うさぎの気持ち4
六月十六日、月曜日。
薬のおかげで熱はすぐに引いた。しかしインフルエンザは外出禁止だ。なので今日まで学校とバイトは休み続けていた。
インフルエンザの時いつも体験するのだが、始めは高熱で苦しが薬を飲めば症状はすぐに良くなる。わりと元気な状態で、だが外に出ることはできず、ただ家でだらだらし続けた。
今日は一週間ぶりのバイトだ。今日から復帰することはちゃんと店長にメッセージを送っている。
私は久々に何でも屋朱雀のボロい引き戸を開けた。
「おはようございまーす」
「あ、雅美ちゃん久しぶり」
ソファーでつくろぎながらテレビを見ていた店長が、顔だけこちらに向けて挨拶を返した。
「もう治ったの?」
「はい、死ぬかと思いましたよ」
そう答えてから、荷物を置くために店の奥に向かう。
とりあえず元気になってよかった。熱でうなされていた時は、私は本当にここで終わるんじゃないかと思ったよ。
腰にエプロンを巻いて部屋を出る。店に戻る前に瀬川君の部屋に寄って、復帰した報告と迷惑をかけたことにたいする謝罪をした。瀬川君は淡々と「元気になってよかった」と言った。
店に戻ると、店長は先程と同じ体勢でテレビを見ていた。私はその後ろを通り抜けてカウンターへ向かう。カウンターのイスに座ろうとしたところで、店長がテレビに視線を向けたまま声をかけた。
「あ、そういえば、本棚にある赤いファイル整理しないといけないやつだからさ。ちょうどいいから雅美ちゃんやっといて」
ちょうどいいって何だちょうどいいって。私は「はーい」と返事をしながら立ち上がった。本棚の前に立って目的のファイルを探す。が、
「店長……赤いファイルっていっぱいあるんですけど」
ざっと見て赤いファイルは三十冊ほどあった。そんなざっくばらんな説明をするくらいなら、自分で取りに来るか予め用意しておくかしておいてほしい。
「あー、三年前の二月のやつ」
店長の視線の先は相変わらずテレビ画面だ。私は文句の一つも言わず、三年前の二月の日付を探す。
上から下まで、右から左まで三往復ほどして、私はついに口を開く。
「……店長、そんなファイルないんですけど」
青いファイルで同じ日付ならあったのだが。店長は勘違いしているのではないだろうか。
「えー?ちゃんとあるって」
ここで店長がようやくその重い腰をあげた。彼は面倒臭そうに歩いて来て、私の隣に立つ。そしてすぐに本棚に手を伸ばした。
「ここにあるじゃん」
「そんな所見えるわけないじゃないですかっ!」
店長は棚の一番上の段に並んでいるファイルの、その上に無造作に寝かせて突っ込まれていたファイルを手に取った。一番上のファイルの背表紙だってつま先立ちでやっと見えるくらいなのに、その上のすき間に寝かせてあるファイルなんて完全に視界の外だ。私の身長を考えてからものを言ってほしい。
「心の目で見えないかなーと思って」
「そんな都合のいい目は持ってません!」
その後二、三そんな感じの言葉を交わす。そして店長は私の手にファイルをぽんと乗せるとこう言った。
「とりあえず、この七日の仕事をわかりやすいようにまとめてくれたらいいから」
「はい」
店長はそのままテレビの前に戻り、私もカウンターに座った。ファイルを目の前に置いて、ふぅと短いため息をつく。ファイルをパラパラと捲り、指定されたページを探した。
「荒木さん」
「はぃぃい!?」
突然降って湧いた声に、裏返った声で返事をしながら振り向く。そこには瀬川君が立っていた。私の心は完全に別の方向へ向いていたので、彼が近づいていたことに気付かなかったのだ。というか、気配を消して近づく瀬川君も悪い。
「そのファイル整理するならこれを見るといいよ」
瀬川君はぺらっとしたクリアファイルを私に差し出した。彼の手には本棚の中にあったものと同じ種類のファイルが握られているので、おそらくそのファイルを取りに来るついでに私に声をかけたのだろう。
「なに?これ」
「その仕事の時の僕の記録。その報告書書いた人、かなりおおざっぱだったから……。荒木さんはその時まだいなかったし、わかりにくいと思って」
「ありがとう瀬川君」
なんて優しいんだ!丸投げの店長とは大違いだよ。というか、こっちは病み上がりで来てるんだから、普通ここは自分でやるべきではないか?テレビを見ている暇があるならこのファイルを整理する時間くらいあっるだろうに。いや、そんなこと今更店長に求めないけどさ。
内心でそんな愚痴を呟いていると、私と瀬川君のやり取りを聞いていた店長が、壁越しに声をかけてきた。
「あ、雅美ちゃん、それ明日持って行かないとダメだから今日中にお願いね」
私はその言葉に温度の低い声で返事をした。こっちは病み上がりで来てるんだから、普通ここは自分でやるべきではないか?というより、期限が明日なのに何故今の今まで放置していたの?いや、そんなこと今更店長に求めないけどさ。
「じゃあ荒木さん、頑張って」
瀬川君はそれたけ言うと、さっさと奥に引っ込んでいった。私はその背中にもう一度お礼を投げ掛ける。
瀬川君にもらったクリアファイルの中身を見てみると、下手くそな文字が丁寧な文体で並んでいた。もうこれ出しちゃえばいいんじゃない?
「そうだ雅美ちゃん」
さてやるか、とペンを握ったところで、また店長の声が飛んできた。「何ですか」と少し不満げな声で返事をしながら壁から顔を出す。すると店長はこう言いやがった。
「お茶淹れて」
もうこいつがインフルエンザになればいいのに。
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