世界はとても窮屈だ
「何か焦げくせーんだけど」
朱雀店のボロい引き戸を開けると、何かが焦げているような臭いがして思わず鼻をつまんだ。
「水無月さんがカレーを作ってくれているんですよ」
「カレーの臭いじゃねぇぞこれ」
祖父である一郎がちんまりと座るカウンターの脇を抜けて、店の換気扇を回しに行く。学生鞄を来客用のソファーに投げるように置き、俺はそのまま台所へ向かった。
狭い台所を覗くと、この店の従業員である水無月志歩(みなづきしほ)が鍋の前に立っていた。能面のような顔で規則正しくリズムを刻みながらおたまを掻き回す姿は実にシュールだ。
「火強すぎだろ」
限界まで右に回されたコンロのツマミを弱火にしてやる。すると志歩は手を止めて俺の顔を見た。
「焦げてんぞ」
「気が付かなかった」
カレーの茶色と焦げの茶色の区別もつかないのか。料理が下手とかそういうレベルじゃないな。まぁ、もっと酷いものを作る奴を俺は知っているが。
「誰が食うんだよこんなに」
「店長が食べたいと言うから」
それだけ言うと、志歩は視線を鍋に戻してまたカレーを掻き混ぜ始めた。何でこいつに作らすんだよ誰か止めてやれよ。俺は思わずもれそうになったため息を飲み込んで、黙って店へ戻った。
店へ戻ると、たった今来たのであろうアルバイトの瀬川空(せがわそら)が俺の鞄を持って立っていた。
「お前こんなところに鞄置いとくなよな。ウチの海が座る場所がなくなるだろ」
「お前今日朝霞製菓の不正調査するんじゃなかったのかよ」
「んなもん昨日終わったよ。ウチは時間は無駄にしない主義なんだ」
相変わらずのブラコンぶりはスルーして、空から鞄を受け取る。弟の海はソファーに座ってテレビを見ている。今日もフリルつきのスカートを履いているが、この店でそこに触れる者はもういない。
「それよりお前この臭い気にならないのか?」
「臭い?全然」
「あ、そう……」
どうやら空には鼻がついていないらしい。俺は鞄を置きに自分の部屋へ向かう。途中で台所を覗くと、志歩はまだ鍋を掻き混ぜていた。
部屋で椅子に座ってみる。特にやることがない。一郎がうるさいからこうして店に顔を出しているが、そんなに客が来る店じゃないからやることが全くない。例え仕事が来たとしても、俺が何もしなくても有能な志歩や空があっという間に片付けてくれるだろう。
欠伸をひとつついた時、机の上に投げ出しておいたスマホが鳴った。ディスプレイを覗くと【寿等華 深夜】という文字が並んでいる。ついさっき別れたばかりなのに、いったい何の用だろうか。
「もしもし?」
声から滲み出る面倒臭さを隠しもせず電話に出る。背後でざわざわと騒がしい雑音と、相変わらずでかくてうるさい深夜の声が聞こえてきた。背後が騒がしいのはおそらく家にいるからだろう。
《お前生徒会役員募集のプリント持ってるか?アタシなくしちまったみてーなんだけど》
「んなもんとっくにゴリラにわたしたよ」
《勝手に鞄から出したのか!?》
「お前机の上に出しっぱなしだっただろうが」
ため息混じりに言うと、深夜は《そうだったっけ》と笑った。そのあと《悪かったな!》と一方的に電話を切られる。俺は再びスマホを投げ出した。
だるい。
身体が重くて動かすのがひどく億劫だ。何故生きるのはこんなに怠いのだろう。何故人生はこんなに平凡なのだろう。まるで水の中にいるかのように手足の自由がきかない。
バッと勢いよく上体を起こした。そのままの動きで立ち上がる。脱いだブレザーをイスの背に投げるようにかけ、何も持たずに部屋を出る。スマホには充電器をさしておくべきだったなと若干後悔しながら廊下を進み、一番奥の部屋のドアをノックもせずに開けた。
「よう、引きこもり。構え」
パソコンに向かってしきりにマウスを動かしている背中に向けて言い放つ。上下黒いスウェットを着てイスに丸まるように座るそいつ━━ナス・エッグプラント━━は面倒臭さそうにゆっくりと振り向いた。
「毎回毎回ノックくらいしてくれよ。まぁ来るってわかってたけどさ」
「わかってたんならいいだろ」
ナスの隣に立ってパソコンのディスプレイを覗き込む。そこには色とりどりの円があって、ナスはその円にカーソルを持ってきてクリックしているのだ。クリックすると円は消え、また別の場所に新しい円が浮かぶ。その繰り返し。
「何やってんだ?これ」
「最近発表された音ゲー。キーボードじゃなくてマウスを使うんだ。やる?」
「興味ない」
俺はナスの隣から離れて壁際に置いてあるベッドへ近づいた。このベッドと反対側の壁際に置いてあるテレビ、そしてでかい本棚のせいで、もともとそんなに広くないこの部屋がさらに狭くなっている。床には漫画やゲームが乱雑に積んであって足の踏み場もない。
俺はベッドに仰向けに寝転ぶと、近くに置いてあった適当な漫画を手に取り読み出した。
「楽しいか?それ」
俺が来ても尚マウスをカチカチやっているナスに、漫画から視線は外さずに尋ねる。ナスもディスプレイを見たままそれに答えた。
「暇を潰すにはちょうどいいと思うね」
「暇なら俺に構え」
「君に構ってる程暇じゃないんだ」
言ってること違ぇ……と思いながらも、いつものことなので適当な返事を返す。こいつは俺が来ても構ってはくれないが、俺を追い出したりはしない。同じ部屋にいながらお互いほとんど干渉せずに漫画を読んだりゲームをしたりする。たまにほんの少しの会話があるだけ。なんて青春の無駄遣いをしているんだろう、と思うが俺はここに来るのをやめなかった。
そうしているうちに一時間二時間と時が経ち、俺がちょうど八冊目の漫画を読み終えたころで、足音が聞こえてきたかと思えば部屋のドアがコンコンと二回鳴った。ナスがディスプレイから視線を外さずに「はい」と一言返事をする。ドアがゆっくりと開いて志歩が顔を出した。
「店長が呼んでいる」
「誰を」
「君を」
「何で」
「話があるらしい」
「どんな」
「さあ」
まるで卓球のラリーのような俺達の会話に、ナスが思わず口角を上げたのが見えた。俺は未だ寝転んだままだった体勢から起き上がって、ベッドの上に座った。志歩は真っ直ぐに俺を見下ろしている。
「君を必ず連れて来るように言われた」
「今忙しいから嫌だ」
「忙しいようには見えないけれど」
俺の手にある漫画を見て志歩は言う。なかなか店に戻らないのは一郎に言われているせいか。あのジジイめ、どうせたいした用じゃないに決まっている。
「わかったよそのうち行くからお前先に戻ってろ」
「そうはいかない。信用できない」
「五分で行く」
「五分でいいなら今でもいいでしょう」
「五分を馬鹿にすんなよ。五分あれば二分間ミステリーが二問も解ける上にさらに一問読めるんだぞ」
「それは……確かに……」
読書好きの志歩が少し迷い出した。しかしこいつは読書好き以前に、仕事第一で真面目だ。すぐに迷いを捨て無表情に戻った。
「本は今関係ないでしょう。いいから来て」
俺は仕方なく観念することにした。先程自分でも言ったことだが、どうせたいした用ではないのだ。さっさと済ませて、今日はもう疲れたとか何とか言ってそのまま家に帰ってしまおう。
「ったくしょうがねぇな……」
ようやく重い腰を上げた俺を見て、志歩は満足そうな顔をする。漫画をその辺に置いてベッドから下りると、ナスが小さく「行ってらっしゃーい」と呟いた。くそ、こいつ。後で絶対クリア直前のゲームデータ消しといてやる。
「よかった。来てくれないかと思った」
「はいはい、それで結局何の用なんだよ」
「それは私も本当に聞いていない」
まぁ志歩が言うならそうなんだろうなと思った。こいつはほとんど嘘をつかないから。と同時に冗談も言えないが。志歩の後について店へ出る。すると、来客用のソファーに座る一郎とテーブルの上のカレーが目に入った。一郎がこちらに気づく。
「蓮太郎、そろそろお腹が空いたでしょう。水無月さんが作ったカレーを温めておきましたよ」
そう言ってテーブルに乗った二皿のカレーを目で指す一郎。煮込まれすぎた野菜は液状化し、でかい焦げがまるで具材のようにルーの中を漂っている。俺は思わず口元を押さえた。
「……いや、腹減ってねぇ」
「そうですか……。残念です。こんなに美味しいのに」
スプーンでカレーを掬って口に運ぶ一郎。もぐもぐと数回咀嚼し、飲み込んだ。俺はカレーが用意されていない方のソファーへ座る。ちなみに、志歩はすでにカウンターに座って空のちょっかいを受けていた。
「で、用って何なんだよ」
トイレに行っていたらしい海が店の裏から出てきて一郎の後ろを通り過ぎた。そのままカウンターの方へ駆けてゆく。
「たまには夕飯を共に食べようと思いましてね」
「遠慮しとくわ。ただでさえまずい飯がさらにまずくなる」
やっぱりどうでもいいことだったな、と思いながら座ったばかりのソファーを立つ。部屋に戻って鞄を取って来よう。そしてそのまま帰ってしまおう。俺は一郎が何か言っているのを無視して部屋へ向かった。
鞄を持って店に戻ると、一郎の隣で海がカレーを食べていた。俺の分とか言って用意されていたやつだ。
「それ美味いか?」
「う~ん……。美味しいよ!」
背中側からそう尋ねると、海は少し悩んだ後満面の笑みでそう答えた。ちょっと待て、なぜ悩んだ。美味しいと答えた後も微妙な顔をしてもぐもぐとカレーを頬張る海。俺は好奇心に駆られて「一口くれ」と言って味見した。
「美味しいね!」
「ああ、美味いな」
海の頭を撫でてやり、隣の一郎に「帰るわ」と一言告げる。カウンターでコスプレ談議をする空とそれに付き合っている志歩に適当な挨拶をして店を出る。駅までの道を歩きながら俺は思った。カレーに何を入れたらあんなに苦くなるんだ。
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