遺産の行方




廊下を歩きながら気になっていたことを隣の店長に尋ねた。

「店長、何で料理長から聞きに行くんですか?もっと使用人をまとめてる人とかじゃなくてもいいんですか?」

「拓海さんが"噂好きの料理長"って言い方してたから、この人からの方がいいかなと思って」

そう言われてみればそんな風な言い方をしていた気がする。噂好きだったら三千院家の人間関係を詳しく知っていそうだ。まぁそういうゴシップの場合、情報の真偽の判断には気を使わなければならないが。

階段を下り、長い廊下を歩く。両隣に並ぶドアの向こうにはたくさんの人がいるはずなのに、不思議な静けさに包まれていた。耳を澄ますと、ぼそぼそとした会話が聞こえる。みんな怖いのだ。早く犯人を捕まえないと。

三千院さんの部屋の前を通るとき、私はそっとそのドアに目を向けた。三千院さんはまだ部屋の中でそのままの状態にされている。

廊下を仕切るドアを開ける。真っ直ぐの玄関ホールには行かず、すぐに左の両開き扉を押す。そこは小さな階段室だった。玄関ホールにあった階段の半分ほどのサイズのものが二階に伸びていた。おそらく二階の客室に料理を運ぶために、使用人が使う階段なのだろう。右手には食堂へ続くドアがあった。

階段室に入って目の前のスライドドアが配膳室だ。中から話し声が聞こえる。どうやら人がいるようだ。私はさっそくスライドドアの取っ手を掴んだ。

「……どうしたんですか?」

しかし店長がその手の上に自分の手を置いてそれを制止する。不思議に思って振り返ると、彼は人差し指を立てて静かにしろと合図をした。言われた通り黙っていると、配膳室の会話が聞き取れるようになってきた。

「でさ、私は明日の朝食何がいいかって景子様の部屋まで聞きに行ったわけよ。だってあの人ちょっとでも自分の気に入らないもの出すとものすごく怒るものね。この前なんてスクランブルエッグにこれは今日の私の気分じゃない!なんて。あんたのその日の気分なんてこっちは知ったこっちゃないのに」

と、少し野太い女性の声。

「で?部屋まで行って何を聞いたのよ?焦らさずに教えなさいよ」

相手の女性はキンキンと甲高い声をしている。

「ああそうだったね。で、朝食を聞きに部屋まで行ったんだけど、何か中で話してるみたいだからちょっと聞き耳立ててみたのよ。今入ってもいいかちゃんと確かめないといけないからね」

「よく言うわ」

「そしたらね、どうも幸一様と話してるみたいで。声も緊張した感じだったし、あ、これ私入ったらダメなやつだな、と思って」

「で?あんたはどうしたの?」

「どうも私には気付いていないみたいだから、そのまま立ち聞きしてやったのよ!ここであのオバサンの弱みでも握れれば儲け物でしょう?」

「その通りだわ!」

若い声の方はひとしきり笑うと、野太い声の方に話の続きを急かした。

「それで何を聞いたかっていうとね。驚くんじゃないよ」

「何何?早く言いなさいよ」

「遺産をね、全部四乃様にやるって言うんだよ!そっくりそのまま!」

「全部!?いったいいくらになるのよ!?」

「それを幸一様に言ってやったのよ景子様は。幸一様ったら情けない声で考え直してくれって」

「ま、何て意地悪なおばさん!」

「何でも今日の九時の親族会議で他のご子息様方にも発表するつもりだったみたいだけど。正式な遺言書をその時作って、みんなの目の前でサインをするって。でも当の景子様があんなことになっちゃあねぇ」

「罰が下ったのよ!あの意地悪ばばあ!」

と、ここで弱々しい男性の声が二人の会話に割って入った。同時にカチャカチャという音がなくなったのを考えると、どうやら皿洗いをしながら黙って二人の話を聞いていたらしい。

「そんなこと言っちゃいけないよ……。三千院様は僕らにとてもよくしてくださったじゃないか」

「あんたがそれを言えたクチ?あんたと明石さんが一番よく怒鳴られてたじゃない。ああ、あとあの太ったオバサン!」

「違うよ、それは僕がしようもないミスを何度もするから……」

「この間だって酷かったじゃない。あんたがカーペットに躓いてさ」

「ああ、私もその話聞きたいよ。お客さんの頭に紅茶ぶちまけたんだって?」

「違うわよ、景子様のシフォンケーキを紅茶漬けにしたのよ。それでお客さんの目の前でこっぴどく叱られたってわけ!」

「僕が悪いんだよ。あんな失敗みんなしないのに、怒られて当然だよ」

ここで甲高い声の女性がため息をつく。

「だったらあんたと同じくらい怒られてる明石さんも、あの子が悪いってわけ?」

「それは違うよ!彼女は悪くないよ。彼女はとても真面目で……」

「はいはい、真面目で素朴で存在感のないね!」

「私前から思ってたんだけど、あんたら付き合ってるんでしょ。ね、もうここらで認めなよ」

「ち、違うよ……」

テーブルに手の平を打ち付けた、バンッという音が鳴る。

「違う違うってあんたそれしか言えないの!?もっとマシなこと言ってみなさいよ!」

私はこの後の展開に集中して耳を澄ましたが、背後の店長がスッと動いたのが見えて意識を持っていかれた。店長はすぐ後ろの階段室のドアをわざと大きな音をたてて閉めると、配膳室のドアをノックした。中から少し上ずった返事が聞こえる。

「今日の事件のことで話聞きたいんだけど今いい?」

私達が配膳室に入ると、がっしりした長身の女性がコンロの前でこちらを振り返った。服装的に彼女はコックだろう。彼女は店長の姿を上から下まで眺めて、また下から上まで眺めた。どうやら私の存在など視界に入っていないようだ。

部屋の中には他に二人の人間がいて、二十代後半の執事が袖を捲って皿洗いをしていて、彼と同い年くらいのメイドが食器をふきんで拭いていた。二人も店長の顔に注目している。そりゃあ存在感で比べたら私がかき消えてしまうのは理解できるが、ちょっとくらいこっちも見てくれてもいいのではないか?

「ええどうぞ、何でも聞いてくださいな。と言っても、私達に話せることは少ないと思いますが」

「知ってることだけ答えてもらえれば十分だよ」

コックのにっこりとした作り笑いに、店長も営業スマイルで答えた。このコックは四十代前半くらいだろうか。いかにもボス猿っぽい雰囲気だ。

「じゃあまず、犯行時刻だと思われる午後三時から四時の間に、何か怪しいものを見たり聞いたりしなかった?」

店長はコックにそう質問をすると、若いメイドと執事に「よかったら君達も考えてほしいんだけど」と声をかけた。二人は手を止めてこちらを向く。メイドは興味津々な、執事は不安そうな表情をしていた。

「その時間はデザートを作るのに大忙しだったからね。何も見ちゃいないよ。私を含めてコックは三人いるけど、みんなお手洗いに行く暇もなかったさ」

「そっか。そっちの二人は?」

店長が目を向けると、メイドは高い声を更に高くして答えた。

「私は給仕で屋敷内をうろうろしていたけど、とくに何も見ていないわ。お皿を下げたり料理を出したり……とにかく忙しくって!細かいことを気にしている余裕もなかったのよ」

「こんなにたくさんお客さんがいるんなら仕方ないね。そっちの君は?」

「ぼ、僕は……。まだ新人で、あんまり任せてもらえる仕事がないので、客室のベッドメイキングをしていました。その時、二葉様がご主人の部屋から出て行かれるのを見ました」

「それは何時頃?」

「あれは二一五号室を終えたところでしたので……。三時半頃だと思います。四時にはなっていなかったはずです。その……、二葉様はひどく慌てているようでしたけれど」

私は自分の表情が変わっていないか気になった。彼の証言にとても驚いたのだ。しかし相手がシロだと確定していない今、それを悟られるわけにはいかない。

私は執事の証言をもう一度頭の中で繰り返した。確か二葉さんは三千院さんの部屋には行っていないと言ったはずだ。彼女は嘘をついたのか。

店長は先程までと変わらない調子で執事に質問をした。

「何で二葉さんは慌ててると思った?」

「それは、僕には何とも……」

「正直言うと?」

「ほ、本当のことを言いますと、ご主人に何か言われたのではと思いました。ご主人は時々……特に遺産のこととなると、ひどい癇癪をお起こしになることがありましたから……」

「その時二葉さんを見たのは君だけ?」

「はい。ですが、そのあとすぐにメイドの明石さんにその話をしました。彼女は僕と共にベッドメイキングをしていたのです」

店長はなるほど、とでも言うように頷いてみせた。

「ありがとう、君の話は参考になったよ。ちなみに、君名前は?」

「あ、藤圭佑です」

一つ目の質問が終わると、店長は次の質問をした。

「三千院さんに恨みを持っている人間を誰か知らない?もしくは三千院さんが死ぬと得をする人とか」

若いメイドが真っ先に口を開く。

「それなら三千流様ね。あの人いつもお金に困っていたもの。でも私に言わせると、ご子息様方は全員怪しいわ」

「というと?」

「ご主人が死ぬと莫大な遺産が手に入るんだもの。当然でしょ?」

その言葉に、店長は「そうだね」とだけ返した。次に口を開いたのは大柄な女コックだ。

「まぁ金銭面でならご子息様が怪しいけど、恨みという点でならメイドの七窪って子が怪しいよ」

「何で?」

「あの子、盗みやらかしたんだよ。こぉんな大きな宝石がついたご主人の指輪をね」

コックは指で円を作ってみせた。なるほど、誇張分を差し引いたとしてもかなり大きな宝石だ。

「それは何でバレたの?」

「ご主人が宝石の管理をちゃんとしてたのさ。抜目ない人だよあの人は。それでその日ご主人の部屋を掃除した七窪さんが怪しいって言って実際に部屋を調べたら、これがびっくり、その子の部屋からコロッと指輪が出てきたのさ」

「正確に言うと、部屋のどこから見つかったの?」

「ドレッサーの引き出しの中だよ。ご主人が部屋を調べる様子を七窪さんは自信満々で見てたんだけどね、あんなとこに入れといたらそりゃあ見つかるさ」

だんだん饒舌になってきたコックの話に、執事の藤さんが水を差した。彼は弱々しい声で女コックに反論する。

「で、でも、七窪さんは自分はやってないって言ってたじゃないですか……。濡れ衣だって」

その言葉をコックは鼻で笑う。小柄な執事は更に身体を小さくした。

「そりゃそう言うに決まってるさ。他に何て言い訳するんだい?」

メイドもコックに同意する。

「実際にあのオバサンの部屋から指輪が出てきたんだから。あのオバサンが犯人に決まってるでしょ?」

二人に頭を押さえ付けられて、藤さんは何も言えなくなった。店長は七窪さんの濡れ衣発言には触れずに、三人にこう質問した。

「その指輪の事件はどれくらい前に起きたの?」

「さぁ、一ヶ月くらい前だったと思うけど」

これに答えたのはメイド。他の二人もその証言に同意した。

「三千院さんが指輪がないことに気付いてから七窪さんの部屋に行くまでどれくらいだった?」

「そこまでは……」

「僕、覚えてます。僕が二部屋分のベッドメイキングをする間だったので、たぶん三十分くらいだったはずです」

「なるほど。じゃあ最後に、それって平日だった?休日だった?」

これにはコックが胸を張って答えた。

「休日だったよ。日曜日だ。間違いない。私は夕食のチキンが人数分あるか数えていたからね」

「なるほど、よくわかったよ」

店長はそう言うと、隣の私を見て言った。

「雅美ちゃんは何か聞いておきたいことある?」

親族に対してだけでなく、ここでも私の質問コーナーがあるのか。しかし私はすでに一つの質問を用意していた。私は三人の中で、特に執事の藤さんに対して尋ねた。

「ええと……、誰かハンカチを預かってませんか?三千院さんのデザインしたマークが刺繍されている」

私の問いに、三人は首を振った。私が「そうですか……」と残念そうに呟くと、藤さんが他の執事にも聞いておくと申し出てくれた。

「もう聞くことはないから僕らは行くよ。忙しとこ邪魔してごめんね」

「いいんだよそんなの。洗い物が多いだけなんだから、調度いい休憩になったよ」

「また聞きたいことがあったら声かけてくださいな」

女コックの言葉に、私は内心でよく言うよと呆れた。さっきまでだってお喋りばっかりしていて、皿洗いは藤さんしかしていなかったじゃないか。

藤さんはペコリと頭を下げて私達を見送った。店長が配膳室を出たので、私もそれに続く。しかし店長は廊下には出ようとせず、スライドドアの前で立ち止まった。先程と同様人差し指を口の前に持ってくる。立ち聞きしようという意図を理解した。

しばらく待っていると、意外にも最初に口を開いたのは藤さんだった。私はドアに耳を押し付ける。

「どうしてさっきの遺産の話をしなかったんですか?知っていることは全部話さないと」

これに答えたのはキンキン高い声のメイドだ。

「だって聞かれなかったし」

「聞かれるわけないじゃないですか!探偵の人達が知らないことを僕らが話すんですよ」

「ていうか正直言って、私ご主人を殺した犯人とかどうでもいいし」

「そうだよ、どうせお金に汚い三千流様か遺産が欲しい由香里さんか、そのあたりの人に決まってるさ」

「でも犯人を見つけてくれるって言っているんだから、できる限り協力しないと……」

「何で警察でもない人達に協力しないといけないんだい」

「探偵ごときに喋ろうが喋るまいが私達の自由でしょ」

ここで藤さんは少し黙ったが、すぐにこう言った。

「じゃあ今から追いかけて僕が言ってきます。それなら文句ありませんよね」

彼の決心に、女性二人は笑い声を上げた。

「今更言ったってあんたが疑われるだけだよ!」

「そうよ、何でさっき話してくれなかったんだって言われるに決まってるじゃない」

「そんな……」

ドアと同化しそうなくらい耳を押し付けていた私の肩に、ぽんと手が乗った。店長は私をドアから引っぺがすと、勢いよくドアを開けた。

「ごめん、さっき聞き忘れたんだけど、その七窪ってメイド今どこにいるのかな?」

突然現れた私達に三人は表情を固めた。他の二人より一瞬早く自分を取り戻した女コックは、取り繕った笑顔で答えた。

「さ、さあ、パーティー会場の片付けじゃないかい。まだまだたくさん料理が残っているだろうから」

その隣でメイドが何度も頷いた。執事は何か言いたそうにもじもじしていたが、結局何も言わなかった。

「そっか、行ってみるよ。ありがとね」

店長も遺産のことは特に追及せずに配膳室を出た。こんな盗み聞きしていたことをわざわざバラすようなことをしてよかったのだろうか。彼らの私達にたいする信頼が失われるような気がするのだが。

「あの人達がお喋りで助かったね。でも興味本位で隠し事されると困るよねぇ」

階段室のドアが完全に閉まるなり店長はそう言った。私はそれに同意する。

「とりあえず七窪さんのところ行こっか」

「はい。確かパーティー会場でしたよね」

という会話をしたものの、私達はすぐに足を止めることになる。左手の客室に続くドアが開いて、拓海さんが出てきたのだ。彼は廊下を小走りでこちらに近づいてきた。

「探偵さん、こんなところにいたんですね」

「何か用?」

歩き出しかけていた足を止め、私達は拓海さんに向き直った。彼は私達の前まで来て一息つくと、声を潜めた。

「実は、この事件を解く助けになるかはわかりませんけれど、僕見てしまったんです」

「何を?」

「四乃ちゃんのスカートです」

拓海さんは辺りを窺うように視線を動かし、さらに小声になって言った。

「四乃ちゃんのスカートの、この辺に……」

彼は自分の右膝の少し外側にズレたヵ所を手で指し示した。

「血がついていたんです。黒いスカートなので目を凝らさなければわからないんですけど」

「それはいつどこで見つけたの?」

「さっき廊下でです。四乃ちゃんとすれ違ったんです。二階の廊下で」

「四乃ちゃんは廊下で何してたの?一人だった?」

「ええ、一人でした。何をするでもなくただ立っていましたよ。僕はトイレに行った帰りだったんですけど」

拓海さんのつむじを見下ろしながら、店長は口の中で「なるほど」と唱えた。すぐに次の質問を投げ掛ける。

「つまり君は、廊下に一人でいた四乃ちゃんのスカートをわざわざじっくり眺めて血がついているのを発見したんだね?」

「違いますよ、照明の加減でたまたまそのシミを見つけたんですよ。光が当たって、そこだけ布の様子が違うのがわかったんです」

拓海さんは先程よりも若干早口で答えた。

「とにかく、すぐに探偵さん達に言わなければならないと思って」

「それなら辻褄が合ってるね。教えにきてくれてありがとう。すぐにでも四乃ちゃんのところに行ってくるよ」

「お役に立てたみたいでよかったです。では僕は部屋に戻ります。二葉が待っているので」

拓海さんは会釈をすると、早足でドアの向こうに消えて行った。彼の姿が見えなくなると、店長は少しだけ後ろにいた私を振り返る。

「今の話どう思う?」

「おかしいですよね。三千院さんの死後四乃さんは部屋に入っていないはずなのに……」

「そうだね。予定を変更して四乃ちゃんの方を先に済ませようか。二葉さんにも話聞きに行かなきゃならないのに……やること増えてきたね」

私と店長は当初の予定とは逆方向に廊下を歩き始めた。客室との間にあるドアをくぐり、等間隔で並ぶドアの間を進む。廊下を折れて階段を上り二階へ。私達はすぐに四乃さんの姿を見つけることができた。彼女は自分の部屋の前に突っ立っていたのだ。

「四乃ちゃん、こんなところで何してるの?」

「えっ……あ、あの……」

私達が近づいてくるところが四乃さんには見えていたはずだが、彼女はうろたえて視線をさ迷わせた。私は一歩前に出る。

「こんなところにいると危ないですよ。屋敷の中には殺人犯がいるんですから」

そう諭すと、四乃さんは手に握っていた白っぽいものを差し出した。それは長方形のメモ帳だった。

「実は、これが……」

「これは?」

私は四乃さんの手からメモを受け取る。店長も私の肩口から文面を覗き込んだ。そこには新聞の切り抜きを貼り合わせて【本日二十三時半自室前で待て】と書いてあった。

「これ、脅迫文……?ではないか」

「何でこんな手紙の言う通りにしてるの。ちゃんと部屋にいてって言ったでしょ」

「す、すみません……。でも、この場所なら見通しもいいですし……」

四乃さんは「何かあっても叫べば誰かが様子を見に来てくれるでしょうから」と付け加えた。

新聞の文字を切り抜いて手紙を作るなんて、その外見から一瞬脅迫文という言葉が頭に浮かんだが、何も脅迫されていないのだからそれとはまた少し違うのだろう。

店長が呆れ顔から気を取り直して尋ねた。

「で、これは誰にもらったの?」

「それが……部屋のドアをノックされて見てみたらドアの下の隙間からこれが差し込まれていて」

「その時何か聞かなかった?足音とか」

「足音は聞きました。あとそこのドアを開けて閉める音が」

四乃さんはすぐそこのドアを指差した。それは屋敷と客室を区別するためのドアだ。一階の同じ場所にあるドアを先程私達も通ったばかりだ。

「つまり、四乃さんの部屋に手紙を入れてすぐ犯人はあのドアから屋敷の方に逃げたってことですね」

四乃さんの部屋からドアまでは五メートルもない。四乃さんは手紙に気を取られているだろうし、見つからないうちに逃げることは簡単だろう。

「そういえばもう十二時だけど、四乃ちゃんはもう三十分もここに突っ立ってるの?」

四乃さんは小さく頷き、「さすがにそろそろ部屋へ戻ろうとは思いましたが……」と言った。

「結局誰も来なかったんだね?」

「はい。この三十分であったことと言えば、拓海さんが出て行ってすぐに戻ってきたのと、三千流兄様と絵里香さんが出て行っただけです」

「三千流さん達どこに行ったんですかね?」

「さあ……。兄様達はじっとしているのが苦手なので……」

こんな時に屋敷の中をうろうろしないでほしい。あの二人はほとんどシロと決まっているからいいものの……。

「とりあえずそれ預かっててもいい?」

「はい」

「じゃあなるべくもう部屋から出ないようにね。部屋から出る時はベルを鳴らしてメイドを呼ぶこと」

「はい」

店長は四乃さんから手紙を受け取ると、彼女の部屋のドアを開けた。四乃さんは素直に返事をしたが、やはり少し不思議そうな顔をしていた。おそらく私も同じ顔をしている。四乃さんは一歩部屋に入って振り返った。

「あの、犯人は見つかりそうですか……?」

四乃さんとバッチリと目が合った。私はその瞳の中に不安の色を見た。そっか、四乃さん不安なんだ。当たり前だ。殺人犯の潜む屋敷に一人ぼっちなんだから。その殺人犯が自分の兄弟なのかもしれないのだから。

私が「えっと……」と口ごもっていると、店長が軽い調子で「残念だけどまだまだかな」と言った。

「そうですか……。私、今日はもう寝ます。おやすみなさい」

私と店長が「おやすみ」と返すと、四乃さんはドアを閉めた。私と店長はすぐそこのドアを通って屋敷へ足を踏み入れた。今度こそメイドの七窪さんのところへ向かうのだ。

「店長、何で四乃さんにだけあんなにくどく部屋にいるように言うんですか?」

玄関ホールから階段室へ行く途中、私は周りに人がいないことを確認して尋ねた。

「何でって、もし次に殺人があるとしたら殺されるのは四乃ちゃんだからだよ」

「な、ど、どうしてですか?」

「遺言書は未完成ってことになってるけど、念のためってこともあるからね。金銭面での三千院さんの用心深さを知らないわけじゃないだろうし」

店長は「まぁあの兄弟達がどこまで配分のこと知ってるかわかんないけど」と言いながら、パーティー会場の両開き扉を開けた。この話はここで終了だという意思が読み取れた。

人のいないパーティー会場は広かった。ダンスの準備で部屋の真ん中は大きく開けられていたが、部屋の端にところどころ料理の乗ったテーブルがあった。そのテーブルの一つにメイド服を着た恰幅のいい女性がいて、彼女はびっくりした顔でこちらを振り返った。彼女の手には骨つきチキンが握られており、口の回りは油とソースでギトギトだった。

「あ、あら、お客さん、ここは立入禁止ですよ、ええ」

彼女は慌ててチキンを皿へ放ると、手元にあった台拭きで口元を拭った。店長は一瞬何ともいえない顔で私を見たが、気を取り直すとメイドの方に近づいて行った。どうやらスルーすることに決めたらしい。

「七窪さんだよね?僕らこの事件の調査をしてるんだけど……條島さんから聞いてない?」 

「あ、ああ、あなた達がね。ええ、もちろん聞いています。私に何か用ですか?」

七窪さんは口を拭いた台拭きでしきりに手を拭っていた。客の残した料理をつまみ食いしていたところを見られたのが恥ずかしいのか、顔を少し赤くしていた。

「事件のことでみんなに聞いて回ってるんだけど、何か怪しい人や物を見なかった?三時から四時の間なんだけど」

「その時間は厨房を手伝っていましたが何も……。ああそういえば、トイレに行った時に幸一様と三千流様に会いましたよ。それだけです」

「どこで会ったの?」

「三千流様はトイレから出て来る所ですれ違いました。幸一様はトイレの洗面所で手を洗っていました。ほんとの所、使用人は裏のトイレを使わなくちゃいけないから、幸一様に見られてバツが悪くて。だって裏のトイレって遠いんですもの。幸一様は黙っててくれたのかが気掛かりで。まぁ、今となってはどうでもいいことですけどね」

「三千院さんが死んでどう思う?」

「心臓か肺か、どこか忘れましたけれど、もう長くないって聞いてたんで、それが今日になっただけですよ。それに、あんなに意地の悪いばあさんは長生きするもんじゃありません。ああでも、だからといって私が殺したってわけじゃありませんよ」

「七窪さんは前に三千院さんの指輪を盗んで怒られたことがあるって聞いたけど、これって本当?」

「まあ!まあ!誰がそんなこと言ったの!さてはあの料理女ですね!あのカバみたいな怪物が、私の悪口を言ったんですね!それかあの口裂け女みたいなメイドが!」

七窪さんは先程とは違う理由で顔を真っ赤にして憤慨した。彼女はその肉付きのよい足で二、三回じだんだを踏んだ。

「じゃあ指輪を盗んだっていうのはやっぱり嘘なんだね?」

店長が「やっぱり」の部分を強調して言うと、七窪さんは少し落ち着いた。それでもまだ鼻息は荒く、店長がこっそりと一歩下がった程だった。

「ええもちろん嘘ですとも!探偵さん、あなたがそんな出鱈目信じていなくてよかったですよ!」

「じゃあ事の顛末を教えてくれる?」

「ええいいですとも。私はその日主人が昼食をとっている間に、彼女の部屋を掃除したんです。この掃除は当番制で、その日はたまたま私の担当だったのです。日曜日でした。主人が昼食から戻ってしばらくすると、指輪がないって騒ぎはじめたんです。赤い大きなルビーがついた指輪です。二、三十分して主人が私を捕まえて言うんですよ。お前が盗んだんだろって。私はその時洗濯をしていたのですが、突然のことで何のこっちゃわからなくて。主人の後ろにいた三千流様の説明でようやく事情が理解できたのです。私がそんな指輪は知らないと正直に申しますと、主人はならお前の部屋を隅から隅まで探すぞとおっしゃられて。私はそれに怯まずにええどうぞ、ひっくり返してご主人の気の済むまでくまなく探してくださいと言ってやったのです」

「それで?指輪は出て来なかったの?」

「それが出てきたのですよ!私の化粧台の引き出しの中から!私は主人が私の部屋を引っ掻き回す様子をドアの横で見ていたのですけども、悲鳴を上げて倒れそうになってしまいましたよ!」

「指輪は出てきたけど、七窪さんはやってないんだね?」

「ええもちろんですとも!まさか、探偵さんも私がやったって言うんじゃないでしょうね。私じゃあありませんよ!誰かが私を陥れるために私の引き出しに指輪を入れておいたんです!使用人の部屋には鍵などついてませんから簡単にできるんです!」

「うん、わかってるよ、君が無実だってことは」

詰め寄る七窪さんを店長はやんわりと手で押し退けた。

「じゃあ最後の質問だけど、三時から四時の間厨房には君の他に誰がいた?」

「料理女とコックの中村さんと立木さん、それから配膳で執事とメイドが何人も行ったり来たり。コック達は慣れないデザート作りにあたふたしてたよ。だからパティシエを連れて来いって言ってるのに」

「そっか。貴重な話をありがとう。最後に雅美ちゃん、何か聞いておきたいことある?」

店長が話を切り上げにかかった。店長は一歩下がると代わりに私を前に押し出した。七窪さんは今初めて私の存在に気付いたという顔で、私を見下ろした。

「え、じゃあ、ええと……」

私は必死に考えを巡らせる。七窪さんの目の中から「早くしなさいよ」というイラつきを受け取った。

「じゃあ、あの、七窪さんは犯人は誰だと思いますか?」

「そんなの私が知るわけいでしょ」

「で、ですよね……」

「でもまぁ怪しいといえばみんな怪しいんじゃない。なにせあのばあさんたんまり溜め込んでたみたいだからね。私達使用人にもそれなりにまとまったお金が入るはずだよ」

私と店長は七窪さんにお礼を言ってパーティー会場を出た。階段を下りている最中、店長が「疲れた」と呟いたが、私はそれに対して何も言わなかった。

私達は次にメイドの明石さんのところへ行くことにした。明石さんの居場所がわからなかったので、配膳室と隣り合わせの階段室の前の廊下で見かけた執事の藤さんに尋ねた。彼は汚れた皿がこんもり乗った台車を止めると、おそらく他の使用人達と使用人用の宿にいると思いますと丁寧に教えてくれた。

使用人達の宿は、玄関ホール横の階段室の裏手にあるドアから出て真っすぐのところにあった。ドアを開けると薄っぺらい数段の階段。その二メートル程先に四角い簡素な建物がある。これが宿だ。宿までの数メートルにはちゃんと屋根がついているが、この台風ではあまり意味がなかった。私と店長はなるべく雨に濡れないように屋根の下を駆けた。

ドアを開けて中に入ると、テーブルと木の椅子、小さな台所と必要最低限のものしか入っていない食器棚が置いてある部屋が現れた。部屋の真ん中にあるテーブルに座っている二人の人物がこちらを振り返った。

両隣に薄っぺらいドアがいくつかある。おそらく使用人が寝泊まりするだけのための小さな部屋があるのだろう。部屋の数が足りていないように見える。もしかしたら何人かで雑魚寝状態なのかもしれない。

こちらを向いたまま数秒固まっていた二人だが、若い方のメイドが強張った声を出した。

「どちら様ですか。ここは使用人の宿です。どうぞお引き取りください」

「僕ら今回の事件を調査してるんだけど、條島さんに聞いてない?」

「ああ、あなた方が!」

メイド服を着た二人の女性は、険しさを引っ込めて安堵した。私と店長は部屋の中へ進んだ。どうやらここも土足のようだ。

「今お茶をお淹れしますね。こちらにどうぞ」

若い方のメイドは私達に椅子を勧めると、台所に紅茶を淹れに行った。カップがカチャカチャと鳴る音を聞きながら、私達はもう一人のメイドと対面する。

「今ここには君達しかいないの?できるだけたくさんの人から話を聞きたいんだけど」

「奥の部屋に庭師と二人の料理人がいます。ですが、庭師の大東さんは気難しい方ですので、直接彼の部屋に伺った方がよろしいかもしれません」

メイドはテーブルの上のトランプを片付けながら答えた。彼女は二十代後半で、肩口まで伸ばした黒髪をきれいに三角巾の中に入れている。薄化粧で、頬のそばかすがチャーミングだった。

「ついでに君は何て名前なの?」

「私ですか?明石でございます」

明石さんは箱にしまったトランプをテーブルの端に寄せた。若い方のメイドが盆に紅茶を乗せて戻ってきた。

「砂糖が必要でしたら言ってください」

私も店長も必要ないと答えた。彼女は明石さんの隣のに腰を下ろした。

「さ、何だって聞いてくださいな。とは言っても、私達に話せることはほとんどないと思いますが」

「じゃあとりあえず、君の名前は?」

「私は三雲です。あと二人浜松と七窪というメイドがいますが、浜松はメイド頭です」

「手っ取り早く本題に入るけど、犯行時刻の三時から四時、何か怪しいものを見なかった?」

「その時間は料理を運ぶために厨房と会場を行ったり来たりしてました。なので主人の部屋の様子はわからなかったのです。あそこはドアで仕切られていますから」

「明石さんは?」

「私自身は何も見ていないのですが……執事の藤さんが……あ、私、藤さんと客室のベッドをしつらえていたのですけれど、その時藤さんが、二葉様がご主人の部屋から慌てて出て行くのを見たと言っていました」

「それ何時か覚えててる?」

「さあ、三時半頃だったように思いますが、正確なことは何とも……」

「ありがとう、十分だよ」

私はタイミングを見計らって口を開いた。

「客室の準備はいつも明石さんと藤さんがするんですか?」

「いいえ、いつもは私一人でございます。今日はしつらえる部屋の数が多かったから、藤さんに手伝っていただいたの」

一つ目の質問が終わり、店長は二つ目の質問をした。

「正直に言ってこの人が怪しい、とかはない?この人なら動機がありそうとか」

その質問には、答えるまでしばらくの間があった。先に口を開いたのは明石さんだった。

「私、こう言っては何ですが、犯人は拓海様のような気がしてならないのです」

「と言うと?」

「他の方はそうはおっしゃらないのですが、拓海様は何というか……何を考えているかわからないと言いますか、とにかくお気持ちが読めないのでございます」

「君はいい感性を持ってるね。でも拓海さんの考えてることって割と単純だよ」

「あなたにはあの方の考えがお分かりなのですか?」

「拓海さんはお金のことしか考えてないよ」

「まあ!」

明石さんが先に話したので、三雲さんにも勇気がわいたようだ。三雲さんは口を開いた。

「私は由香里さんだと思います。だってあの人、お金がもらえないとなったら……」

「どうしてお金がもらえないと思ったの?」

「それは、ええと……。私の口から言ってしまってもいいものか……」

「いいから話してみて」

三雲さんはまだ少し迷っていたが、決心したようだった。

「そうですよね、ご主人は死んでしまったのですし……。私、本当のことを言うことにいたします。あれは一昨日の夜のことでした。九時頃です。私は客室の準備をしに二〇三号室へ向かっていたのです。翌朝早くには二葉様方が来られますから。そこでご主人の部屋の前を通った時に、話し声が聞こえて」

「話し声が聞こえて?」

「恥ずかしい話ですけれど私、立ち聞きしてしまったのです。いえ、しっかりとドアに耳をくっつけていたわけですから、盗み聞きと言った方が正確なのでしょうね。何故だか私、その時はそうしなくちゃならないような気がして。いつもはこんなことしないんですけれど」

「それで、君は何を聞いたの?」

「ええ、部屋の中にはご主人と幸一様がいるようでした。お二人が遺産の話をしているのだとすぐにわかりまして。そのうち、ご主人が遺産は全部次女の四乃様にやると言われて。もちろん幸一様は何か言い返しましたけれど、ご主人は聞く耳は持ちませんでした。もう決まったことだからと。それで今日の……二十一日の夜九時に他のお子様方にもお話になると。正式な遺言書もこの時皆様の前でお作りになると言っていました」

「なるほど」

「それで私、お部屋の準備もほったらかして料理長のところへ行ってしまったのです。聞いたばかりの話をそのまますっかり話してしまって。あの時はびっくりして、すぐに誰かに話してしまわないとと思ったのですが……今考えると、料理長は失敗でした。あの人が他の人に喋らないわけがないもの。そうしたら私!私が盗み聞きしたことがバレてしまいます!いつもはこんなことしないんですよ、本当に」

「それは大丈夫だと思うよ」

店長の言葉にメイド二人は首を傾げたが、私にだけはその意味がわかった。料理長はまるで自分がこの話を聞いたかのように話していた。三雲さんの盗み聞きの罪は、料理長が勝手に被ってくれたのだ。

「とにかく、そのせいで由香里さんが犯人ではないかと思ったのです。私の勘ですが、あの人はお金目当てで幸一様と結婚なされたような気がして……」

「まあ!そんな風には見えませんけれど」

と明石さん。

「あなたには女の勘というものが足りてないのだわ」

私は二人のこの会話に絵里香さんとの会話を思い出して少し眉をひそめた。

「幸一様に遺産が入らないのなら、由香里さんが嫁いだ意味はありませんから」

「でも今日の九時までに三千院さんが死ねば由香里さんにもお金が入るし、実際その通りになったわけだね」

三雲さんは頷いた。店長は椅子から立ち上がって言った。

「次は庭師にも話を聞きたいんだけど」

「ご案内しますわ」

三雲さんは立ち上がると、ドアの一つに近づいた。私達もそれについて行く。三雲さんはドアをノックすると、声を少し高くして言った。

「大東さん?探偵の方々がお話したいんですって。開けてもいいかしら?」

部屋の中から低い唸り声のような返事が返ってきた。三雲さんは一度店長と私の顔に目を向けると、ドアを開けた。




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