第3話
得体の知れない何かが駆けずり回っている。胸の奥、腹の底、喉の奥を行ったり来たりしては僕の中を突き回る。
何なんだアレは。何なんだあの微笑みは。あの笑みは、間違いない。あの人の微笑みだ。あの人に重なる。そっくりとかそういうレベルじゃない。まるで、姿が違うだけで、あの人、本人のような、そんな、笑みだった。何てことだ。
まるであの人から奪ったようじゃないか。
「……奪った……?」
待て、落ち着け。そんな筈はない。だってあの人は、3年前に死んでいるんだ。いや、でも、何で彼女はあの人からの伝言を?
それは、彼女があの人と知り合っていたからだろう?
同じ学校だったのか?
いつから関わりがあった?
彼女は、あの日の事を知っているのか?
心臓が重く、息が苦しい。額や手、背に滲み出す汗の量もおかしい。落ち着け、僕。
ここ数日いろんな事があり過ぎて、少し混乱しているだけだ。その筈だ。そうだよ、気分を落ち着かせよう。何か安心できるようなものはないかとポケットに手を突っ込んで、指先に当たったそれを引っ張り出した。かさり、とかすかな音を立ててそこにあるのはメモだ。姉咲先輩が大事にしろと言った、あのメモ。壱岐美伽杜という名前をみるだけで息が詰まってしまうので、もう捨ててしまおうかと思った。
しかしそれを阻むかのように、彼らは唐突に現れた。
「ソウマくんだよね?」
背丈の小さな、子犬か子猫を思わせる可愛らしい顔立ちの少女が僕の顔を覗き込んだ。
小学生と言われても納得してしまう容姿に、けれど小学生や中学生とは思えない雰囲気を持っている。雰囲気だけで言えば、もっともっと歳上の、母やその同級生と同じような不思議な安心感と落ち着きがある。
いつもと違い危機感が仕事をしない。仕方がないので目を逸らせば、少女は大きな目を更に大きくしてその後何かに納得がいったのか、ふふふと笑った。やはり小学生っぽくない。
「そんなに怖い顔しなくても大丈夫。私がいれば、ソウマくんもルイもコウも普通の人だもん」
ふわふわとしている彼女と、その後ろの2人は風紀委員会の残りの3人だ。
「きみに頼みたいことがあるの。一緒に図書室に行きましょう?」
尋ねるように首をかしげるが、その声は断る事を禁じるように、はっきり言い切られたようなものだった。
正直疲れ切っていた僕は、目の前の少女の平和ボケしたような安心感に絆されて、1限が始まるチャイムを聞きながら、図書室へと歩き始めた。僕らは終始無言で、右隣に少女、僕らの後ろを二人の男子生徒が続く。少女は笑顔だが後ろの2人から僕の背中には、嫌なくらいにチクチクとした視線が集まっていた。
「……今日は、ナツキさんは?」
少しだけ、隣の彼女の笑顔に陰りが出来た気がしたが、それもつかの間。扉を開けた僕は促され先に図書室へと踏み入れ、僕と彼女たちは再び対峙した。
「一応、初めましてかな。私は風紀委員1年の小鳥遊灯です。
君を睨んでるのが、工藤光輝くん。それで射殺さんばかりの形相で睨んでるのが冬馬るいくんだよ。よろしくね」
よろしくする気は全く感じられない。勿論ぼくもよろしくする気は全くない。
「……君らの頼みごとって?」
「君らじゃない。アカリが頼みたいと言っているだけだ。俺たちはただの付き添いだ」
「お前なんかに頼らなくても、俺たちでなんとかできるって言ったのに、アカリが」
口々に文句を言い出した2人に対して、小鳥遊さんはにこにこと笑ったまま言い放った。
「私は付いてきてとも、あなた達に解決して、とも頼んでないよ」
感情の無い淡々とした声に、悪態をついていた2人が怯えたのは明らかだった。
「ごめんね、2人が。この人たちとってもビビリで情けないの。いっつも周りを威嚇して虚勢を張ってるだけ。でもかわいいところもあるから許してあげて。躾のなってない犬くらいに思っておけば大丈夫。ぜーんぜん、怖くないよ」
……どうしよう。小鳥遊さんが1番怖い。笑顔でなんの悪気もなく言い放ってる。しかも全部本心だ。警戒すべきは彼らではない。
「えっと……小鳥遊さん。それで君の頼みごとって、何かな」
妙な威圧感のある笑顔が、普通の笑顔に変わった。少し落ち着いて向き合える。
「……ナツキを探してるの。どこにいるか、知らない?」
「……どうゆうこと?」
やっぱり。君にわざわざ聞きに来てよかった。と小鳥遊さんは言って、図書室のカウンターの中から、見覚えのあるアタッシュケースを取り出した。たしかそれに入っていたのは……。
「私たち1年生4人の情報よ」
先日東棟を訪れた際に僕が無視したケースがそこにあった。
「基本的な学校の身体測定時の情報と、能力と、個人的なところまで全部書いてある重要な書類」
すぐそばの机の上に1人ずつ並べられたそれのうち、1部を僕に差し出した。
「ナツキの家族構成の部分を見て」
「それは出来ない。
僕は君らの仲間じゃないから」
そう言い放つことに迷いはなかった。そして僕に向く工藤と冬馬の敵意の目。向かい合う彼女から向けられていたのは、冷たく感情のない瞳だがその奥にあるのは落胆と侮蔑だった。
「……あの人が、私たちの代表に選ぶくらいの人だから、まだ見捨てないでいてあげる。
散々言われたかもしれないけど、あなたが私たちの代表になるのは、決定であり命令だよ。まだ関係ないと耳を、目を塞ぐなら私も言わなきゃ。
これは最初から決まっていた未来なんだよ」
「どういう事。決定とか、命令とか、決まっていた未来とか!僕には関係ない!僕は静かに生きていたのに巻き込まれただけだ!」
そう僕はただ、普通に生きていたいだけだ。学校で授業を受けて、何事もなく友人と笑いあって、放課後や休日は遊びに出て、家に帰れば家族がいて。そんな普通が欲しかった。化け物になって、そんなものは得られないと絶望してからは、それでも、五体満足で、出来る限り他人に迷惑をかけずに……出来るだけ喰わずに生きられれば、それでいいと、そう思って大人しく、静かに、人生が終わるようにって、なのに。
「僕はこの間偶然東棟に行っただけだ!そしたら勝手に代表とか、訳わかんないこと言われて!僕はやりたくないし関わりたくない!
今まで生きていたように生きてたいだけだ!
君らだって!見ず知らずの人間に代表になられるのは嫌な筈だろう⁉」
お願いだから、前みたいに過ごさせてくれ。淡々として、自分が死んでるか、生きた人形のようにただそこにあるだけの生活に戻してくれ。ただシステムのように生き続ける生活を返してくれ。
「何で……!どうして、僕なんだ……!なんで今更あの人の伝言なんてものが出てくるんだっ……!」
込められている感情は違えど冷え冷えと僕を見ていた3人が戸惑っているように思えたが、僕は止まらない。いや、止まれない。いつもならここまで取り乱す前にあれが来てしまうのに、それが無いから余計に僕はいま自分をコントロール出来ない。システムとは程遠い人間になっている。目の前の3人が”コワイ”。いつもと違うことが”コワイ”。僕を何かの舞台の上に放り込んだあの女生徒の笑顔も、友達になろうと近づいてきたあの少女も。ここには無い存在たちも、ここにいる3人も、この空間も、この本の山すらも全部が”オソロシクテ”たまらない。呼吸が荒くなる。苦しい、苦しい、わからない、僕は……。
ああ、助けて。誰か答えをくれ。
「それは、君が”語り手”だからだよ」
今の今まで、非常識な事に本棚の上で眠っていたらしいその人は、あくびをすると、ゆっくり起き上がった。うちの制服を着ているがブレザーの代わりにうす桃色のパーカーを羽織り、フードを目深に被っているせいで目元が見えない。だが露出している口元には笑みが浮かんでいる。よく見ればフードから伸びているのは耳だ。兎の耳。
「い、委員長。いつから、そこに?」
小鳥遊さん達がすぐに顔色を変えて質問した。
「うーん、君らがくる1時間ほど前かなぁ……」
どこから取り出したのか、繊細なデザインのカップに紅茶を注いで、側にはカップとお揃いのケーキタワーを置いて、1人お茶会をしながら答えた。
「ちなみに、どうしてこちらに……?」
恐る恐ると冬馬がそう尋ねれば
「いやさぁ、”司書”が掃除の邪魔だから出てけーって。追い出されちゃったんだよねえ!酷いと思わないかい?私雇い主なのにさっ!」
肩を竦めたり、大きく溜息をついたり、オーバーリアクションをするが顔を隠すフードは捲れたりせずに、けれど耳だけが立ったり気の抜けたように垂れたりと忙しく動き回っている。
「……美伽杜さんですか?」
見えない目が僕を見た。後ろの3人が息を飲んだ。
「うん、そうだよ。私はミカド。この格好で会うのは”ハジメマシテ”かな?」
どうやら彼女が図書館のウサギの声の主であたりのようだ。僕とさっきまで会っていたことは内緒のつもりでそう言っているのだろうか。それとも僕が壱岐美伽杜が委員長だと思っていない事を前提に話しているのだろうか。どちらにせよ、なんでもかんでも彼女の思惑どおりにことが運ぶなんて都合のいいことにさせたくない。
「いいえさっきぶりですね。わざわざ着替えてきたんですか?顔を隠すのには、何か意味が?」
「…そりゃ人には隠したいことの1つや2つあるでしょ?」
「3人と違って僕はあなたの顔を知っているので違和感があります」
美伽杜さんは少し腑に落ちないとでも言うように、口角を下げた。僕の発言はお気に召さなかったらしい。(そんなに隠したいならそもそも僕を風紀委員に入れようとしなければいいんだ。)
けれどそれも一瞬のことで、先程までの愉快そうな笑みが口元に戻った。
「仕方ないなぁ。じゃあこうしようか」
棚の上に上半身を倒したらしい。また姿が消えた。そして現れたのは、あのうさぎの人形だった。トコトコと歩いて、ケーキタワーからプチタルトを引き摺り出し、抱き抱えるように縁に座り噛り出した。
「いやぁ~、やっぱりタルト美味しい。小さくなるとお菓子が大きくなってお得な気がしちゃうよ。けど飽きるし、すぐお腹いっぱいになっちゃうのが難点だよね。君も1つどう?」
緊張感は一切消えていないというのに、空気を読まない行動に、僕は思わず溜息をついた。
全く、この人はいつもそうなんだから。
……いつも?
「さてと…私のことは気にせずに、アカリ達は自分達がしなきゃいけないことするべきたろう?
言っておくけど、ナツキについて、ソウマくんは本当になーんにも知らないよ。聞いても時間の無駄。分かったのならさっさとお行き」
3人は顔を見合わせて、失礼します、と告げて図書室を去っていった。危機感はまだ仕事をしない。しかし警戒しなくてはいけない相手だということは分かってる。この人形、委員長壱岐美伽杜は、僕に害のある人か否か、見極める必要がある。
「有村夏希は、どこにいるんですか」
「…何で私に聞くのかなぁ」
タルトを齧るのが疲れたのか、はたまた別なケーキが食べたくなったのかケーキタワーのプティを1つずつ吟味するように覗き見ている。
「あなたは知っていると思うからです」
「ではなんで知っていると思うのかな」
「あなたは先程、僕はなにも知らないと言った。けれどあなた自身は知らないと言わなかった」
「うん。そうだね。
私は基本的に知っていても聞かれなければ答えない。そして知っていても知ってるよ、なんて言わない。それなら、知らないって事と変わらないよね」
「教えてあげればいいじゃないですか。あなたが僕に、伝言の一部を教えたように」
「ねえ、私さあ……ただ働き大嫌いなんだよ」
「なら何で僕には教えるんです」
「言っただろう?キミは”語り手”だからだよ」
また、訳のわからない事を言う。
「だから、一体何なんですか”語り手”って!一体僕になんの話を読ませたいんですか!」
俯いていた顔を上げて、棚の上をみたがそこには姿がなくなっていた。ケーキタワーも、紅茶のカップもない。あったのは、またメモだ。
”唯一の喜劇”
メモにはそう、刻まれていた。
******************************
彼といる時、あの人は楽しげだ。
彼が苦しい時、あの人は必ず姿を現す。
なのに、
あの人が何か言う度、彼は顔を顰める。
あの人が伸ばす手を、彼はとらない。
それでもあの人にとっては、彼は特別なんだと、いつもいつも、思ってた。
何度手を払われても、
何度言葉で傷つけられても、
何度……憎しみをぶつけられても。
あの人は、何も悪くないのに、彼を抱きしめてごめんねと呟くから。
******************************
昼休み、僕は図書室に向かった。それが日課だから。
決して有村夏希を探すためにここへ来たわけではない。そもそも、探す必要がない。だって僕には関係のない事だ。あの訳のわからない同級生達や委員長など無視して仕舞えばいいと思っている。
「あ、ソウマだ」
そう思った矢先のことだ。また大量の”知識”を喰らっている有村夏希に会ったのは。僕はまた入り口に閉館のカードをかけ、ドアカーテンを閉めた。
散々切羽詰まったようにあの3人に探されていたくせに、本人はけろっとした表情で喰事を続けている。
「どうしたの?」
僕が深くため息をつけば、心外そうにそう言う。
「小鳥遊さんたちが探してたよ」
「うん、知ってる。けど正直どうでもいいんだよね。あの人たちじゃ私を助けられないし」
そう言って携帯の履歴を見せてくれた。うわ、凄い。10分おきに電話と5分ごとに3人のうちの誰かからメールが入ってるうえにアプリケーションのリンクには3桁を超える通知が。見ていて気持ち悪い。というか、助けられないって何のことだ?
「……あー……えっと、返事してあげれば?凄く心配してるし」
「違う。心配じゃない。怯えてるだけ」
迷いのない、はっきりした声だ。妙な確信を帯びた否定を、僕は否定できなかった。
「関係ないことだよ。ソウマ」
その通りだ。僕には関係ない事だ。なのに何でだろう。関係ないと言われた僕は確かに、ほんの一瞬、痛みを感じていた。
「ソウマは?」
「え?」
「ソウマは心配してくれたの?」
どきり、とした。いや、実際はそんな気がしただけ。だって僕は、何も感じない。
「……ごめん」
隠しても無駄なうえに逆に傷つくだろうと確信して素直に謝れば、やはり少し寂しそうに許してくれた。
「しょうがないよ。友達3日目で、キミは私と関わりたがらないし、自分の事を話してくれない」
冷え切った目が窓の外に向いている。そう思えばすぐに、いつもの天真爛漫な眼差しをこちらに向け、焦ったように訂正を入れる。
「あ、勘違いしないでね?責めてるわけじゃないから!ただ私は友だちになったつもりでも、やっぱり日が浅いし…って、何笑ってるの?」
何となく、面白くて。
「……」
「っ……ごめん……」
久々過ぎてなかなかこみ上げた笑が止まらない。最初はむっとした表情だったナツキだが、何か思いついたらしく携帯を取り出し、僕が何をしようとしているのか気付いてレンズを塞ぐ前に、シャッター音が2人だけの図書室に妙に響いた。
「レアショットゲット~!」
直ぐに消してと言おうとしたのに、楽しそうに笑う彼女を見たら、どうでもよくなってしまった。
「ソウマってあれだよね、今までのアルバムとかもぜーんぶ笑ってないよね」
警戒心が、緩んでいなかったとは言えない。それでも、こうも核心をつかれるとは思っていなかった。
「知らなかった?私とソウマって小学校の頃から同じ学校に通ってたの」
同じクラスになった事も、何回かあったんだよ。と楽しそうに語るナツキ。全然覚えがない。
「知らなくても無理ないよ。それから……ソウマはいつも、あの人の事を見てた」
血の気が引く感覚。僕はいま、どんな顔でナツキを見ているのだろう。
「安心してよ、バレバレって感じじゃなくて、本当に、ほんのりあれ、この子あの人が好きなのかな?って思うくらいだったから。ソウマはその頃からなんていうか、いつでもすましたかんじだったよ」
「それ…喜んでいいのかよくわからないんだけど」
「ポーカーフェイスが得意だね!私苦手だから羨ましかったんだ‼」
「わざわざ言い直してくれてありがとう……」
一応褒めてくれたということは分かった。
「常日頃から、私はソウマと話してみたいって思ってたんだよ?けどなんか、近寄りがたくて。今年もまた会えたのが嬉しくて、3人は嫌がってたけど、私は風紀委員になってくれたらなって、思った」
そんな希望に満ち溢れた表情で言われるととても、なんだろう、むずむずする。
「けどソウマが嫌がってるなら仕方ないし、友だちになれただけでも私はすごく、嬉しいよ」
”なんであんたなんかがあの人の特別なのよ‼”
本当に幸せそうに笑っているナツキに重なったのは、髪を乱し涙を溜めた目で僕を睨みつけるナツキだった。幻聴も聞こえた気がする。一体、今の一瞬何が起きたんだ?
「ソウマ?」
「……いや、何でもない」
そう、何でもない。気のせいだ。
「そう?」
それからねー、と話を続けようとするナツキだが鳴り出した電話にサッと顔を青くした。
なり続く着信音。ナツキは青ざめたままだ。
「出ないの?」
弾かれたように携帯を切ってしまった。良かったのか聴けば大丈夫としか言わない。
「…ナツキさん」
「な、に……?」
「どうしたの?」
何かしてあげようと思った訳じゃない。助けてあげようと思った訳でもない。それでも、目の前の彼女を放っておこうとは、思えなくて、自然に口にした言葉だった。
「……怖い夢を見たよ」
気の抜けたような、諦めたような、泣くのを我慢しているような、そんな弱々しい笑みを見た。
「…前に、話した…私が”喰べ”ちゃった時みたいに、強烈な飢えに屈して、手当たり次第に”喰べ”ていくの。始めは私を起こしに来た母親、次にリビングで朝食を食べている父親、私を迎えに来た友だち、通学の途中で会う何人もの通行人、それでも飢えは治らなくて、学校に辿り着いて、また同じ事を、繰り返す……」
「……誰も君を止めないの?風紀委員の人とか」
弱々しく首を振って彼女は続ける。
「委員長が、言うの。
それは私の役目じゃ無いって」
頭の中で浮かんだのは、つい先日の壱岐美伽杜との会話だ。あの人は、学年の代表が狂ってしまった時にしか手を出さないような事を言っていた。しかし、1学年の代表がいないうえに、そもそもナツキさんを引き込んだのがあの人なら、責任を持って請け負うべき事だ。
「でも、それは夢…だよね」
「…うん。そうだよ。夢は夢で……ただの、夢……」
そんな事は分かっているはずなのに、ナツキさんの表情は晴れない。
「…”バク”って、たしか悪い夢を食べてくれるって言うよね。そういうものを喰べる奴は委員会にいる?」
「…ううん。でも、存在はしてるって言ってた」
今にもその目尻から雫をこぼしそうになりながら、彼女は言葉を零した。
本は既に閉じられて、彼女がそれ以上食が進まないのが分かった。
「……ナツキさん」
ごめん。と、僕は言葉を紡げても、やはりそこに感情は伴わなかった。その事に彼女は気付いただろうか。
「僕は、代表じゃない。君を救う立場にいない」
話をして様子を見て、僕の今までの経験からすると、彼女は危険な状態だ。そして僕が取るべき行動は決まってる。
危きものは避けて通れ。薄情だと言われてもいい。臆病者と罵られようが構わない。僕は僕の命を守る為にはそれは1番利口な手段なのだから。
彼女はやっぱり、と言わんばかり…というか、初めから僕の回答など分かっていたと言わんばかりに微笑んだ。
罪悪感を感じた訳じゃない。けれどとっさに口を突いて出た言葉は、言った僕も疑問に思った。
「僕じゃ君を救えない」
彼女の顔が驚愕に彩られた。どうしてと言いたそうな顔。僕をその両目で捉えて、瞬き1つせずに見つめてくる。その目はあまりに真っ直ぐで、僕の方から目を逸らした。
「…うん。……分かってるよ」
そんなことは、分かってた。と、彼女は言った。
その表情から見るに、僕は彼女の琴線に触れてしまったもしくは、首の皮一枚繋がっていた僅かな理性を焼き切ってしまったらしい。
そうして、
「それでも、”貴方がその台詞を言うことは許せない”」
出会って初めて、
「”貴方にだけは、言われたくない”」
彼女の仮面の下が、
「”大喰いなんかには”」
本当の”殺意”...が、こちらを見据えた。
「さんざんあの人を傷つけて、それでも手を離さないでもらえるあんたなんかに!」
気圧されて尻餅をついた。情けないと思ったのもほんの一瞬。それが正解だったと気付いたのは、頭の上を何かが通過し、僕の背後の空の本棚をまるで紙くずかのように潰したからだった。
「ナツキさん!落ち着いて…!」
”暴喰”されてしまったら、喰欲が治るまで止まらない。僕にできる最善は彼女から逃げる事だけ。しかしそれを実行すれば彼女は間違いなく、周りの人間から、無差別に知識…最悪生命を奪い取ってしまう。彼女が見たという夢の様な、大惨事になる前に、きっと委員長が止めるだろうが。ただしあの委員長は、それをあくまで僕を引き込む好機ととらえてギリギリまで出てはこない可能性がある。正直、それでも構わないとは思う。周りが何人死のうがどうでもいい。僕はこれまでそういう風に思って生きてきた。割り切って…生きるために、命を喰べてきた。だからこそ、僕は大喰いとまで言われるのだから。人の命は僕の食料で、それを喰らうことに抵抗も罪悪感も何もない。
けれど目の前の彼女は、どうだろうか。…彼女はきっと、壊れてしまう。それはつまりは初めて、ちゃんと出来た友達を、失ってしまうことと、同じだ。
それに関して、僕はどう思うだろう。僕が欠陥品で無かったのなら、どう思うのだろう。そう考えてしまったからか、僕は一瞬、動きを止めてしまった。
だが新たに迫ってきた彼女から放たれた何かに僕が掴まれる前に、その手を薙ぎ払った…いや、握りつぶして粉々にしたと表現すべきかもしれないが、とにかく、僕を護るように目の前に現れたその人を見てナツキさんが呆然とし、次いで委員長、とこぼした。
それに対して、突如現れた嫌味なくらい飄々とした風格のこの女子生徒は、なにも言わずにナツキさんへと手を伸ばした。
ダメだ。と、直感的にそう思った。
「やめてくれミカドさん!」
なぜ僕がそう叫んだのか僕自身も分からない。ナツキさんを喰べないでください。と、僕はそう言いたかったはずなのに、僕の口から出たその言葉でこの目の前の委員長が止まると分かっていたような気がした。
そしてこの言葉を言い放つ事が出来てもう大丈夫だと思ったのが悪かったのか、なぜか僕の意識はブラックアウトしてしまった。
目を覚ませば見知らぬ天井だった。使い古されたこの表現を使ってしまうくらいには、今の僕は戸惑っているらしい。というか、ここ2、3日よく眠れていなかったせいか物凄く回復した気分だ。何となく頭がスッキリした気がする。
さて、現実逃避はそこまでにして、先程からベッドに横たわっている僕を横から見下ろす影にいい加減触れなくてはならないだろう。ばっちりと目が合っているからもう寝たふりも出来なそうだし。
「あの「意識回復確認、挙動は不審。目視では問題なし」え「心拍数異常無し」」
僕が口を挟む隙を与えずに淡々と血圧や脈の確認果てにはペンライトを取り出して眼球や喉の奥を見始める始末。なんだこれ。口を挟ませてもらえないしやることに理解がおいつかない。とりあえず僕の安否確認を慣れた手つきで行う美少女をこっちも観察する。例の図書館にいた2年生だ。無表情で凹凸の小さい身体の持ち主。姉崎先輩とタイプの違う美少女だ。……いや、なんだこれ⁉僕一体何してるの⁉
「異常確認。精神に大混乱の異常あり」
可哀想なものを見るような目をやめてほしい。
「総合判断、問題なし」
そう告げると役目は終わったと言わんばかりに立ち上がり、彼女の背後に隠れて見えていなかった華奢なドアの先へと消えていった。
なんだったんだ。身体の痛みとかは確かに無いので起き上がる。さて僕がここに運び込まれた経緯は?
頭が冴えているはずなのに記憶は曖昧だ。何故ここにいるのだろうか。なぜ、ここに運び込まれなくてはならなかったのだろうか。この危機感があまり働かない感じ、旧校舎東棟なのは間違いない。
「起きた?」
「起きたね?」
「マヌケだね」
「間抜けヅラだね」
聞き覚えのある声にベッドヘッドの方を振り返れば例の赤と青の双子が笑っていた。軽くホラーなんだけど。
「委員長が呼んでるね」
「委員長が呼んでたね」
早く行こうよと言われた時には両手をつかまれてベッドから僕は下りて彼女たちに手を引かれるままにドアの向こうへと出ていた。
高そうな絨毯の感触を足の裏に感じ、コーヒーと紅茶の香りがその場を満たしていた。以前も見た景色。壁一面の本棚とそれを埋める古今東西の知識。円形のフロアには数々の調度品や大小様々な椅子やソファーが置かれている。
僕の出てきた扉の正面のガラスの机を挟んだ先のソファーに腰掛けているのは、狂気じみたウサギの人形だ。双子が僕の手を離してウサギの両隣に腰掛ける。
その他のメンバーは既にここにはいないらしく紅茶を司書さんが出して下がっていった。
「さてさて、君が何でここに居るかわかるかい?」
「…いえ」
とりあえず、不可抗力でここに来たのは間違いない。
「君が以前ここに来たのはいつだった?」
「4日前に、メモをもらって…」
「君は、1年代表の座を頑なに拒んだ」
「…はい」
そこまでの記憶は間違いなくある。問題はその後だ。
「次の日、何があったかわかる?」
「…特に何も」
「じゃあ次の日は?昨日のお昼ご飯が何だったかでも構わないよ?」
記憶の中に靄がかかっている。気分も頭の中もすっきりしているのに、ここ数日間の記憶はやはり曖昧だ。いつだったかチョココロネを食べた気がするくらいだ。
「…1年生3人にあった記憶はあるかい?」
「僕が代表になる事を全身全霊をかけて嫌悪された記憶があります」
「じゃあそれ以外に何か言われた記憶はないのかな」
チリッと何かが僕の頭の中で焼け付くような感じがする。違和感。そもそも、僕が出会った1年生は、3人だっただろうか。
「…1年生3人とあった記憶っていうのは、この場所での事ですか?」
「うん。そうだよ」
靄がかかった記憶でも、それは違うとわかった。あの日、1年生が座る椅子は4脚あったのだ。最後の一脚には、誰かが確かに座っていた。それは間違いない。気をぬくと頭の中で三脚だったか四脚だったか分からなくなりそうだ。だから、四脚が三脚になってしまう前に僕は告げた。
「その日、この図書館で、僕が出会った1年生は、4人です」
その言葉が靄を払った。
「…答えてください。ナツキさんは、どこにいますか」
僕が事実を述べたことを非常に残念に思ったらしい彼女は、不満そうに言う。
「…会いたいの?」
「はい」
「どうして?」
ウサギは続ける。
「キミは、代表になる気はないし、危険な物は避けて通る。
察しているとは思うけど、あの子は君を喰おうとした。君があの子を見捨てる事を私は責めたりしないよ?むしろ完全にわすれてもらおうと思ったのに、きみって本当に思い通りになってくれないよね
せっかくチャンスをあげたのに」
と悪びれもなくいう。つまり僕の記憶が曖昧だったのは間違いなくこの人のせいということか。方法は…まあ、どうにでもなるか。なにせ僕らは化物なのだから。それはともかくとして、今はナツキさんの事だ。
「ナツキさんは、友だちだから」
それ以上もそれ以下もない。
「会ってどうするの?」
「助けます」
「…喰ってしまえばいいじゃないか」
ただの人形からただならぬ威圧感を感じる。震えそうな手を隠して、僕は彼女に向かって宣誓する。
「風紀委員になります」
人形は微動だにしない。暗に、それだけかと言われている気がして、腹をくくる。
「代表だってやれと言われればやります。その代わり力を貸してください」
沈黙。
「ナツキさんを、助けたいんです」
沈黙。
「僕は、ナツキさんを失いたくない」
「……散々、あれだけ喰い散らかしておいて、ナツキは助けたいんだ?」
「友達ですから」
ただのウサギの人形が、今度は苦しそうに見えた。実際人形の目は鈕なので、感情が映るはずもないのだけれど……何となく眩しそうで、羨ましそうで、妬ましそうで。
やや間があってウサギの手が僕にたいして手…腕?を挙げた。人間なら指を刺す感じかな。
「散々こっちの要求そっちのけにしといてはいそうですかと君の要求飲み込無わけにはいかない。というか飲み込みたくない。
だけど、緊急事態なのは確かだ。
交換条件で手を打つよ。
本当なら嫌だけどね……。難しいから仕方ない。君が得る手足を一足先に与えよう。
スワンプマンを見つけておいで」
ウサギはそう言って不気味に嗤った。
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