世界はとても窮屈だ6




九日後。今月もあと三日で終わろうという三月二十九日。一郎は朱雀店の全従業員を店内に呼び出した。数ヶ月ぶりに店の裏から顔を出したナスは、いったい何が起こるんだと無気力な瞳を少しだけ輝かせている。時計の針が午後五時を指す直前、ソファーに座った一郎を囲む俺達は、彼が口を開くのを今か今かと待ちわびていた。

「えー、ゴホン。今日は皆さんに大切なお知らせが二つあります」

五時ピッタリ、咳ばらいをひとつした一郎がようやく喋り出した。

「まず一つ目。突然ですが、来月から水無月さんは青龍店で仕事をすることになりました。あと三日と短い間ですが、水無月さんをよろしくお願いいたします」

何が突然だ、と呆れ返りながら、志歩に飛びつく空を眺めた。姉の真似をして海も飛びつく。ナスは興味がないといった顔で突っ立っていた。

「二つ目ですが、来月の五日からこの店の店長が蓮太郎に代わります。高校を卒業するまでの一年間は私も店に残りますが、皆さんフォローをお願いしますね」

空が驚きのあまりあんぐりと口を開けた。海は意味がよくわからなかったらしく、キョロキョロと周りの反応を伺っている。この知らせにはさすがのナスも目を見開いていた。ただ一人、志歩だけは冷静な眼差しで俺を見ていた。

わかってるよ。逃げるのも面倒くせーもんな。

「お前店長ってどういうことだよホント!え!ウチお前のこと店長って呼ばなきゃなんないの!?」

「嫌なら呼ぶなよ」

「海は店長って呼ぶよ!あのね、海は」

「ああ、ありがとな」

「仕方ないな、ならウチも店長って呼んでやるよ。よっ、店長!」

「うるせぇよ」

「よっ、てんちょっ!」

「海も少し黙ろうか」

はしゃぐ空と海の後ろに見える一郎の、そのまた後ろに立つナスと目があった。不満そうな、失望したような顔をしている。こりゃ後で何か言われるな。

しばらくして祝福ムードもおさまり、店内はようやくいつもの雰囲気を取り戻す。一郎はカウンターでぼーっと外の風景を眺め、空、海、志歩はソファーで残りわずかとなった団欒の時間を楽しんでいた。

「…………」

俺は無言で店の裏へ向かう。一郎の話が終わるや否やすぐさま自室へ帰って行ったナスの所へ向かうためだ。ずんずんと廊下を歩き、いつもと同じように何も言わずにドアを開ける。パソコンの前に座っていたナスは、ゆっくりとこちらを振り返った。

「店長就任おめでとう」

「開口一番それかよ」

俺はベッドの端に腰掛けた。足元に散乱している邪魔な漫画を横へ移動させる。ほんの少しの間沈黙が続いた。と思ったら、ナスは思いの外早く次の言葉を紡いだ。

「君がそれを了承するなんて意外だったな。てっきり反発するかと思ったのに」

「反発して欲しかったか?」

「……そりゃあね」

ナスは椅子をくるりと回転させて俺に背を向けた。しかしパソコンを操作する気配はない。

「君はもっと自由奔放な人間だと思っていたよ」

「それはお前の幻想で理想だろ」

「わかってるならどうして素直に従う?こんな所で燻っていないで、もっと広い世界に飛び出して行ってくれよ!」

「…………」

今度こそ長い沈黙が続いた。ナスは少し俯いたまま口を閉ざしている。どんな表情をしているかもわからない。

たっぷり三分は経っただろうか。俺はひとつの答えを口にした。それはナスを失望させるには十分な言葉だった。

「怖かったからって言ったら?」

ナスが首だけこちらに向ける。俺はすでにナスの目を見ている。ナスは珍しく顔の筋肉を動かして、眉を少し寄せた。

「見損なった」

「そうか」

俺は立ち上がるとドアの方へ向かった。ちょうどドアノブを握った時、ナスが背中を向けたまま呟いた。

「僕は君に出会えて良かったと思っているよ」

肩越しにナスの方を見る。

「君という化け物がいたおかげで、僕は人間でいることができた」

ナスはまだこちらを向かない。目の前のキーボードを眺めながら、俺の返事も待たずに続ける。

「なるべく幸せになれよ」

「努力する」

後ろ手にパタンとドアを閉める。耳を澄ませても、廊下はしんと静まり返っていた。店の方からかすかに空の品のない笑い声が聞こえる。俺は顔を上げると廊下を歩き出した。

いい理解者だったなと思う。あいつはこれからどうするんだろう。どんな風に生きて、どんな風に幸せを願うんだろう。頭はいいが不器用な奴だから、これから大変だろうな。

店に戻ると、ナスの部屋に行く前と同じ光景が目の前にあった。空と海が騒がしく、志歩はいつもより少し柔らかい無表情で。一郎は何が面白いのか変わらない景色を眺めている。

俺の井戸は何故こんなに大きい。どこまで歩いても井戸の中だ。端が見えない。遥か先にあるだろう壁の外には、本当に海なんてあるのか?

どこに逃げたって、そこは結局井戸の中じゃないか。

「お前戻ってきたなら何か言えよな!」

空の声でハッと我に返る。裏への廊下の入り口に突っ立ったままだった俺に、空が手招きしている。海も真似をして手をひらひらと動かした。

「志歩と話せるのももう今日と明日しかないんだぞ?明後日には引っ越しで向こうに行くんだって」

志歩を見ると澄ました顔でお茶を飲んでいた。他店舗に移動する際には引っ越し等の身の回りの準備期間として二日間休みがもらえるはずだが、ギリギリまで居るなんてこいつも大概この店好きだよな。

「そういやお前はどうなんだよ。やっぱ他の店に行きたいか?」

「ウチ?ウチはどうだろうな~」

空いているソファーに座りながら空に尋ねる。空は一度海の顔を見てから答えた。

「まぁウチは高校卒業するまではここにいるだろうな。その後のことはその時が来たら考えるよ」

「お前らしいな」

俺としては空はもっと大きな店に行った方が彼女の能力を試せると思うが。しかし極度のブラコンである空は、海が義務教育を終了するまではここを離れられないのだろうな。そういえば、空にはもう一人弟がいたはずだがそいつも海のようなやつなのだろうか。まぁ空がそいつの話を全くと言っていいほどしないから、海とは違うタイプの可能性の方が大きい。

「そういえば志歩は青龍でどんな仕事をするんだ?」

空の質問に志歩がようやく口を開く。

「店長補佐の勉強を。青龍店も近々店長を代えるそう」

「店長補佐かー。でも志歩は事務の方があってるよな」

「野蛮なお前と違ってな」

「何か言ったかコラ」

「ねぇお姉ちゃんやばんってどういう意味?」

「とても賢く美しいって意味だ」

「お前それ虚しくなんねーの?」

「お姉ちゃんはかしこくてうつくしい!」

大人達は海にもっと言葉を教えた方がいい気がする。こいつもう小学二年生になるっていうのに、こんなんで大丈夫なのだろうか。

「しっかし、志歩に魔法少女プリティエンジェルのスカイブルーのコスプレしてもらう夢はついに叶わなかったなぁ」

「志歩ちゃんはスカイブルーが好きなの?海はねっ、コーラルピンク!」

海は指を曲げたり伸ばしたりしながら両腕をクロスさせた。キメポーズか何かだろうか。

「なっ、志歩、今からでもやらない?ウチジェットブラックやるからさ!」

「遠慮しておく」

志歩はキッパリハッキリと断ったのに、空は後生とばかりにしつこく誘っていた。空の隣では海が「憧れの実現と意欲旺盛、コーラルピンク!じゃじゃーん!」とか言っている。何だそのキメ台詞は、いったいどんな子供向け番組なんだ。




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