口指

亜牙憲志

口指


 …………そう、あれは……、夏もようやく終わり、秋の気配が漂うはずの季節。



 ただ、その日も相変わらず都会の街中は、何かまとわりつくように蒸し暑く…。

強い日差しの下、雑踏をオートマチックに歩いていた。


 そんな昼すぎ。


 交差点の信号で立ち止まっていると……。

後ろから不意に肩をたたかれ。


 「おいっ」


 僕は、サッと振り向く。



 そこには、……少し懐かしい顔。

額に汗を光らせながらニコリとほほ笑むワイシャツ姿の男。


 「あ…、……、ああっ! ……梅田君」


 大学生時代の友達、梅田だった。



 彼とは、たまにオンラインでのやり取りはあったものの……、こうして直接、面と向かって会うのは、もう5、6年ぶりだろうか。


 「おうっ、久しぶりやな曽根ちゃん、どうや?」


 「ん? う、うん。…まっ…まあまあ、ぼちぼちってところ……」


 予期せぬ出会い、おかしいくらいに、どうしてだか僕は動揺してしまう。


 「え!? すぐわかった? いつから後ろにいたの? ……ほんと久しぶりっ!」


 「偶々や、ほら、そこのビルっ、地下のラーメン屋で昼めし食った後、出てきたら……、なんや、見たことあるような感じの兄ちゃんが歩いてるから、ん?っと思て、ああ! 曽根崎や!って」


 記憶の中の彼より、若干肉が付いたようだが、変わりない社交的な陽気さで笑っていた。



 ちょっと間を置いた後、スマホで時刻を確かめると彼は言った。


 「どう? 時間ある? そこらへんで冷たいモンでも飲んで、ちょっと話せへんか?」


 彼とは親友というほどではなかったが、映画研究会でそこそこ親しく青春を過ごした仲ではあった。……特に急ぐ用事もなかった僕は、二つ返事で同意した。




 駅近くにあるコーヒーショップに入り、席に着くと、それぞれ飲み物を注文する。


 僕は、ぐるりと見まわし、こんな店で落ち着くのも久しぶりだなと思いながら、旧友との会話が始まった。


 「で、曽根ちゃんは今何してんの? ああ、先、言うとくと、俺は……懐かしき就活での希望、映画配給会社は全滅で、今務めてるのはオフィス用品の卸……ほんま、まさに、その他大勢のモブ的人生を味気なく歩んでおります」


 そう言うと苦笑いを浮かべて、運ばれてきたアイスコーヒーのストローに口をつけ、ズズズっとすすった。


 「歴史に残る作品を……ぜ~ってぇ生み出す……な~んて夢をほざいてた、あの頃が恋しいわ……いや……もう、遥か昔か……」


 彼のこちらに向ける上目視線を避けるように、肩をすくめて僕は答えた。


 「…………まともな職につけてるだけいいよ……こっちは……バイトだから……」


 言葉の後半は、投げやりになって小さく、電波が届かぬマイクの様に消えていく。


 話の付き合いに応じたことを、ちょっと後悔した。


 「へぇえ……」


 気のせいだろうか、梅田の顔に余裕の笑みとでも言おうか、そんな愉悦が浮かんだような気がした。


 「そっか……そうなんや…。まあ、なかなか景気も厳しいからなぁ……」


 片側の眉がくいッと上がり、面白がる調子を含みつつ話を続ける。


 「……もしや、もしや? 部きっての期待の星として、今頃は宣言通りの御出世で、本の一つや二つでもだしてるんやったら、何冊か買ったろうかと思ったけどなあ。……ハハハ! まぁま、人生まだまだ長いし! これからやな……」


 「……」


 「? なんや? 脚本書くん……止めたんか? ちゃうやろ? ……アルバイトしながらちゅうことは……、続けてるんやろ?」


 「う、うん……、ま、まあ」


 「ええやん、ええやん。分かってるやろ? 継続すんのが一番難しんや、これからチャンスあるよ! 今時、作品出すとこなんて色々あるし! なっ」


 彼の、その励ましに、嘘はなさそうだった。


 梅田は、目に見えて僕の顔色が悪くなったのを感じたのか、ちょっと視線を外し。


 「そうそう、人生なんてどんでん返しの映画よりどうなるかわからん。……今度会うときは、曽根崎先生! なんて言わなあかんかったりして…いや、言わせてくれやっ、そん時は作品にかっこいいサインしてくれよ!」


 ボリュームの上がった笑い声が耳に響く。


 僕はミックスジュースに口をつけ、もう一度ちょっと肩をすくめ、こわばった微笑みで、辛うじて返した。



 クーラーは健気に起動しているが、やや蒸し苦しさを感じる店内。

しばし無言が続き、僕は早々の別れという方向へ、どう舵を切るかを考え始めていた。


 「…………聞いてくれるか」


 完全に上の空で、梅田の発していた最初の言葉を聞き逃す。


 「?」


 僕のその反応を何か誤解したのか、彼は、明らかにわざとお道化たように笑いながら。


 「いやいや、時間の無駄させたらあかんけど……ほんのちょっと、創作活動の参考ちゅうか、なんかのヒントにでもなればいいやん? まあまあ、何のオチもないつまらん話やねんけどな……久しぶりにこうして偶然会えたんやし、まあ、曽根ちゃんに聞いてもらえたら……」



 急に改まった梅田の態度に違和感を覚えなくも無かったが、かまわないよ、と首を縦に振った。この時点、何の類の話なのかさえも皆目見当もついておらず……。


 僕は遠慮なく心から聞かせてと、頷いた。


 ……そうして、明確に同意をした瞬間、契約書にサインをしたこの瞬間。


 後悔……いや違う……。


 例えるなら、間違った列車に乗ってしまった……そんな、わずかに青ざめるような緊張だろうか……上手く説明できないが、何かが胸に圧し掛かったのは確かだ。


 ドアが音を立てて閉まる。


 むろん、この進路は後戻りできない。




 


 テーブルの前の梅田は、表情の失せた顔で話し出した。


 「……たしか、葬式の後の……いや、ちがう、ちがう……えらい立て続けに葬儀があった年のお盆か…………親戚で集まって晩飯を食べてた時や……そうそう」



 例年のお盆より、少し多くの親類が集まった、にぎやかな夕食会。


 少々お酒も入り、取るに足らない話が交わされ、のんびりと時が過ぎる。



 「なんで、あんな話が出たんかなぁ……う~ん……何の気なしにつけてたテレビでニュースかなんか流れてたか……」


 梅田は記憶を手繰ろうと天井を見るが、完全には思い出せないようで。


 「育児放棄とか、虐待とか? まあ小さい子の嫌なニュースが……よくあるやん……たぶん、それきっかけで、子供の育児の話になり……昔はどうだったとか、難病の子供でも人一倍愛情込めて育てる親も当然おりゃ、なんで健康な我が子を無残に殺しちゃう親もおるんやとかな……わかるやろ?」


 僕は頷いた。


 「そんで、いとこのナミちゃんが話し出したんよ」


 梅田はコーヒーを勢いよく一口吸い込み、ゴクリと咽喉を潤した。


 「いやいや、言うとくけど、ほんまに大した話じゃないで……ただの日常っていうか……まあ、たわいもない話……」


 勝手に、あまり話のハードルを上げて、期待をするなよ、そんな意味合いなのだろうが…… 彼の見せる、若干ぎらついた眼とのギャップが、そのように感じさせるのか、なんだか少しこの先を聞きたくない、そんな気持ちがほんの、ほんの僅か沸き上がった。



 「彼女は、ちょっと俺より上かな、結婚して子供もおるんやけど、…俺もあんまり……子育ての事…………あ!」


 突然、彼は自ら話の腰を折るように、言ってきた。


 「あ、そういや、まさか、お前、もう結婚してたりとか?!」


 僕もいきなりの予想外の問いに「無い! 無い!」と慌てて首を振った。


 「ああ、すまんすまん! 俺も……彼女がいなくなってから……全然や……。悪い悪い、なんのこっちゃ、話し戻すわ」

 

 借金の保証人を頼む、話の席かの如く圧迫していた、さっきまでの重い空気が一瞬かき消えた。


 そして僕の頭にも、関係の無い質問がつい浮かんで……口にしてしまった。


 「え? 彼女って野崎さん??」


 「!?」


 言葉を失ったかのような梅田の顔。

 


 「おいおい! 曽根ちゃん! 何言ってんの? それいつの話や? 大学の頃の話やろ? ちょっと付き合った時期があったってだけやん、び、びっくりするわ」


 「そ、そうだね……ごめん……」


 全くもって、つまらないことを言ってしまった。

 梅田に申し訳なく感じた。……彼女にも。





 改めて、彼は話の続きを始めた。


 「ま、まあ、簡単に言うと、そう…あれ、ママ友? 公園とかで同じ年頃の子供とか、赤ちゃんを連れて、自然と集まったりする感じあるやん? その時の話やったわ、たしか」



 全く経験はないが、その舞台の様子が大まかに僕の頭に浮かんだ。



 「ナミちゃんは、どっかのグループにべったりという感じでも、完全に一人でって言うことも無かったらしい、適当な距離感で付き合ってたそうや。そんで、その日もベビーカーに赤ちゃんをのっけて、れいのちょっとした広さの公園に行ってたんや」



 今日は友達のママさんも見当たらなかったので、自分たちだけでベンチに座り、休憩していると、一人の女が近づいてきた。


 よく見ればその人は、時折見かける赤ん坊連れの女性で、今まで一度もグループに加わることは無く、近寄り挨拶を交わすことさえまれだった。



 「その日の女は、赤ちゃんをおんぶしてもなく、ベビーカーも見当たらない、……一人だった」



 肩ほどのくすんだ黒髪で、表情を覆うかのように、シンプルにカットされ、いわゆる……こういっちゃあ失礼だけど、幸薄そうな、暗く大人しそうな女性。



 「まっすぐ、ナミちゃんのベビーカーに近づいて…来て……」



 「赤ちゃんを覗き込んだらしい」



 僕の表情から、言わんとすることをくみ取ったのか、梅田は言葉を足した。


 「ああ、分かるよ。急に変な人が我が子に近づいてきて、何もせえへんと、ほっとくんか? やろ?」


 「変な人……、まで言うと、言いすぎだけど……」


 かなり氷で薄くなったコーヒーを一口含み、また口を潤す。


 「彼女の言うには、平和そのものの憩いの場、ほのぼのした昼下がりの公園やろ? 別に図体のでかい? 不気味な? ボロボロの服着た男が寄って来たわけでもなく、手ぶらの同世代の華奢な女の人や、全く遮ったり制するような…行動に出ようとは、つゆとも思わなかったらしい」


 僕は同意の首を振り、言った。


 「なるほど、……で」


 恐怖映画のワンシーンをどこか隅に思い浮かべながら。


 「びっくりするような、常識はずれの事を不意打ち的にされたってわけか……」




 梅田は、大きく首を振った。


 「いや…ちゃう」


 この時、僕の心に小さなフックが掛けられ、急速に話の展開に引き付けられるのを感じた。



 「え?」


 「ベビーカーを少しの間、覗き込んで、何もなかったように離れていった」


 「そ、それで終わり??」



 梅田は「フフっ」っと冷たい乾いた笑いを見せ間を取った。


 「ハハハ。…………正確に言うと、赤ちゃんの足の方をコチョコチョコチョって言いながらこそばして、キャッキャッと嬉しそうに赤ちゃんが笑うのを見て、離れて行ったらしい」



 僕はしばらく黙り込んでしまった。


 そしてようやく、少し目を丸くして言葉にする。


 「赤ちゃんと二人のママさんの、ほのぼのとした日常のワンカットってこと?」



 「まあな……言ってみたらな……」


 ストローをぐるぐる回しながら続ける。


 「俺は聞いたんや、なんでそんなしょうもない…いや、実際はそう露骨には言ってないで、ハハハっ……そんな普通のたわいもない話を覚えてて、わざわざ今したんやって」


 そうしたら彼女は答えた。


 「言葉を交わしたわけじゃないけど、その女の人の表情が忘れられなかったって」


 「もちろん笑顔を振りまいていたわけじゃなく、鬼気迫るような恐ろしい表情でもなく、どことなく悲しみと微笑みの混ざったような複雑な顔…しとったって」



 僕はつい空想が止まらなくなる。


 今まで、いつも赤子を連れて訪れていた母親が、ある日……一人ぼっち。


 ふと前を見れば、幸せそうな日常を享受している親子連れの姿、……かわいい幼子の顔を見つけ、思わず近づいてしまう。


 そして、何とも言えない複雑な心境で触れてしまう。


 

 不意に不謹慎ながら、僕はスプラッター映画で定番の、血で真っ赤に染まる画を思い描いてしまった。現実の恐怖、締め付けられるような寂しさという本当の恐怖から、逃れるための防御反応か……。


 あわてて嫌なビジョンを振り払って、梅田に言った。


 「きっと、母親にしかわからない……シンパシー? 何か深いものがあるんだって感じ」



 「そやな……」


 返ってきたのは、どこか上の空での返事。


 「細部に神はやどりし……。上質な物語には機微っていうのが重要だし、面白かった…っていうか、興味深かったよ。何気ない日常の行動が、強烈に印象に残るってことあるもん」


 どうした事だかわからないが、僕は、もう、ここら辺りで帰路に就く頃あいだと思った。


 ううん……もう、さっさとここでお開きにして、今すぐ帰るべきだと思った。



 会計のため、腰を浮かせようとしたとき、彼が言った。


 「もうちょっとだけ……続きがあんねん……」


 「え?!」


 「いや……そう……、彼女の話は終わりや」


 僕の頭の中に「?」が浮かぶ。


 彼は時間を確かめる素振りで時計に目をやったあと、顔を上げ僕を凝視する。


 「なんや? 急ぎか? そうか……まあ……すぐ終わる話なんやけど……」


 僅かに躊躇したが、上げかけた腰を、今一度深くおろした。




 「な、な~んだ、なんか面白いオチがあったの? やっぱり……」


 こわばった笑いの張り付いた顔を二人見合わせる。


 「そうじゃないかとは、少し思った……梅田君の持ちだす話なんだから……ハハハ」



 あれ? こんなにこの店、涼しかった……寒かったかな。


 「いいよいいよ、時間あるよ。外の、めちゃ暑いとこ出ていくのは、なるべく遅らせたいもんね、……さあ、…………聞かせて」



 彼はすぐには口を開かなかった。


 何か過去を思い返していたのか、たっぷり時間を取った後、ようやく話を続ける。


 「彼女、ナミちゃんには男の子の……子供もいるって、もう言ったっけ」


 僕はちょっとあやふやに頷いた。


 「晩飯のその席の時、その男の子もいたんやけど、ちょうど俺の席の隣でな……」


 一人でスマホのゲームを大人しくやってたわ。


 「男の子、ヨシトっていうんやけど、勉強もよう出来るきちんとした賢い子でなあ、そのヨシト君が、なんかブツブツ呟いてるんや……」


 何言うてんのかなって思って。


 よく聞いてみると……。



 「こちょこちょしてたんやない」


 「ん?」



 俺はやっと気が付いた。


 「ああ、そうか、ヨシト君もその場におったんや」


 そう、一番ベビーカーの近く、すぐそばにおったのが彼や。



 俺はちゃんと目を合わせて聞いた。


 「へえ、その知らんおばちゃん、赤ちゃんの足をくすぐってたんじゃないのか?」


 彼は大きく頷いた。


 「違う」


 少年はスマホに指先を滑るようになぞらせながら、また画面に視線を戻す。


 ゲームの方に意識がいっているのか? 呟く言葉はとても聞き取りにくい。


 ブツブツ、なにか同じワードを繰り返しているように聞こえる。


 俺はもう少し顔を寄せ、よく聞こうとした。


 「? 何って?」


 「…………」






 梅田はレシートを取って、席を立ちあがった。


 「もちろん俺のおごりや、……時間とらせてすまんな」


 「いやいや、ぜんぜんそんなことないよ」


 どこか地に足のつかないフワフワした心地で、半分、無意識……礼を述べる自分の声も、さよならの挨拶も、何故か別な場所から発せられるよう。


 僕たちは店の外で別れた。



 蒸し暑さを感じることも無く、気づくと家についていた。


 玄関で靴を脱ぎながら「ただいま」と呟くように言う。



 梅田の言った、あの言葉が呪文のように頭から離れない。


 妹を病気で亡くして塞ぎがちになったという少年のつぶやきが。



 返事なんて無いと思ったが、奥からしゃがれた声が返ってきた。


 「……えらく遅かった……の……ねぇ」


 寝たきりの母親だ。



 家という閉鎖空間に戻り、母の存在を強く感じても、今の僕の心に、いつもの重苦しさは無い。


 思考回路は梅田の話にずっと取りつかれている。



 彼の従妹のナミさんが、小さな妹さんとヨシト君を連れた、近所の公園で出会った女性。


 ベビーカーに近づく女性。


 僕の頭の中に完全に再現され映し出される、赤ん坊視点からの見上げたカメラアングル。



 何も知らず無垢に笑う赤子。


 その上に覆いかぶさり、光が遮られ陰る、笑いとも悲しみともつかない……まるで逆さまにも見える騙し絵みたいな、お面が張り付いた不気味な顔。



 「梅田は……どうしてこの話をしたんだろう……せずにはいられなかったんだろう」


 大学の同じ研究会で過ごした野崎さんの件で、酷く動揺していた彼の事を思い出す。


 改めてこの瞬間、まじまじと思い描いた梅田のその顔は、皺が刻まれ、髪の毛もやや薄く、白髪も混じっていた。


 「5、6年だって? ……いいや、もう10年は軽く過ぎてるじゃあないか……」


 年を重ねたことに加え、同じような繰り返しの日々に、恐ろしく速く時が過ぎていた。

 どうしようもなく時間の感覚がずれてしまう。


 「……そう…だ……最後、彼女と会ったのがそれぐらい前……だろ……ったく……」


 卒業後、4年ほど過ぎた時、僕は野崎さんと会った。

 待ち合わせ場所まで行ってみると、……声を掛けられた理由は……ただの相談……相手だった……言わばちょっとした気の慰め相手。

 恋の悩みなどに何一つアドバイスできない僕は、おざなりの言葉で……冷たく……あしらってしまった。

 ……もっと注意深くあるべきだったのだろうか……。



 「…………!?」


 「フフフ……妄想しすぎだ……」


 ガチャン。


 寝室の食器が床に落ちる音で現実に引き戻される。




 僕はゆっくりと母親のいる部屋へ足を運ぶ。


 最近は記憶力も衰え、様々な過去の出来事がごっちゃになってきている。その上、コントロールの利かない感情から……ひどく罵倒されることも……ある。




 僕はコーヒーショップでの、話の最後を思い起こす。



 少年の言葉を聞き取ろう……。


 何を言っているんだ? 一体何を?


 そろりと体を近く……寄せ……。


 梅田は、まるで放心状態でスマートフォンに指を走らせる少年の口元に……。


 耳を……傾けた。



 小さな口から、籠った言葉が、這い出てくる。

 腐った内臓に沸いた無数の蛆が、暗い管をよじ登り、歪な蠅にぬめり生まれ変わりながら、小刻みに震える黒い空洞から、跳ねるように這い出てくる。


 「……クチュ……クチュ…………クチクチュル…クチュクチュル…クチュクチル……」




 僕は信じちゃいない。



 自分だけに突き刺さる不幸の矢を呪い、輝きを見せる他者の幸せを、ふと羨んでしまう。


 愛し合っていたはずが、何処か何かで歯車が狂い、憎しみの言葉ばかりを生み合う。



 閉塞感に押し潰され、耐え切れぬ重荷に、もはや抗う気力もない日々。


 潰れた魂は、汚くはじけ飛び、何かに必死にこびりつくのか?



 呟く女性の姿が、呟く少年の姿が、呟く梅田の姿が、軌跡を描き踊る無数の指先と共に万華鏡さながらグルグルと回り続ける。



 僕は信じちゃあいない。



 薄暗い部屋。


 介護ベッドに横たわる老女の濁った瞳は、何にも反応することなく宙を見据えている。



 黙って見つめる僕。


 「クチ…クチ…ル」


 口にすること無く、『呪』文の言葉が頭の中で繰り返される。



 静かに、ゆっくりと膝を折り、跪くと……。


 穏やかな気持ちで、僕はそっと手を添えた。

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