第2話
あの人はいつでも柔らかな微笑みを浮かべて、朗らかな足取りで私の先を歩いて行く。
隣には並べない。けれど私を絶対においては行かない。
つかず離れずの距離を保って、あの人はいつでもそこにいる。私や彼らを見ていてくれる。けれど、その瞳はいつも、私たちを映しながら私たち以外の誰かを見ていた。
あなたは誰を見ているんですか。
あなたは私たちをどうしたいのですか。
あなたは、あなたの絶対は、あなたを縛るそれは、なんなのですか?
**********************
昼休み。
僕はいつものように本を読んでいた。気に入ったタイトルや背表紙の本を引き抜いては読んで戻して、また引き抜いて、読んで、戻して。残念ながら僕が喰べる対象は本の知識では無いので、そっち方面の飢えは解消されないが、気を紛らわせる事はできる。
「ねえ」
掛けられた声の主には覚えがない。少し…かなり警戒しながら、文面から目を離す。
そこに居たのは昨日旧校舎の東棟で見た一年生の1人。名前は…たしか…有村夏希。一年生の中でも指折りの美少女として有名だ。風紀委員だという事は知らなかったが。
「ソウマだっけ?あんた何なの?」
敵意は少なくはない。けどすぐに噛み付いてくるような感じではない。様子見をしているだけのようだ。
「…具体的に何が聞きたいの」
「あんた本当に化け物なの?」
声のボリュームを落とさずに、周りを気にする様子もない彼女に対し、思わず僕の方が周りを気にしてしまう。幸いな事に今日はいつもに増して図書室を利用する人が少ないらしい。
「…君らと同じような問題を抱えてるのは間違いないよ」
「あんたも…知識?」
「…違う。それと、僕は君らの代表になるつもりも、風紀委員になるつもりもない。僕は昨日旧校舎に行かなかった、そして君らも早々に4人の中から代表を出して僕の事は忘れる。それでいいと思う」
あんなにビクついてたんだ。願ったり叶ったりだろう。すぐに他の3人に連絡をとって、改めて話し合いをすると思っていた。しかし彼女は自分のスマホを取り出したかと思えばリンクを開いて僕に友達登録画面を見せた。
呆然と彼女を見れば、実に愉快だと言わんばかりにからから笑った。
「先ずはお友達から、と思って。
それに、委員長が決定したもの。それを曲げる事は無いし、許されない。残りの3人もそれは分かってる」
「…分かってると納得するは別物だと思う」
「そりゃそうね」
なんて軽い調子で答えてまたからからと笑う。既に先程までの僕への警戒心は限りなく消えているのがわかる。
「でも私、納得しちゃった」
「…今までの会話のどこで…?」
そんな要素、あったか…?
かなり訝しげに見えたのか、別にいいでしょ!なんか…適当に…フィーリングよ!と付け足す有村さんはずいぶん必死に見えた。とにかく早くスマホだして!と押される形で僕は彼女に今まで使う必要性が全くなかったゲーム機を渡した。彼女は慣れた手つきで登録を完了させて実に満足げに画面を見た後僕に返した。寂しいフレンド欄に1人情報が増えていた。
フレンド、友達。ただのカテゴリの名称。しかもそれは僕が登録したわけでもなく、このアプリの開発者が登録すればそこに名前が出てくるようにしただけ。
それを見たくらいで一喜一憂するなんて命知らずにも程がある。
「…君は随分、分かりやすいんだね」
表情が豊か過ぎる。それは僕らのような人にとっては災難の素でしかない。いつ同類に会うかわからない。だから常に隠し隠し、警戒故に表情を殺して生きているのが普通。この様子だと酷い目にあったことはまだ無いようだ。
「あんた…ソウマは分かりにくい!というかもうちょい表情筋鍛えなよ。笑えなくなるよ?」
「それは…気をつけなきゃいけないね」
もう手遅れかもしれないけど。
「さてと、とりあえずソウマには私たちの代表になってもらうわけだし、私や他の3人が喰べる物を知っておくべきだよね。もちろん私たちもソウマの喰べ物知らなきゃフェアじゃ無いけど」
「だから、僕は代表にはならないって」
「じゃあ友達として」
一瞬思考が止まった気がした。
「同じような厄介ごとを持った友人として、共有してもいい情報だと思うけど?」
友達。そのひと単語に、僕は思わず本を落としそうになった。
友人?
「…僕らが?」
「ええそうよ?」
何でそんな不思議そうなわけ?と有村さんが首を傾げた。
「違うの?」
違う、とは言えなかった。友達の定義なんてものは曖昧で、いつからどんな風に友だちかなんてはっきりわからないものだ。だから彼女が僕を友だちと思うなら、僕も彼女を友だちだと思う事に異論はない。
「…よろしく、有村さん」
「ナツキって呼んでね。私苗字で呼ばれるのキライなの」
「わかったよ。ナツキさん」
すると彼女はさん付けされるのがお気に召さないのか少し微妙な顔をした。
「んんん、まあ、…いいか。
見ての通り私は”知識”を喰べてる。私に用事があるときは、この図書室か図書館を探すといいよ」
「…もし何かあればそうするよ」
「さあさあ、ソウマも教えてよ」
「悪いけど、僕は教えられない」
虚をつかれたような、彼女に、僕は嘘偽り無く言葉を重ねる。
「僕は君らの代表にも、風紀委員にも本当に、なるつもりがない。
友達にはなってもいい。けど僕にはあまり近づかない方がいい。
それが僕のためで、君らの為でもあると思う」
僕は多分、普通の人を喰べるよりも、心を痛めず…ただ目の前の料理を食べるように、彼女たちを喰らってしまえることだろう。
彼女はじっと僕の目と合わせた。真剣な表情で、僕の事を見透かそうとしているように思えて、最終的に僕から目を逸らした。
「…そうだね。友だちなら嫌な事を無理矢理聞き出すなんてひどいよね。分かった!
じゃあ私は私なりにソウマとの距離をとることにするね」
またねと告げて彼女は手を振って図書室を出て行った。僕は何もなかったかのように手元に顔を戻して、目に文字列を追わせた。思考を知識でいっぱいにして、意識を本に集中させた。そうしなければ、きっと僕は、彼女を喰べてしまっただろうから。
【閑話:存在したかもしれない回顧録】
「”おおローミオ、あなたはどうしてロミオなの?”」
「…親がロミオと付けたからでしょう」
「ノンNon.私が言いたい事はね、どうしてこのセリフだけが『ロミオとジュリェット』だと浮いて出てくるかって事なんだよ」
素直に首を傾げた僕に、やれやれと肩を竦めたミカドさん。しかし次の瞬間にはホワイトボードを背中に、眼鏡をかけ片手に本、片手にペンを持ちえへん、と咳払いをした。あらびっくりなエセ感たっぷりな教師の完成だ。
「だって考えても見てごらんよ。
あのセリフって、恋煩いの小娘が好きな男の名前を下心たっぷりに呼んでいるだけじゃないか」
ジュリエットのセリフを書いて、わざわざ赤ペンに持ち替えてでかくそれにバツをつけた。日本語の下に英文も書いてある。このひとちゃんと英語もかけるのか、と内心驚いた。ついでに僕のミカドさんへの評価の低さにも驚いた。そうだった。こんな唐突に変なこと言い出す人でも一応主席だった。忘れてた。
「ラブロマンス全否定じゃないですか。しかも小娘って……いや、確かに14歳の女の子ですけど、あんまり年のかわらない貴女が小娘って……。」
「まあ、そんなことはどうでもいいんだ。
恋は盲目と言うものね。度がすぎるからどうかと思うんだけど」
「(偏見……)」
「まあ何にしろ恋狂いの奴なんてきっとどっかおかしい奴らばっかりさ!」
「(偏見だ!)」
「あらミカドったら……」
どっから、いつからいたんですか。姉咲さんがいつの間にか隣のソファーに腰を下ろして紅茶を飲んでいた。
「恋はいいものよ?恋1つで女の子の綺麗になりたいっていう欲望が満たされるんだから。エステ通いより効果的よ。モテ効果抜群。恋する女は魅力的。その辺の男なんてイチコロよ」
ね?と何故か僕に笑いかけてきた。わざとついでに見せつけるように脚を組み直して、膝の上に腕を組み、組んだ腕に胸を乗せて強調して、妖艶に。ドキッとしてしまったのは仕方ないだろう。男なら分かってくれるはずだ。
「そのモテ効果は容姿の美醜に左右されるじゃないか。涼だってその美貌が無かったら喰事には一苦労してたはずさ!というか私は惚れた腫れたの問題をどうこうとか人の恋路どうこうとか言ってる訳じゃないんだよ」
ああ、そう言えばそうだった。恋がどうこうが問題じゃ無かったはずだ。話を戻そうとするミカドさんの態度が気に入らなかったのか、
「あら失礼ね!まるで私が見た目をフルに使って誘惑しまくってるみたいじゃない!」
と腹立たしげな姉咲先輩。
「本当の事だわねぇ。りょーちゃんセンパイこの間も彼女とデート中の歳下の男子と火遊びしておったもんねぇ」
たまたま通りかかった魔女さんがとんでもない爆弾発言。
「カゲロウちゃん⁉その事は秘密でしょう⁉」
ああ、本当だそうだ。
「(出会った当初の何でもできるクールで優しいお姉さんのイメージはいずこ……)」
「ソウマショーネン、現実なんてそんなものだねぇ。りょーちゃんセンパイはあの頃からまったく変わってないよぉ。」
けへへへへ。と女性としてどうかと思う笑い声をあげて、魔女さんが笑っている。そりゃあもう愉快そうに。
「ねええええ。私が話してるのにソウマくん何で聞いててくれないのさ!」
「え?ああ、すみません。興味がなかったので。それで何でしたっけ?」
「だ、か、ら!何でロミジュリでみんながすぐに思い出すのがジュリエットのただロミオの名前を呼んでるシーンなのか!私はそれが大変納得いかないんだ!」
「はぁ……。じゃあ何ならいいんですか」
「よくぞ聞いてくれた!
そこはやっぱり
”A pair of star-crossed lovers”でしょ!
ロミジュリにはプロローグが付いていて、そこに出てくる言葉で2人の事を言い表しているんだよ」
「初めて聞きました」
「だろうね。キミ、ラブロマンスとか読まなそうだもん」
「そういうミカドさんだってラブロマンス読まない人でしょう」
「うん。だってぜんぜん美味しくないもん。けどロミジュリ読んだのは一応これも悲劇だからだよ」
悪気もなくそう言うミカドさんは笑ってホワイトボードを裏返した。
裏に刻まれた言葉は”tragedy”
「…悲劇ですか?シェイクスピアの?」
「んーん、シェイクスピアの悲劇みたいに完成されてもいないし、素人仕事もいいとこな悲劇」
それでも悲劇を知り尽くしてすべての悲劇を飲み下せたら止められるかもしれない。と、ミカドさんは真剣に告げるので、姉崎先輩がまた真面目なふりをしちゃって。と茶化す。けれど気になってしまって問いかけた。
「いったい何を止めるというんですか」
「いつか起こる、望まれない結末。救いようのない物語」
**********************
つかれた。
今の僕の状態はそれはそれは全身全霊でその4文字を体現していると思う。僕は現在やっと自宅にたどり着いて力尽き、制服も脱ぐ余力もなくぐったりとソファーに沈んでいた。
もちろんこうなった理由は様々ある。登下校時にガラと目つきの悪い人にぶつかり睨まれたり絡まれたり、弁当を忘れた今日に限って授業が長引いて昼休みにかかり昼食争奪購買戦争に参加したり。けれど理由の1番を占めるのが、昨日友達になった有村夏希だ。
端的に言ってしまえば、今日1日しつこく付き纏われた。
先ず朝。いつものように教室に入れば、何故か僕の席に座っていた。
「おはようソウマ!今日は友だちを「ちょっと」ありゃ……?」
教室には生徒の目がある。急いで有村さんを連れて専門教室棟へ移動した。勘弁してほしい。昨日図書室で近付かないでくれと伝えたばかりのはずで、彼女もそれに対して理解を示したはずである。
「なんで…!」
「だって納得してないもの。理解と納得は別。それは貴方がよく分かってるでしょう?
私はあなたが近寄って来て欲しくないのは分かった。けど、私はあなたと仲良くなりたいし、あなたに近付いてどうなるかも知らない。なら近付くなって言葉には納得できない」
その後すぐチャイムが鳴り、またねと言って彼女は自分のクラスに帰って行った。
それで終われば良かったが、彼女は1限が始まる前にも僕のところへ来た。目立つから本当にやめてほしいと伝えると、昼休み図書室に来るようにと言われた。ついでに、来なかったら残りの授業時間も付きまとうと言われ、何となく、本人は実行する気がありありと見えたので僕は渋々、了解した。
そして昼休み。僕は購買でなんとか買えたコロネを食べてから図書室へ。昼食を抜いてでも早くここへ来れば良かったと心底思ったのはその時だった。図書室の立て付けがいいとは言えないドアが、今日はやけに、いつもよりも開きづらく、なんとか苦労して開いたと思えば、広がっていたのは本の海。入り口の床から部屋の中心に向かって本は段々高くなり、山になっていた。しかも、山のてっぺんから一本白い腕が生えていた。
僕はすぐに扉を閉めて鍵をかけて、ドアに閉館中のカードを出し、ブラインドを下ろした。
「あ、有村さん?」
声がかろうじて聞こえたのか、本の山がグラグラ動いて、中で誰かが必死に助けを求めているのがわかった。
「い、今助けるから動かないで!」
この本の山崩れたら僕まで埋もれる。それは困る。午後の授業出られなくなっちゃうし。
そして漸く助け出した頃には休み時間は終わっていて、僕はそのまま本を戻すのを手伝った。もちろん話は本を戻しながら。
「いやあ、面目無い」
「別にいいけど……。これ全部喰べようとしてたの?」
「あはは……お腹すいちゃって。喰べながら片付けするね。ソウマは戻ってていいよ?」
苦笑いの彼女。周りに散らばったおよそ100冊に及ぶ本の山。
「……早く終わらせて授業に行かないと」
聞こえなかったフリをして喰事し終わったらしい本から手をつけて戻していく。いくら平穏に過ごしたいからといって、どう見ても困っているだろう女子を置いて授業を受ける気にはなれない。
有村さんは嬉しそうにありがとう、といって、授業の事だけど、と続けた。
「大丈夫だよ。委員長がなんとかしてくれるから」
行儀悪く棚の上に腰掛けて、足を揺らしながら有村さんが悪気も何もなく答える。
「…きみらの委員長ってどんな人?」
それと、ちゃんと作業してね。と念を押せば、やってます。といって、棚に乗ったまま、本を出し入れしている。これは自分が痛い目をみないとやめないだろう。説得する時間が無駄だ。
「委員長?そう…だなぁ。優しい人だよ?」
初対面の印象からすると、僕が抱いたのは狂気なんだが。
「…例えば?」
「うっわぁ…すごく疑ってるね。えっと…委員会に所属してるメンバーは皆あの人に勧誘されたり、危ないところを助けてもらったりして、ついていくことにしたんだ。私や、他の一年生達も。
私が初めて飢えを感じたのはここに入学した日だった。私は好きな食べ物をいっぱい食べた。お腹が痛くなるまで。痛くなっても」
僕は作業の手を止めて、彼女を見た。彼女は手近な本を開いて、目で文字を追い、独り言のように呟いている。
「親しい人…親友たちといると余計空腹を感じるようになって、私はその度治らない空腹感を何とか満たそうとして暴飲暴食を繰り返した。けれど飢えはおさまらないし、体調は悪いし、苛々して仕方なかった。まあ、そんなんじゃ仕方ないことだけど、クラスでは一人ぼっち。親友たちとクラスも違うし、そんな状態になってから私からは近付かないようにしてた。そうしないと、何か酷いことをしてしまいそうだったから」
彼女は朗々と語り続ける。
「2週間ほどしてから…、クラス委員の子が私に話しかけるようになった。彼女は私と話している時とても嬉しそうだったわ。…私は彼女が親友たちよりも美味しそうで、苦痛だったけど。
うちの学校って、そのクラスの成績上位者がクラス委員になるでしょう?彼女は…確かクラストップだった。つまりね、そのクラスの中で1番頭がよくて…つまり、1番」
「…”知識”を持っていた?」
はっと、まるで僕がいた事を今まで忘れていたかのように振り返った彼女は、つい先ほどまでの活発そうな人柄とは全く違う、哀しみを滲ませて、微笑った。
「…そうよ。それで…、私は、”知識”を喰べる化け物だった。
気付いたのは、彼女の”知識”を喰べてしまった後だった。話しかけられるのが苦痛で、逃げてたら追いかけられて、人気の無い所に隠れて、そして飢えが最高潮に達した私は、私を見つけた彼女から、あらゆる”知識”を奪い取った」
彼女は続ける。淡々と、滔々と、過去の記憶を揺蕩うように、まるで唄を紡ぐように。
「何が起こったのか、分からなかった。急に空腹が治って、目の前のあの子は気を失って倒れて来た。訳がわからなくて混乱する中で1つだけ分かっていたのは、私が親友たちにする事を恐れていた何か酷いことを彼女に対して行ってしまった事。だって、あんなにも私は、満たされていたのだから。
次の日も空腹を感じる事はなくて、今まで様子がおかしかったせいで私の扱いに困っていた親達は入学式までの私に戻ったことで大喜びしてた。勿論、私も喜びたかった。素直に喜べた。前日にクラス委員が倒れた時に、青白い顔をして気絶していなければ。”知識”を食べた時のあの高揚感や充実感を快感を知らなかったなら。
学校へ登校して、クラス委員の子がいない事に気付いて、嫌な予感がした。担任が教室に入ってきて、そして、クラス委員の子が衰弱死した事を知った」
淡々と話すナツキ。その姿が痛々しく思えてきて、話を遮ろうとすれば目があった。まるで止めないでくれと懇願しているように思えて、僕は唇をかんだ。
「原因不明の衰弱死。普通なら不気味に思ったりするだけ。でも、私には分かった。私があの子を殺したんだと。遺体に泣きつく母親を見て、私は罪悪感に苛まれた。未だに過ぎた歓喜が心を満たしている事が余計に罪悪感を掻き立てた。泣くことすら許されない。そう思った。こうして言葉を連ねるだけの知識すら彼女から奪い取ったもの。私は飢えを感じるたびに身近な誰かをああして殺して賢くなっていくのかと思ったら、本当に恐ろしくなった。自覚した。どんなごまかしも効かない程に、自分は化け物だとわかってしまった。
私は彼女の墓前で、私は生きてていいのかなと本当に疑問に思っていた。いずれまた、同じ事を誰かにしてしまうと本能的にりかいしたから。
その時。委員長は現れた」
彼女の手が、本の裏表紙をなぞる。目を閉じた彼女の脳裏には、その時の光景が写っているのだろうか。
「”救ってはやれないが存在を肯定してあげる”
あの人はそう言った。私がその手を取った時、とても柔らかく、優しく笑った。
そして気付けば、墓は無くなっていた。
墓だけじゃ無い。彼女が私に話しかけてきていた過去も、私が、彼女から喰べた事も、あの子が死んだ事実も。全部、この世界からそんな事実は消え去っていた。ただ1つ、私の中にだけ生々しく毒々しく存在し続けている」
「…それはキミにとって罰に値する記憶じゃないの?」
「…うん。そうかも。確かに私は自らの罪を覚えている限り、苦しみ続けると思う。けどそれでいい。それなら私は、誰も傷つけないだろうし、あの人は居場所も喰料もくれた。
だから、この罰は、あの人の優しさだと思う。
…変、かな」
「ううん。君がそれでいいと思うなら、それでいいんだと思う。誰も知らない事を、誰かが善悪の判断する事なんて出来ないし、君が無闇に喰事を行わないですんでいるんだから」
「…そうだね。1度最悪の展開を身をもって体験したおかげで、私はこうして本から”知識”を得る事を覚えた。……それももう、限界に来ているけれど」
「え?」
最後の方、何を言ったのかが聞こえなかった。けれど彼女は今朝までの様子に戻っていたので、大丈夫だろうと判断した。
「まあ、そんな訳で、あの人は私にとって恩人に当たる人。他の人たちにとっても近からず遠からずだと思うよ!」
「そう」
思ったよりも重い話だった。コロネ食べなければよかった。美味しかったけど。
「私は、そんな人が連れてきたキミなら信じても大丈夫だと思うんだ。それにあの人は、キミなら私たちを確実に止めてくれるって言ってた。だからさ、風紀委員になって私たちの代表になってよ」
言いたかったのはそれだけ!明るく笑う彼女は、作業を再開した。
「それに、せっかく同じような事情を持ってるキミとなら、気兼ねする必要もなくこうして話せる。委員長は、私たちが普通の人と仲良くなっていくのを、あんまりよく思ってないみたいだから……」
まあ、それは当然だろう。僕らは気を抜けば直ぐに他人の”知識”や”感情”に惹かれる。彼女が過去にやってしまったことのように、いつ手を出してしまうかわかったものじゃない。
「じゃあ噂を流してるのも委員長さんなのかな」
「噂?旧校舎東棟のこと?」
「それだけじゃなくて、風紀委員、特に委員長には近づくなって話も」
「そんな話、知らない。だって、私や他の3人も風紀委員ってことは周知のことだし、けど別に避けられたりしてないよ?」
彼女に嘘をついている様子は無い。本当に初耳な様子だ。
「委員長も、別にクラスメイト達と仲良くしてても何も言わないもん。それに、仲良くするのをよく思ってないって言うのも、またやらかすかもしれないから注意してほしいって意味合いみたいだし」
本当に委員長が?と聞き返してくる有村さんに、僕は噂の出処が気になってた所に、今の委員長の話を聞いてもしかしたらって思っただけだから、気にしないでといえば、彼女はあからさまにホッとした様子を見せた。よっぽど委員長、を信頼しているらしい。
「有村さ…ナツキさん。
委員長さんのこと、好き?」
「うん!」
断言即答する彼女に、僕はそれ以上何も言えなかった。ただたまに世間話をして、黙々と本を片付けてそして授業終業のチャイムが鳴って、僕らは教室へ帰って行った。
【存在するかもしれない回顧録】
東棟のテラスでいつものように寛ぎながらミカドさんがまたもや呟いた。
「”To be, or not to be. That is a question.”」
「今度は『ハムレット』ですか。また気に入らないって話しですか」
この間は『ロミオとジュリエット』で、今回はこれ。シェイクスピアにでもはまっているのだろうか。その割にはサイドチェストに乗っている本は『城の崎にて』や『嵐が丘』、『伊豆の踊子』だ。手に持っているのは梶井基次郎の『檸檬』だ。この人は全くもって脈絡も予兆もなく発言する。
「いいや。今回は逆。このセリフは素晴らしいよね。princeハムレットの内情と状況をよく表している」
どうやらつい最近『ハムレット』を読み直したらしい、と篠遠先輩が教えてくれた。映画まで見たらしい。上機嫌だそうだ。
「はあ……。基準がよくわかりません。前回のジュリエットのセリフだって同じだと思いますけど」
夢見心地らしいミカドさんの機嫌を損ねるつもりはないが、この間の発言はどうかとおもう。
「同じ?どこが?」
少しだけ鋭い視線が飛んできたが、僕は僕の意見を述べさせてもらうことにする。
「”どうしてあなたはロミオなの?”このセリフって、叶わない恋に焦がれているジュリエットの心をよく表していると思いませんか」
「おや、キミはこの間このセリフを聞いて冷淡に親がロミオとつけたからと応えたくせに……。どんな心境の変化かね」
本当に意外そうな顔をされて、心境はちょっと微妙である。
「気になったから読んでみたんです。先輩の言うような偏見的な見方は改善されるべきと思いまして。有名な台詞の善し悪しなんて結局はミカドさんの好き嫌いでしょう」
「ふむふむ。気になったから読むと言うのは良い心がけだよ。私もそこまでされて言われたなら少し見方を変えてみよう」
「ずいぶん素直に……」
「読んでもいないやつが読んだ奴に意見するのは気に入らない。何か言いたいなら、先ず同じ状況に立ってからものを言ってほしいものだよ。その点で言えば、キミは私と対等に語り合う資格をもっている。さて、ハムレットに関してはどうかな?」
「するべきかしないか、それが問題だ。復讐するかしないか。また、生きるか死ぬか。
父親を殺した叔父に対する復讐をするか迷うことと、生きるか死ぬかと言うのは……誤って大臣を殺してしまい、その復讐を受けて死ぬかどうかでしょうか。
確かに、ハムレットの事をよく表していると思いますよ」
うんうん、と満足そうにミカドさんは頷いた。篠遠先輩は静かにお茶を飲んでいる。
「愛や恋には何故だか必ずと言って良いほど死がからむ。死とは愛や恋の使者なのかもしれないね」
「キューピットは死神とでも?」
「この復讐劇の本当の始まりはその愛や恋と言ったものなんだよ。それが前王ハムレットの死をもたらしたという点で言えば、強ち間違いでもないと私は思うよ」
「……ハムレットの母親は、父親が死んで3日くらいで叔父と結婚したんでしたっけ?」
「うん。先王ハムレットと王子ハムレットは尻軽の売女と実の妻、実の母を形容する場面もあるよね。愉快痛快」
漫画だったらケラケラという擬音を付けられそうな様子でミカドさんは笑っている。
「そんなに酷い表現してました?それと……ミカドさん、やっぱり感性おかしくありません?」
「おかしいと思っていられるうちは正常だから安心しろ」
僕の質問に応えた篠遠先輩はいつも通りに本を読んでいるが、何となく遠い目をしているような気がした。
「凄いよねぇ。実の母を売女って!君たちは、父親が死んだ直後に新しい男に鞍替えした変わり身の早い母親をそんな風に罵れるかい?」
「いえ。というか、日本の法令的に別れてすぐ結婚ってできないですよね?」
「君はなんでそうすぐに現実的に応えるんだい?少しは想像してごらんよ。
時代が変われば法律も変わる。母親が明日は別の男の妻になって人目も憚らずにラブシーンを見せつけている。なんて事が起きる世の中はすぐそこかもしれないよ?」
「倫理とか、道徳的に僕はありえない……というか、そう言ったことに嫌悪の感情を持ちますから答えたくないです」
その回答はどうやらお気に召したようだった。
「そう。ハムレットもきっと今君が思ったように、そんな母親の道徳観に嫌悪の感情を浮かべてたはずさ。大丈夫、それは人間として当然の感情だよ。私だって嫌だねぇ。親が離婚して、母親が次の日もう男を家に連れ込んでいたら売女尻軽ビッチ淫売情婦と罵っている自信があるよ!」
「軽々しくそんな言葉羅列しないでください!はしたない‼」
思わず耳を塞いだ。涼しい顔してなんてこと言うんだこの人。
「いやぁ~、読書会って楽しいねぇ」
「3人しかいないがな」
「それを言うなよ篠遠。きゅうに悲しくなってきた」
くすん…と泣き真似までしてミカドさんは自分の席に座った。
「まあ結局ハムレットは復讐者にはなりきれず。けれど皆死んでしまう。叔父も母も愛した女性もその兄もそして彼も。全てはどんな形であれ、愛が招いた死。愛から始まった死という結末」
冷めてしまった紅茶を飲んで喉を潤したミカドさんは、自嘲気味な笑みを浮かべた。
「だから愛なんて、いらなかったんだ。
愛はどんな形であれ死へ導く
恋愛も、親愛も、友愛も、どんな形であれ、愛なんていらなかったんだよ」
「シェイクスピアの四大悲劇ですか……?」
僕は、多分いつもの軽い調子で、勿論さ。今私はハムレットの話をしているんだから。と応えてほしかったのだと思う。
けれど夕陽を背にミカドさんが僕に向けたのは、優しいのに哀しい微笑みだった。
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あなたは他人の事を他人が救う事なんて出来ないと言う。
そう割り切っているのに、あなたにはどうしても救いたい他人がいた。
あなたの心に深く住み着いたその他人を私が羨むのはいけないことでしょうか。
あなたを救いたいと思うのは、罪でしょうか。
私があなたの心を暴いた時、あなたは私をみてくれるでしょうか。
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けたたましく鳴り響くチャイムで目を覚ました。来客者はどうしても出てほしい用事があるのか、ボタンを連打しているようだ。僕が出てくるとわかっているのか、止まる様子がない。僕はため息をついてモニターをつけ、覗き込む直前で音が鳴り止んだ。
そこには誰の姿もない。
あまりに出るのが遅かったから、諦めて帰ったのかと思い、モニターを消して再びソファーに戻ろうとすると、またチャイムが連打される。
嫌な予感がして、恐る恐る、モニターに手を伸ばすと、また音が止まる。腕を下す、音が鳴る。上げれば止まって、下げれば鳴り響く。
チャイムの音が急かすように鳴り響く中で、僕は立ち尽しながらも、何の映像も映らないモニターを見つめる。
分かってる。今、外にいるその人物は、僕の存在を認識している。僕が家にいること、それどころか、僕の様子まで。見えるはずのないものが、見えている。
僕は深呼吸して、じっと見えない相手を睨みつけた。これ以上の動揺は見せてやらない。驚愕も、恐怖も見せてやるものか。
それから数分後、いや数十分後だったかもしれない。音はやっと鳴り止んだ。僕はモニターをつけ、誰もいないのを確認してから、今度は直接ドア横の小窓から誰もいないのを確認して部屋に戻った。
どくどくと心臓の音がやけに鮮明に聞こえる。あらゆる動揺を悟られまいと張っていた気が一気に緩んだのがわかった。
それにしても、誰だったのだろう。深夜2時を回ったこの時間に。悪戯としては悪質だ。僕は一先ず変な汗でベタベタになったのでシャワーを浴びたが、気分までは綺麗にならない。そのまま寝る事なく夜が明けた。
メールが届いていることに気づいたのは学校に着いてからだった。僕は朝のHRを無視して、屋上へと登った。
「やあ。来ると思ってたよ」
そこにいたのはやはり壱岐美伽杜という僕をあの東棟に導いた人物だった。
「……こんなメール送りつけて何をしたいんですか。というか、どうやって僕のアドレスを知ったんですか」
差出人は不明だったが、送り主はこの人だろうと分かっていた。
「”喰べられてしまう前に、喰べてしまえばよかった”。そのままの意味だよ」
ちなみに風紀委員の権利を行使すれば生徒の情報なんて簡単に手に入るよ。と、明らかな職権乱用しかも個人情報の漏洩である。セキュリティの向上を求めたいが、そんな風紀を乱したのは風紀委員である彼女だ。出会った時と同じような笑みを浮かべて飄々としている。
「誰から、誰への言葉ですか。貴方から僕への?それともこれが、あの人からの伝言ですか?」
昨晩の事もあって、僕はあまり余裕が無いのが自分でもわかる。それは僕が、分からないものへの”恐怖”を感じ取っているということだ。隠さなければと思う。こういう時ほどポーカーフェースというのは大事なものだ。僕だって経験からそんな事は承知なんだ。それでも止められない。
彼女はきょとん、と僕を見た。そして手を伸ばしてきた。僕は反射的にその腕を払おうとして、逆につかまれたと思えば、そのまま引き寄せられて、恐怖のためか緊張のせいか固まっていた身体を抱き締められた。肩に預けられた彼女の頭。背中に回った両腕、髪からふわりと少しだけ何か懐かしい花の香りがした。
「っ、何するんですか!離してくださいっ!」
一瞬気分が和らいだ気がして、直ぐに警戒心をあげた。突き放したい筈なのに、何故だか腕は仕事をしない。
彼女は黙ったまま、泣き噦る子供をあやすように背中に回した右手をぽん、ぽん、と一定のリズムで撫でた。僕はただされるがまま、なんとなく、心地よくて黙っていた。
「……ごめんね」
「……それ、いったい何に対する謝罪ですか…」
「ううん。何でもないよ。ただ私が言いたかっただけさ。何でもないよ。……なんでもない」
何でもないと言うくせに、なぜかとても傷付いているように思えた。訳がわからない。僕と彼女はほぼ初対面で、僕は彼女が風紀委員の壱岐美伽杜である事しか知らない。学年も、クラスも、どういった人柄で、なんでこんなことをするのかも知らない。しかもここ数日の僕の厄介ごとはこの人と出会ったことだった。なのに、なぜ僕はこんなにこの人にされるがままなのか。知らないはずなのに。
どうして、知っているような気がするのだろうか。
どうして振り払う事が出来ないのか。
どうして、こんなに安心してしまうのだろうか。
「……貴方は、いったい誰ですか」
彼女はおもむろに僕から離れた。先程までの妙に既体験感のある安心感が離れていく。現実に引き戻される感覚。名残惜しいと思いながらも、手を伸ばしてはいけない気がして、僕は目の前の少女を見つめた。
「誰だったら嬉しい?」
彼女は、微笑った。あの人が笑うのと寸分も違わない様子で!
冷水を頭から大量に振りかけられた気分になった。先程までの絆されたような感覚が消え去り、目の前のこの人を信じるなと頭の何処かが言う。
そうだ、この人は誰だ。目の前にいるこの少女は誰だ。
僕は今、誰と向き合っている?
「…僕は風紀委員にも、代表にもなるつもりはないです」
壱岐美伽杜は少しだけ驚いたように見えた。僕が彼女の命令に逆らおうとしているからだろうか。
何も言わない彼女に背を向けて僕は屋上を出る。ドアが閉まる直前、「気がむいたらおいで」という、なんとも生やさしい声が聞こえた。
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