世界はとても窮屈だ13




四月三十日。水曜日。時刻は昼の一時。昨日夜更かししたせいか起きたらもう正午を過ぎていた。深夜がしつこくメールを寄越すので仕方なく学校に行こうと部屋から一歩出たところで、兄に出くわした。

「おはよう、蓮太郎。学校に行くのか?」

「……お前こそ大学はどうしたんだよ」

「今日は休みだ。昨日教授が倒れたらしい」

「ふーん」

聞いてはみたものの、微塵も興味のない話だったのでさっさと学校に向かうことにする。廊下を歩く後ろから兄の「気をつけて行けよ」という声が聞こえた。

あの日以来、こんな風に度々兄が話しかけて来るようになった。父と母の相手だけでも面倒臭いのに兄まで加わるのかと最初はうんざりしたが、どうやら兄的には本当に子供の頃のように俺と仲良くしたいらしい。

兄が変わることを選んだのには正直予想外だったが、変わってしまった方が楽だと気付いたのだろう。てっきりずっと勇人のようにアホなままでいるかと思っていたが、そこは見直さなければいけないな。

たった今出たばかりの黄龍を振り返って見上げる。自分が変われば、狭い井戸も違って見えるということなのだろうか。

放課後。駅から店に向かって歩いていると、ほんの少しの荷物を持ったナスがこちらに歩いて来るところだった。

「お前まさか俺に黙って出てく気かよ」

「あの新入りがうるさくてね。居心地が悪かったんだ」

店まではおよそ百メートルという距離、立ち止まってナスと話す。今日で何でも屋のアルバイトを辞めるナスは、これから自分のアパートに向かうところだったのだろう。部屋を埋め尽くしていた大量の荷物はすでにアパートに運んである。そのせいで昨日はパソコンがないから死ぬとか言っていたが。

「お前これからどうすんだ?何か仕事見つけないと生活出来ないんだろ?」

「貯金が少しあるから、しばらくはそれで生活しながら考えるよ。ここみたいに、中学生でも働かせてくれるところを見つけないとね」

ナスはこの仕事を辞めてどうするつもりなのだろうと少し心配していたが、この様子なら大丈夫そうだ。小学生で家出するなど、元々ここぞという時の行動力はあるのだから、そのうちどこか居心地のいい場所を見つけて上手くやるだろう。

「……この前、何で反発しなかったんだって聞いた時に、君は怖いからって答えたよな?」

「そうだな」

「僕も昔は怖かった。でも君に会って僕はまだまだオタマジャクシだって知った」

「俺はお前に会ってウシガエルだって再確認したけどな」

「ははは、まぁそう言うなよ」

ナスは珍しく表情を解した。彼の不健康な青白い肌が夕日で少しオレンジ色に染まった。

「もっと活発になろうと思うよ。君と違って僕の世界は広いんだ」

「おう、頑張れよオタマジャクシ」

「君もいつか海を見れたらいいな」

直接的な話をしたこともないのに、ナスは俺と同じ表現をしてくる。やっぱりこいつは俺のことをよくわかっているな。性格はちょっと悪いけど。

「自分が変わると景色も違って見えるらしいぜ。兄貴が言ってた」

「君お兄さんと仲悪いんじゃなかったっけ」

「なんかそれ、もう止めたらしい。戦うより逃げる方がずっと楽だからな」

「それに君は付き合ってやるのか?」

「どうだろうな」

はぐらかす為ではなく、俺は本当にわからなかった。自分がどうしたいのか。

「付き合ってやるんだろうな。君は存外優しいから」

「…………」

ナスが言うならそうなんだろう。だったら俺も兄に付き合ってやろう。言っておくが、仕方なくだ。

「じゃあ僕はもう行くよ。電車の時間もあるしね」

「そうか。元気でな」

「ああ。寂しくなっても会いに来るなよ」

「お前も上手く行かないからって戻ってくんなよ」

片手を上げて挨拶すると、ナスは俺を置いて歩き出した。俺はその背中をしばらく見送って、朱雀店へと向かった。

この短期間で周りはどんどん変わって行った。俺も変われば、違う景色が見れるのだろうか。

朱雀店のボロボロの引き戸を開けると、一足先に到着していた空と海、そして空にパソコンの使い方を教わっている定秋がいた。

この見飽きた景色と違うものが見れるのなら、変わるのも悪くないか。

カウンターの前に立って、振り返る。この景色は、いつも一郎がカウンターに座って見ている景色だ。何年、何十年と、変わり続ける景色を変わらない一郎が見てきた。ここで気付けなければ俺もああなっていたのだろうか。

「店長!ちょっと来てくれよこいつまるでダメなんだ」

「ち、違うんですやれば出来るんです!あっ、そうだきっと瀬川の教え方が悪いん……」

「何か言ったか定秋コラ!」

空にどつかれながら定秋は必死にマウスを右クリックしている。こりゃダメだな、パソコンを使う作業は任せられそうにない。

「やっぱもう一人くらいバイトいるか?定秋じゃナスの抜けた穴を補えそうにないしな」

「ナスみたいにちまちました面倒臭い作業全部任せられる奴がいいな。そうだ、ウチの弟はどうだ?まだ中一なんだけど」

来客用のソファーとテーブルでパソコン教室を開く三人に近づく。定秋はむやみにクリックしたせいで変なファイルを開いてしまいパニックになっている。空はやたら自分の弟を推薦してくるし、それを聞いた海が「お兄ちゃんも来るの?」と目を輝かせた。三人だけでも騒がしい店だ。

志歩もナスもいなくなったけれど、逆にそれで良かったのかもしれない。つまらない毎日を変えるチャンスなのかもしれない。生きるのは怠い、人生は平凡だと言ったのはいつだったか。手足をばたつかせて沈んでいた身体を押し上げたような感覚だ。やってみれば手足は案外たやすく動く。

「店長!何か変なファイル出てきました!」

「これナスが残して行ったやつじゃないか?おい店長、見てみろ!」

「店長、英語がいっぱい書いてあるよ!何て書いてあるの?」

定秋が偶然開いた正体不明のファイルに三人は興味津々だ。俺は短いため息をひとつつくと、三人の背中越しにディスプレイを覗き込んだ。



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