店長の足があたらないように少し身をよじらせた。
「四乃ちゃんは遺産の件で他の兄弟達から疎まれていたみたいだから。僕らや警察が四乃ちゃんのスカートについた血を発見して、彼女を犯人にしてくれたらものすごく都合がいいだろうね。でも、四乃ちゃんが犯人の可能性だって十分にある」
「でも私もどっちかというと四乃さんはシロだと思います。そもそも、四乃さんにあの凶器を振り上げる力がありますかね?」
「どうだろう。花音みたいに特異体質って場合もあるからね。そうだとしたら、パーティーの間ずっと一人で行動していた四乃ちゃんは疑いやすいよ。あの子目立たないからそっと会場を出ても誰も覚えてないだろうね」
「だとしたら動機はなんでしょう」
瀬川君が呟くように問題を一つ提示した。
「それだよね。四乃ちゃんが三千院さんを殺す理由といては現状からの脱却だけど、三千院さんは心臓の病気でもってあと数年だったらしいし。あとちょっと我慢すれば殺さなくても勝手に死ぬのに今やる理由があったかってことだよね」
私はもし四乃さんが犯人だとして、彼女が今三千院さんを殺す理由があるか考えてみた。そして一つの場合を見つける。
「あ、遺産はどうですか?遺産を他の兄姉達にも正当に分配したいから……とか。それだけで殺すっていうのはちょっと考えにくいですけど」
もし四乃さんも今日の九時からの家族会議の内容を知っていたのなら、不当な遺産分配をどうにかするために三千院さんを殺したのかもしれない。
「ありえない話ではないけど、僕は違うと思うな。四乃ちゃんはそんなことするタイプじゃないよ」
「そうですよね。四乃さんが置物で撲殺なんて……」
「そこじゃなくて、四乃ちゃんが兄弟のために母親に立ち向かうってとこ。どっちかというと大金入ってラッキーこのまま雲隠れしようってタイプだと思うな」
「そうですかね?私はそうは見えませんでしたけど。瀬川君はどう思う?」
「僕は四乃さんのことよく知らないから……。でも話を聞いている限り、現実的な子だと思うよ」
「だからもらえる遺産はもらっとくと思うよ。三千院さんの教育方針で仕事に繋がるような手段は何も持ってないみたいだし、兄弟達は遺産を狙ってくるだろうし。なら大金もらって逃げちゃうのが一番だよ」
そうやって説明されると、なるほどそうかもと思えてくる。四乃さんは周囲を冷静に分析する力を持っているのだ。
「だから四乃ちゃんが犯人だった場合に考えられる動機は、三千院さんと話してたらその束縛に耐え切れなくなってついカッとなっちゃったとかだと思うよ。四乃ちゃんにあの置物を振りかぶるパワーがあればの話だけど」
店長の言葉に、瀬川君も「そうですね」と同意した。
「見た感じだと計画殺人ぽくはないですから、衝動的な犯行の可能性は大きそうですね」
「でもそれだと、動機から犯人を見つけるのは難しくなりそうだね……」
つい不安そうな声になってしまい、私は内心で自分を叱咤した。ただでさえ殺人犯人探しという難題だ。否定的な雰囲気を作ってはいけない。
「もし遺産以外の動機だったらね。今日の九時に家族会議がある予定だったとわかったから、何でわざわざバースデーパーティーがあるこんな日に犯行に及んだのか検討がついたじゃん」
「今日じゃなきゃダメだったってことですね」
店長が私の言葉に頷いた。
一通りの話は終わり、私達はようやく肩の力を抜いた。私が体重を後ろに移しながら両手をつくと、私の腹部からグウ~という音が鳴った。
「…………」
「…………」
「……え?この状況で?」
「う、うるさいですね!」
信じられないという顔をする店長を私はキッと睨みつけた。瀬川君は表情を変えずに本に視線を落としていた。聞こえなかったふりをしてくれているのだろう。おそらく私の顔は今真っ赤になっているはずだ。まさかこんなタイミングで腹の音が鳴るなんて。
「お腹空いてるならそう言えばいいのに」
「空いてませんよ!……空いてませんよ」
「厨房に行って何か食べれる物ないか聞いてこようか?」
「ノーセンキューです。私そんなに食い意地はってませんから!」
こんな所で食いしん坊キャラにされるのはゴメンだ。正直に言って、先程の腹の音ではっきりと空腹を意識してしまったが、ここは根性で我慢だ。
店長は突き出された私の片手の平から瀬川君に視線を移すと、こう尋ねた。
「リッ君はお腹空いてない?」
「空いてるといえば空いてます」
「じゃあ僕厨房行ってくるよ」
店長はソファーから立ち上がった。瀬川君は「寄り道しないで戻ってきてくださいよ」と平坦な声で念を押す。
「りょーかい。二人共おとなしく留守番しててね」
店長はひらひらと片手を振ると、さっさと出て行ってしまった。部屋には私と瀬川君だけが残される。
「…………」
「…………」
一、二分沈黙が続いた後、私は読書中の瀬川君にそっと声をかけた。
「あのさ瀬川君、お腹空いてる?」
「空いてないといえば空いてない」
その答えを聞いて、瀬川君って表情読めないけど気は遣えるんだなと思った。
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