何も分からぬプロローグ




三日後。三月十四日、土曜日。つなぎを着てハケを持った私、店長、瀬川君が高さ二メールの長い塀の前に立っていた。この建物はどうやら何かの作業所のようだが、コンクリート製の壁にはところどころ亀裂が走っており、古い建物だということがよくわかる。私達が目の前にしている建物をぐるりと囲む塀も、元は白かったのだろうが今では排気ガスや落書きでとても汚いものになっていた。

「じゃあ、ちゃっちゃとやっちゃおうか」

店長の合図に私は「はい」と答え、瀬川君は無言で頷く。店長がさっそくペンキの入った缶にハケを突っ込んだのを見て、私もそれに続いた。瀬川君ものろのろと動き出す。

依頼人は様々な大きさのハケ、ローラータイプのハケ、大量の白い絵の具の他に、脚立やブルーシートなどを用意してくれていた。道具が一式揃っているのを見るに、前に一度自分達で塗り直したことがあるのかもしれない。

ペンキをたっぷり付けたハケをべちゃっと塀につける。そんなに綺麗には塗らなくていいらしいから、豪快にいこう。何せ面積が広い。ちまちまやっていたら日が暮れるだろう。隣を見上げると同じことを考えていたのか、店長がそれはもう豪快にペンキを塗りたくっていた。なら上の方は店長に任せて私は下から塗っていこう。私とは反対側の店長の隣にいる瀬川君は、外仕事かつ身体を動かすこのペンキ塗りにやる気が起きないようだ。

作業開始から三時間後。時刻はお昼の二時になっていた。少し離れた場所にいた店長が手を止めてこちらに近づいてくる。

「さすがにお腹減ったね。お昼どうする?」

その言葉に待ってましたとばかりに私は胸を張った。

「こんなこともあろうかと、実はお弁当を作って来ました!」

「雅美ちゃんが?」

「ええもちろん!」

店長は「やけに気が利くじゃん」と言って、遠くの方にいる瀬川君を呼びに歩いて行った。幸い今日は快晴。空気も少し暖かくなってきているし、外でお弁当を食べるのは気持ちがいいだろう。私は張り切って荷物が置いてある場所まで向かった。

私が作ったお弁当を一口食べた店長が最初に口にした言葉は「雅美ちゃんこの卵焼きちょっとしょっぱい」だった。私は今にも火を噴きそうな拳を必死に抑えた。

「文句があるなら食べないでくださいよ!」

「文句は言ってないじゃん。ただの感想だよ」

「人がせっかく早起きして作ったのに」

料理は得意という程ではないが、そこそこしているつもりだ。わざわざ作ってきてあげたっていうのに、もっと有り難く食えないのかこの男は。私は店長との会話を終えると、黙って箸を動かしている瀬川君の方を向いた。

「ごめんね瀬川君、あんまりおいしくなくて」

まぁ、卵焼きに醤油を入れすぎたりとか、ソーセージを焼きすぎたりとか、確かにちょっとは失敗している。店長はともかく瀬川君には謝っておこう。

「大丈夫、おいしいよ」

「無理して食べなくていいからね」

ちゃんとおいしいって言ってくれるなんて、瀬川君はいい人だなぁ。やっぱりお世辞でもおいしいって言うべきだよ。

「リッ君は普段まともなもの食べてないんだからちゃんと食べなきゃダメだよ」

「そういえば瀬川君って普段何食べてるの?」

「カップ麺とか……」

「ええ!?毎日!?」

「ほぼ毎日だよねリッ君は。自炊しないし」

「家のご飯は食べないの?あっ、瀬川君って一人暮らしだっけ?」

「一応家族と住んでるけど……。親は共働きだから」

「そっかぁ……。でもカップ麺ばっかり食べてたら健康に悪いよ?」

「雅美ちゃんリッ君にご飯作りに行ってあげてよ」

「私より店長が作ってあげればいいじゃないですか。だって私の卵焼きはしょっぱいんですもんね!」

「まずいとは言ってないじゃん」

「おいしいよ荒木さん」

「瀬川君の優しさ身に染みるよ。それに比べて店長は」

「わかったわかった、おいしいって。このご飯は」

「ご飯なんて炊飯器に水入れてスイッチ押せばいいだけじゃないですか!もういいですよっ」

「あーあ、雅美ちゃんが拗ねた」

「店長のせいですよ……」

三人で雑談をしながらお弁当を平らげる。三人でいても普段は私と店長ばっかり喋っているが、今日は瀬川君の口数が多かった気がする。何かいいことでもあったのだろうか。外作業で機嫌は良くない方だと思っていたのだが、そうでもなかったらしい。

お弁当も食べ終わったので、再びペンキ塗りを進めることにした。上の方を塗る人が店長しかいないので、上にはほとんどペンキが塗られていない。いよいよあの脚立の出番が来るだろう。でもこのままのペースでいけば、暗くなる前には終わりそうだ。

「さすがに白いペンキ見飽きてきましたね」

脚立に乗って右へ右へ移動しながらペンキを塗っていたら、左から塗っていた店長と合流した。どうやら残す壁はもうここだけのようだ。瀬川君は今頃ちょうど反対側くらいだろうか。半分条件反射のように店長に話しかけながら、しかし手を動かすのは止めない。

「なんかこんな白い壁見てると落書きしたくなってくるよね」

「否定はしません」

「そういえば僕雅美ちゃんの絵見たことないけど、絵上手いの?」

「何言ってるんですか私芸大生ですよ」

頬をふくまらして店長を見下ろす。まぁ芸大生といっても特別上手いわけではないが……いやちょっと待て、店長を上から見下ろせるのけっこう気分いい。脚立万歳。

「大学で料理も教えてくれたらいいのにね」

「まだ言ってるんですか!?それ以上その話するなら私怒りますよ!」

「大丈夫、かろうじてお嫁に行けるくらいのレベルはあったから」

「かろうじてって何ですかかろうじてって!」

まったくもう、この人は!私だって毎回毎回醤油入れすぎてるわけじゃないじゃん!むしろ料理は得意な方だし!でももう二度と店長の前で料理しない食べさせない。

店長への殺意を募らせながらハケを動かす。残りわずかになったペンキの塗られていない部分をめがけて右へ右へ手を延ばしていたら、乗っていた脚立がグラリと傾いた。

「あっ」

しまった、と思ったがもう遅い。いちいち降りて脚立を移動させるのを面倒臭がったせいだ。慌てて壁に左手をつくが脚立の傾きは止まらない。倒れる!と覚悟を決めた瞬間、隣にいた店長が左手で脚立を掴んだ。

「何やってんの」

「すみません……」

店長が脚立を立て直したが、私は脚立に乗っているのが怖くなってすぐに降りた。残りはもうほんのわずかだし、店長に任そう。店長を見上げると壁の一部を指差していた。

「見て見て、雅美ちゃんの手形」

そう言われて左手を見ると、べったりと白い絵の具がついていた。さっき壁に手をついたせいだ。

「これ残しとこうか」

「やめてくださいよ」

「嫌なら自分で消せばいいじゃん」

そう言って別の場所にペンキを塗る店長に私はイラッとする。私は無言で右足を踏み込み、左手で思い切り店長の背中を叩いた。

「ちょっと何すんの!」

「店長がさっさと消さないから悪いんですよ」

背中にべったりとついた白い手形を見て、店長がハケをバケツに放り込む。そして私の手形の横の壁にバンッと手をつき、展開を予想して逃げようとしていた私の背中をバシッと叩いた。もちろん私の背中には白い手形がつく。

「何するんですか!」

「やられたらやり返す」

「そっちがその気なら、私だってやり返されたやつにやり返す!」

「なら僕はそれにまたやり返す」

闘いのゴングは鳴った。オレンジ色になってきた太陽が照らす道の上、私と店長は睨み合った。



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