無知は罪であるか否か5




「雅美ちゃん、そろそろ帰っていいよ」

店長は店の奥から出て来るなり、カウンターの私にそう言った。壁の時計を見ると、九時を三分回ったところだった。ファイル整理に集中していて退勤時間がやってきたことに気付かなかった。

私はやりかけのファイルを閉じると、本棚の元の場所に戻した。エプロンをはずしながら自分の部屋に向かい、エプロンの代わりに鞄を持って店に出る。店長は来客用のソファーに座っていた。

「あ、そうだ、明日リッ君いないからさ。雅美ちゃん一人で頑張ってね」

店長はテレビのリモコンを操作して、パチパチとチャンネルを変えた。私の見たかった九時からの恋愛ドラマがバラエティー番組に切り替わる。

「瀬川君何かあるんですか?ていうか、店長も頑張ってくださいよ」

「文化祭の準備、泊まり込みでやらなくちゃいけないんだって。クラスの権力者の言い付け」

それから顔だけこちらに振り返って「あと僕は常に頑張ってるから」と付け足した。私は返事の代わりにため息を返す。

そうか、瀬川君もう学園祭か。そういえば、最近私より仕事に来るの遅い日もあったもんね。

「私だって頑張ってますよ」

「わかってるわかってる」

本当かなぁと疑わしげに思いつつも、家に帰るべく引き戸の方へ近づく。引き戸を自分が通れる幅だけ開けて、ちょっと考えてから数歩店の中に戻った。カウンターの背後の壁で、引き戸の前からでは店長が見えないのだ。

「店長、ごめんなさい」

突然わけのわならないことを言ったのに、店長は驚きもせず「いいよ」と答えた。それから「頑張ってる人は好きだから許す」と付け足して少し笑った。

私は自分から切り出したくせに何も返すことができなくて、「お疲れ様です」とだけ言って引き戸を閉めた。帰り道をしばらく早足で歩いて、私は自分が下を向いていることに気が付いた。

夜空を見上げると、夏の大三角がキラキラと輝いていた。明日からもまた、頑張ろう。




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