世界はとても窮屈だ10
四月五日。日曜日。午前十一時。
この店に店長就任の際の式などはない。他の店舗では従業員が多いため、顔見せも兼ねてそれなりのことをするらしいが、朱雀店は俺を入れても従業員四人だ。しかも一人はあと一ヶ月で辞める予定。結局店に全員集めて「今から店長こいつです」パチパチとおざなりな拍手。これだけで終わった。
「蓮太郎、待ちなさい」
空とナスが通常運転に戻り、俺も台所に飲み物でも取りに行こうかと歩き出したとき、カウンターでごそごそやっていた一郎が近づいてきた。手には紙袋を持っている。
「何だよ」
「これを受け取りなさい。私からの就任祝いです」
一郎が紙袋から取り出した菊が描かれた布を俺に差し出した。広げて見せられてわかったが、どうやら暖簾のようだ。俺は本気でいらなかったので受け取らなかったが。
「これはお前のばあさんが作ってくれた暖簾なのです。まだ貧しかった頃、私がこの店を開いた祝いだと言って、自分の着物を裁って作ってくれたのです」
俺が受け取らないとわかると、一郎は聞いてもいないのに勝手に話し始め、裏へと続く廊下の入り口にその暖簾をかけようと手を延ばした。が、身長が足りず手が届かないらしく、俺は仕方なく代わりにかけてやった。
「この暖簾は私が今まで大事にしてきたものです。蓮太郎もこの暖簾をばあさんだと思って大事にしてください」
いや、俺ばあさんに会ったことねぇし。と思ったが、言うと一郎がうるさいだろうから口には出さないでおく。
「私は今日は黄龍に戻ります。お前の店長としての一日目、しっかりと仕事に励むのですよ」
それだけ言うと一郎は店を出て行った。店内には小学校の春休みの宿題をする空と海しかいない。無法地帯だ。客が来なければ尚いいのだが。
来るな来るなと思っていると来るもので、夕方頃一人だけ客が来た。依頼内容は妻の浮気調査だったのだが、話を聞いている最中奥さんの悪口を一方的に喋り続けて来てものすごく面倒臭さかった。そこまで悪く言うなら別れりゃいいのに。
とりあえず明日から依頼人の奥さんを尾行して証拠の写真でも撮って見せればこの依頼は終わりだろう。本当に浮気していればの話だがな。あの依頼人は被害妄想が激しそうだから、もしかしたら奥さんは浮気なんてしていないかもしれない。そうなったらこっちはとんだ無駄足だ。まぁ無駄足を踏むのは実際に尾行をする空なのだが。
夜になり黄龍に帰ることにする。一郎から預かった鍵で店の錠をかけた。一郎は今日は黄龍に泊まるらしい。建物内で会わないように気をつけなければ。
黄龍につき、花音に会わないように遠回りをして三十七階に上がる。階段を上がって廊下に一歩踏み出すと、角を曲がったすぐそこに兄が立っていた。完全に俺を待ち伏せしていたのだろう。
「おかえり、蓮太郎」
「何か用か?」
「用が無ければ話しかけてはいけないのか?」
「いや、普通に気持ち悪い」
今まで用があっても話しかけて来なかった奴が何を言う。俺は兄の脇をすり抜けてさっさと自室へ入った。まさかこれからは用が無いのに話しかけて来るつもりじゃないだろうな。冗談じゃない。
部屋で暇を潰していると、コンコンとドアがノックされた。時計を見るともう夜の十一時四十八分だ。こんな時間に誰が何の用だろう。
ドアを開けると、父親である相楽金之助が立っていた。
「蓮太郎、帰ったなら顔くらい見せなさい」
「何だよ?こんな時間に」
頭一つ低い位置にある父の顔を眺める。俺も兄も背は高い方だが、これは完全に母の方の血だろうなとぼーっと考えた。父は咳ばらいを一つして話し始める。
「今日は店長になって初めての仕事だったな。どうだった?」
「……普段と変わらなかった」
「それは一郎お父様が事前にいろいろ教えてくれていたおかげだぞ?」
「単に暇だっただけだと思うんだけど」
「確かに売上こそ一番低いが、一番歴史があるのは朱雀店だ。何でも屋は朱雀店から始まったのだからな。朱雀店の名前の由来は知っているだろう?」
「はいはい」
「その朱雀店を継げることを、お前はもっと誇りに思わなければならない。今までのようにダラダラと時間を浪費しないで、どうすれば何でも屋が、朱雀店がもっと良くなるか考えるんだ」
「はいはい」
「お前は一郎お父様に認められているんだぞ。それがわかるだろう?だから一郎お父様は荷太郎じゃなくてお前を……」
「親父」
父の言葉を遮ると、父は反射的に口を閉ざした。
「俺とあいつを比べるな」
こいつと話していてもいらつくだけだ。俺は無視してドアを閉めようとしたが、父がドアに手をかけそれを阻止した。
「蓮太郎、お父様と呼びなさいと何度も言っているだろう!」
「やだよ気持ち悪い」
一刻も早くドアを閉めてしまいたいが、父がまだドアに手をかけている。いや、このまま手を挟んでやっても全然いいのだが。
「どうしてお前はそう反抗的なんだ!」
「普通は父親のことそんな風に呼ばねぇんだよ!」
「少しは忠彦さんのところの花音ちゃんを見習ったらどうだ!」
「陸男はそんな呼び方してねぇだろ!」
「私が呼べと言っているんだから素直にお父様と呼びなさい!」
「死んでもやだね!舌が腐り落ちる!」
「聞けばお前、一郎お父様のこともお前とかあんたとか呼んでるらしいじゃないか!」
「本人が何も言わねぇならそれでいいだろ」
「一郎お父様はこの店の社長だぞ!?この店を立ち上げた人なんだぞ!?それをお前……」
「ちょっと貴方、廊下で騒がないでいただけません!?」
第三者の声の乱入に、俺と父は言い争いを止めてそちらを見る。寝巻きの上にブランケットを羽織った母がこちらに近づいてくる所だった。
「こんな時間に何を騒いでいるんです」
父の隣に立った母は、五センチばかり低い位置にある父の顔を窺いながらそう尋ねた。
「いや、蓮太郎が店長としての初仕事だったからな、少し心構えを」
「それが何故あんなに騒々しくなるのです」
「いやぁ、その、蓮太郎が一郎お父様にたいして余りにも無礼な態度を取るものだから……」
それを聞いた母は父を一瞥すると、こちらを向いてニコリと微笑んだ。
「蓮太郎はそんな小さなこと気にしなくてもいいのよ。一郎お義父様もそんなこと気にしてないんだから」
「わかってるからもう寝ろよお前ら。隣の部屋の荷太郎も迷惑だろうよ」
「蓮太郎も早めに寝るのよ。ちゃんと温かくしてね」
そう言うと母は父の襟首を掴んで引きずって行った。去り際父が「蓮太郎、お前はやれば出来るんだからもっと頑張るんだ。日々を有意義に━━」と叫んでいた。俺は聞こえなかったふりをしてドアを閉める。
何がやれば出来るだうるせぇよ。周りがそう言うから頑張る気も失せる。期待された分だけ怠けたくなる。
部屋のイスがこちらを向いたまま佇んでいて、俺はそれに力なく腰掛けた。
頑張らなくても出来ちまうんだよ。虚しいことに。
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