何も分からぬプロローグ3
三月二十一日、土曜日。天気は雨。どうやら台風が近づいているらしい。現在時刻は七時二十五分。朱雀店の来客用のソファーに座った私は、鏡を見て目を輝かせていた。
「すごい!どうやってやったんですか!」
「別に難しいことはしてないよ。本当は友達の美容師呼ぼうと思ったんだけど雨で来れないって。ごめんね」
「いえ、十分です!」
今日は三千院さんのバースデーパーティーの日。張り切って指定の時間より少し早く来た私は、店長にクリーニングされたドレスをわたされ、着替えたと思ったらソファーに座らされ、あっという間に髪を飾り付けられた。私が気にしていた天然パーマがオシャレ巻き髪になって、かわいい髪飾りが付けられている。
「それにしても雨だとさらにくるくるになるね雅美ちゃんの髪」
「言わないでくださいよ気にしてるんですから」
と答えつつも鏡で髪型をチェックしていると、ガラガラと引き戸が開いて瀬川君がやって来た。
「ちょっとリッ君何でそんなに濡れてるの」
「自転車ですよ。濡れない方がおかしいでしょう」
それを聞いて私はひっそりと顔を覆った。思いの外大雨だったから店長に迎えに来てくださいと連絡して、車で来た自分が恥ずかしい。だってせっかく化粧頑張ったのに落ちちゃうと残念じゃん。店長もなんだかんだ言いながら迎えに来てくれるし。
「着替える前に髪乾かした方がいいね。そこ座って」
店長が私の横を指差したので、私は隣のソファーに移動した。瀬川君がソファーに座ると、店長はブラシとドライヤーで髪を乾かし始めた。
「瀬川君これ使って」
私は鞄からハンカチを取り出すと瀬川君に差し出した。この大雨の中を自転車で来たせいで全身ずぶ濡れだ。
「悪いよ」
「いいからいいから」
私は半ば無理矢理瀬川君にハンカチを握らせる。そのハンカチは元々、大雨なのを見て持ってきたものなので、彼が使うのが一番目的に見合っている。瀬川君は「ありがとう」と言って服を拭きはじめた。
「よし、リッ君着替えて来て」
髪の毛が乾くと、店長は紙袋から取り出した服を瀬川君に押し付けた。丁寧にブローされた髪の毛はさらさらでかなり羨ましかった。というか、髪の毛おろした瀬川君初めて見たけど本当に髪長いな。切らない理由を聞いたことはないが、伸ばしているのだろうか。私も女子力上げるために髪伸ばした方がいいかな。
「やっぱり瀬川君乗り気じゃないですね」
瀬川君が店の奥へ消えたのを確認して、私は店長に言う。店長はちょっと苦笑いを浮かべた。
「リッ君はこういうの好きじゃないからねー」
「私は店長もそうだと思ってたんですけど」
瀬川君がこういうパーティーや祭事があまり好きじゃないのは、彼の性格から簡単に想像がつく。今日時間ぎりぎりに来たのも乗り気じゃない証拠だろう。それよりも、店長がけっこう乗り気なのは意外だった。祭とかは好きそうだけど、パーティーのような堅苦しいのは嫌いっぽいのに。
「三千院さんのじゃなきゃ僕も行かなかったと思う」
「?どういう意味ですか?」
「あ、ちょっと待って電話」
テーブルの上に乗っていた店長のスマホが着信音を鳴らす。ちょうど私の目の前にあったので画面が見えたのだが、そこには【千羽輝】と書かれていた。店長がスマホを取って耳にあてる。「いいよいいよ気にしないで。お前雨だと更に卑屈になって面倒だし」と言っているのを見るに、この人が友達の美容師さんなんだろうな。
店長が通話を終えるのと同時に瀬川君が戻ってきた。グレーのスーツにベストと黒いネクタイだ。無難過ぎるくらい無難。私のピンクのドレスが派手に見えてきた。
「そういえば店長は着替えないんですか?出発九時ですよね」
「僕は堅苦しい服嫌いだからぎりぎりまで着替えない」
店長はソファーに座った瀬川君の髪をくしで一つにまとめるとヘアゴムで縛った。いつもより少しだけ高い位置でまとめているのですっきりした印象を受ける。
「そういえば瀬川君喉渇いてない?お茶淹れて来るよ」
さっき来たばっかりですぐ着替えに行ったので、瀬川君は何も飲んでいないはずだ。私は立ち上がって台所へ向かった。
ドレスだと動きにくいかと思ったが、ヒザ下の丈だとワンピース感覚で着れる。今日は雨で気温が低いので、花音ちゃんが用意してくれたストールが役に立っている。肌触りから何となくわかるが、これもかなり上質な物だろう。
お茶をお盆に乗せて店に戻ると、バシィッという何とも痛そうな音とともに、瀬川君が近くにあった雑誌で思い切り店長の肩を殴っているのが見えた。
「何事!?」
「店長がくだらないこと言うから思わず……。気にしなくていいよ」
「そ、そう……」
気にしなくていいよと言われても、気になって仕方がない。瀬川君はこの店に来てもう四年になるらしいし、私が知らないだけでこの二人はかなり仲がいいのかもしれない。
「リッ君が暴力振るうー。僕何もおかしなこと言ってないのにー」と言う店長に「黙れ」という視線を送る瀬川君。そんな二人を横目に、私は淹れてきた紅茶をテーブルに置いた。今日は肌寒いのでホットがちょうどいいだろう。
「それにしてもこんな日に雨なんてツイてないですよねー」
「台風らしいね。山奥の別荘って聞いてるけど大丈夫かな」
室内からでもよく聞こえる、雨のザアザアという音に私達三人はしばらく耳を傾けた。
「そういえば雅美ちゃん、ちゃんと親に言ってきた?帰り遅くなると思うけど」
「バッチリです。瀬川君のところは大丈夫?」
私の問いに瀬川君は小さく頷いた。やっぱり乗り気じゃないなこりゃ。正直、私はもしかしたら瀬川君はサボるかもと思っていた。今日のパーティーは仕事じゃないんだから、もちろん欠席することだってできるのだ。しかし私の予想とは裏腹に瀬川君は来た。もしかすると店長が説得したのかもしれない。
適当に雑談をしているうちに時間は過ぎてゆく。店長が立ち上がったので時計を確認してみると、時刻は八時四十三分だった。「着替えて来る」と言って裏へ向かった店長の背中を見ながら、私は本当にぎりぎりだなぁと少し呆れる。
店長の姿が見えなくなった後、ちらっと瀬川君の様子を伺ってみる。店長がいなくなった途端ものすごく静かだ。何か話題を振った方がいいかと悩んだが、店長もすぐ戻ってくるだろうと私はテレビに集中するふりをした。
「…………」
「…………」
瀬川君と二人で無言でテレビを眺めること五分、黒いスーツに着替えた店長が戻ってきた。こんな晴れ晴れしいパーティーでもやっぱり黒なんだなぁ。まぁ普段の服を見てると黒が好きなんだろうなとは思ってたけど。
「店長今髪長いからくくった方がいいんじゃないですか?清潔感ですよ清潔感」
「えー。いいよこのままで」
約十分後、午前九時ちょうど。店の引き戸がスルスルと控えめに開き、髪の白い老紳士がうやうやしく「失礼いたします」と頭をさげた。
「相楽様、荒木様、瀬川様、お迎えにあがりました。本日運転手を勤めさせていただきます、嘉納と申します」
そう言って老紳士━━運転手の嘉納さん━━は順番に私達を見た。それでなくともこんなボロい店にいて、私達なんてどう見ても三千院さんのパーティーには場違いなのに、嘉納さんは嫌な顔ひとつせずにこやかに私達を車に案内した。黒いスーツをきちっと着こなし、すっと背筋を伸ばして歩く嘉納さんは、実際の年齢よりもとても若く見えた。これぞ大富豪に仕える由緒正しき運転手といった感じで、すごくかっこいい。
私達がピカピカに磨き上げてある黒いリムジンに乗ると、嘉納さんは後部席のドアを閉めてぐるりと回り込み、運転席に乗り込んだ。車内は広々、シートはふかふか、文句のつけようがない。
「発車いたします」
嘉納さんがアクセルを踏み、車はゆっくりと動き出した。窓の外を見てみると、近所の方々が雨の中窓から身を乗り出して「何だ何だ」とこちらを見ている。中にはスマホで写真を撮る人まで。
私は窓の外を見るのを止めて、隣の店長と瀬川君を見た。私が一番左側で、車の後ろの方。私の隣が店長で、その右隣りが瀬川君。その向こう側には嘉納さんの後頭部が見える。車の中を横向きに座るというのは変な感じだ。目の前の窓の中の景色が右から左に流れてゆく。
人生で初めてリムジンに乗って、私の気分はかなり高揚していた。しかも、リムジンといったらこれ!というリムジンの代名詞、車体が長ーいリムジンなのだ。まるでお嬢様にでもなった気分だ。隣で瀬川君をからかっている店長と、無表情の中にもムキになって言い返す瀬川君を見るに、この二人は全然ワクワクしていないようだが。
私はあまりにいつも通りすぎる二人に内心ため息をつき、目の前のキレイなテーブルに置いてあるキレイ飲み物を手に取った。なんだろうと思って一口口にしてみたが、普通にジュースだった。まぁ、私未成年だしね。
車に揺られること一時間半。目の前に大きなお屋敷が見えてきた。このお屋敷は高い山の切り立った崖に立っている。遠くから眺めても、山の中に堂々と立つ屋敷は美しい。今日が大雨なのが悔やまれる絶景だ。
車は繊細な細工の高い柵の周りを沿うように走り、やがて門を左折した。庭もかなり広い。晴れた日には手入れの行き届いたこの庭はさぞかし綺麗なことだろう。車は屋敷の門の前に停まり、嘉納さんが後部席の扉を開けた。
「お足元お気を付けください」
店長が「ありがと」と言ったので私も嘉納さんに「ありがとうございます」と言って頭をさげた。瀬川君は無言で私達についてきた。
玄関の前の少しの段差をのぼり、ステンドグラスが美しい大きなドアをくぐる。入ってまずあったのが広々とした玄関ホール。空間の角に白いオブジェがある。独創的なその形は芸大生の私の美的感覚をくすぐった。
玄関ホールに入ってすぐ、右側にドアがひとつある。おそらく供待室だろう。左手には長い廊下が延びている。ちらりと見た感じだと、廊下の奥は客室のようだ。
玄関ホールに立っている使用人━━執事だろうか、彼が私達に話しかけてきた。
「本日はお足元の悪い中ようこそおいでくださいました。招待状を拝見してもよろしいでしょうか」
店長が白い封筒を差し出すと、執事は丁寧に、だけれども無駄のない動作で中身を確認した。
「大部屋は階段を上がって真っ直ぐの扉でございます」
私達は玄関ホールの中程を右に折れ、階段を上がった。階段の親中に立っている天使のランプが素晴らしくて、私は一瞬目を奪われた。
階段を上がると、まず広間があり、その真っ直ぐ先に両開きのドアが見える。ドアは開け放たれていて、広く明るい部屋の中が見えた。確かにこの部屋がパーティー会場のようだ。ドアの両脇に執事らしき男性が一人ずつ立っている。
パーティー会場の中にはすでにたくさんの人がいた。男性達はシワのないスーツに身を包み、女性達は色とりどりの綺麗なドレスを見せつけながら歩いている。三千院さんは今日で五十歳になるそうだが、意外に若い客も多かった。
「相楽さん、ようこそいらっしゃいました。お待ちしていましたのよ」
私がパーティーの規模の大きさときらびやかさに感動を覚えていると、突然隣から声をかけられた。そちらを振り向くと、ブルーとパープルのドレスに身を包んだ女性がこちらに近づいてくるところだった。おそらくこの人が三千院景子さんだろう。
「お招きいただき光栄です」
「そんなにたいしたパーティーじゃないの。でも楽しんでいってちょうだい」
彼女はそれから、店長の両隣にいる私と瀬川君に目を向ける。
「そちらが従業員の方達ね。かわいらしい子達ね。何かなさってるの?」
「いやいや、普通の学生ですよ」
「まぁそうなの。将来が楽しみね。あなた達も楽しんで行くといいわ」
三千院さんがそう言ってくれたので、私は「ありがとうございます」と答えた。緊張で少し声が裏返る。
「もうすぐパーティーが始まるから、少しだけ待ってらして」
三千院さんはそう言って微笑むと、次の来客の方へ歩いて行った。どうやらとても気のいい人らしい。私達みたいなガキンチョにも一人の客人として接してくれたのが嬉しかった。
私は少しの間、三千院さんの豪華なドレスと派手に巻かれた白髪混じりの茶色い髪を眺めた。それから隣の店長を見上げる。私にとってひとつ意外だったことは、店長が三千院さんに対して敬語を使っていたことだ。普段はお客さんにだってそんな言葉遣いしないのに。
ふと右の方を見てみると、私はそこで見知った顔を見つけた。ビックリして二度見する。それからすぐ横にいた瀬川君の袖をぐいぐいと引っ張った。
「ちょ、ちょっとあれ見て!俳優の竜源保孝だよ!本物!本物!」
そう言われた瀬川君は私の目が指す方向を見たが、どれがその俳優なのかわからないようだった。私は代わりに店長の腕を引く。
「店長見てくださいよ!俳優の竜源保孝ですよほらっ!」
「え?ああうん、そうだね」
まったくこいつらは!目の前に月九で主役を張る俳優がいるっていうのに、他に反応はないのかよ!私は他に芸能人がいないかと辺りをよく見回し始めた。
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