無限ループの回答
学校から帰ると、玄関にはいつもより靴が二つ多かった。綺麗に磨かれた革靴とハイヒールを見て、僕は今日は珍しく二人とも帰ってきているんだなと思った。
ただいまの一つも言わず、無言で階段へ直行する。いつものことだ。早く二階にある自室にこもってしまおう。
途中、階段の手前にあるリビングの扉から洩れてきた声を耳が拾い上げた。これは母の声だ。
「空ちゃんは本当に良くできる子ね。それに比べて陸ときたら……」
「まぁまぁ、陸だって成績十番以内なんだろ?十分すごいじゃないか」
と、これは姉の声。
「だって空ちゃんはずっと一番だったじゃない。あの程度の学校で一番も取れないなんて……」
その後姉が何か僕を擁護するような事を言ったが、僕の足はすでに階段を登っていた。おそらく姉は僕が帰ってきた事に気がついていて、母は気がついていない。もう九歳の弟が口の回りを汚しながらおやつを食べる横で、父がその光景に眉を寄せながら無言でテレビを見ている様が容易に想像できる。そして、テーブルの前に一つだけ空いているイスも。
勉強机に座ってぼーっとする。何も考えないのが好きだった。自分のことも、他人のことも、考えるのが煩わしい。何も考えないでいる方が楽だった。
その時、部屋のドアがノックされた。返事をする前にドアが開く。
「帰ってきたなら何か言えよ」
「……返事してから開けてよ」
遠慮のない行動に文句を言うと、姉は「まぁいいじゃないか」とガハガハ笑った。
「親父達帰ってきてるぞ。お前も降りてこいよ」
「僕はいいよ」
「明日の朝五時にはまた仕事だってさ。久しぶりに二人揃って帰ってきてんだ。お前も顔見せとけよ」
「僕の顔なんか見たって喜ばないでしょ」
姉は一度黙ってから言った。
「なぁ、ウチが何でも屋って店でバイトしてるって前話しただろ」
「そうだったっけ」
「そうだったんだよ。……で、今ここから一番近い店でバイトしてるんだけどさ、別の店に来ないかって話が来たんだ」
「……それで?」
「その店ちょっとここから遠くてさ、店の近くにアパート借りて住もうと思うんだ。海も一緒に連れて行こうと思う」
「…………」
姉は高校に入学してすぐ「何でも屋朱雀」という店でアルバイトを始めた。母は始めこそ猛反対したが、姉が仕事で好成績を修め尚且つ勉強のレベルも落とさないのを見ると、「やっぱり空ちゃんはすごいわね」と褒め出した。
仕事と勉学を両立させ、さらにどちらも良い成績を修めることなど、姉には造作もないことなのだ。僕なんかとは生まれつき出来が違うのだから。
だから、まだ高校生の姉に引き抜きの話が来ることも、さほど不思議なことではない。
「高校卒業したらそのまま正社員になるつもりだ。海もウチがずっと面倒を見る。だから、ウチも海もたぶんもうこの家には帰ってこない」
「……それ、母さんは許したの?」
「言うわけないだろ、勝手に出てくんだよ。もともとほとんど家に帰ってこないような奴らだし」
そんなことをしたら母さんは発狂するだろうな、と思った。母さんがどれだけ怒り狂おうがそれはどうでもいい。ただ、自分に火の粉が及ぶのだけは勘弁願いたい。
姉の言う通り、両親はほとんど家に帰ってこない。帰ってきたとしても深夜で、早朝に仕事に行くことが多く、今日のように二人揃って家にいることは本当に珍しい。何ヶ月かに一回の出来事だ。
出張だの会社に泊まるだの言っているが二人とも浮気をしていることは明白で、さらに浮気をしていることをお互いに黙認している。だがきちんと生活費を入れてくれさえいれば、そんなこと僕にはどうでもいいことだ。
この家は冷え切っていると思う。おそらく両親は僕らの誕生日なんて覚えていないし、僕らも母さんの手料理の味や父さんの浮かべる笑顔などとうの昔に忘れた。そんなことは生きる上では別に必要ない、どうでもいいことだから。
「それでさ、ウチが出て行くと店の人手が足りなくなるんだって。だからさ、」
そして姉は僕が予想もしていなかったことを言った。
「ウチの代わりに陸があの店で働かないか?給料いいし」
「僕まだ中学生なんだけど」
「年齢は関係ないよこの仕事は。実際海も社員にするつもりだしさ」
僕が黙ったままでいると、迷っていると思ったのか姉は説得の言葉を並べ始めた。
「大丈夫だよ、ウチは若い奴多いし、店も小さいから人少ないし。無理に接客もしなくていいし、店の裏にこもってお前の好きな仕事してればいいんだ。ほら、お前パソコンとか得意だろ?」
「…………」
「なぁ頼むよ、もう店長に弟連れてくるって言っちゃったしさ、な?」
「……何でそんな勝手なことしたの?」
「へ?」
「何でそんな勝手なことしたの」
「…………」
姉は僕が仕事を受けるつもりで話をしている。きっと僕はこの話を断らないだろう、そう思っている。
「僕はやりたいなんて一言も言ってない」
どうして勝手にそんなことしたんだ。そんなことをして僕が喜ぶとでも思ったのか。
「どうせ姉さんには僕の気持ちはわからない」
僕は変化を望んでいない。現状に満足もしていなければ不足を感じてもいない。何もかもどうでもいい。どうでもいいから今のままでいい。
「だってお前それでいいのかよ。ウチも海もいなくなったらお前この家に一人だぞ?寂しくないのかよ」
「姉さん達ともたいして会話してなかったじゃないか。僕はもともと一人だよ」
「そんなんじゃそのうち本当に一人になるぞ。何でお前はそんなに内にこもりたがるんだよ。外はもっと広いんだぞ」
「どうせ姉さんにはわからないって言ったでしょ。僕は別に一人でも構わない」
「外に出たら楽しいぞ。いろんな奴がいるんだ。お前が好きになれる場所も絶対ある。こんな家にいたって、いい学校出たって、それが何になるんだよ!」
「空ちゃ~ん?お風呂あいたから入っちゃいなさい」
階下から聞こえた母の声に僕と姉は膠着する。姉はすぐに我に返って返事をした。母がリビングに入ったのを音で確認すると、姉は再び僕を見た。
「今月末には向こうの店に行かなきゃいけないからさ、返事はなるべく早く頼むな。じゃあウチは海と風呂入ってくるから」
ドアがパタンと閉まる。姉が階段を降りる足音が聞こえた。
結局姉はずっとドアの横で話をしていて、部屋には一歩も入って来なかった。どんなに綺麗なことを並べたって、他人なんてその程度だ。
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