第3話

 夕顔と呼び名をつけた日から約三週間、私はほぼ毎日石段を登って社に通っていた。さすがに神の力が混ざっていると思しき桃をおやつに食べさせてもらったり出雲で出会った神々やらここに来たことがある妖怪やらの話を聞いたりさせてもらっているのに荒廃している現世の社を放っておくのは気が引けて掃除をしたり現世の食べ物を渡したり、興味がありそうな分野の話をしたり、と暇を持て余した神様の話し相手になっていた。これまでの人生では考えられないほどの充実した時間。


 それは柄にもなく楽しいという感情を呼び起こさせ、人間を見守ることこそあれあの時の私のように魂があの世に片足突っ込んでもない限り話しかけることすらできないのだという夕顔に同情しつつずっとこの時間が続けばいいのにと願いながら今日もくだらない話を振る。


「ねぇ、『卵が先か鶏が先か』なんていうジレンマがあるの知ってます?」

「いや、知らないな。どういうものか教えてくれないかい?」


年の功、というべきか知っていることも当然多い夕顔の知らない話題を一発で投げかけられた喜びに満たされながら話を続ける。


「説明といっても額面通り、鶏と卵のどちらが先にできたのかっていう問題なんです。西洋の哲学なんかで用いられる話で、循環する原因と結果について説いているような……赤ちゃんと母親、どっちが先にあるのかを考えるようなもので無益ともいえるんですけどね。確か、鶏ではないつがいの鳥が初めて卵を生み出したことが鶏の存在を規定した、みたいなのが額面通りの結論なんです。哲学的に問えばどうこう、みたいなもので」

「なるほど。無意味ではあるが面白い話、というわけか。やっぱり人の子は面白いね。海の向こう、なんてみたこともなければ想像すら出来なかったからとつくにの話を聞くのはやはり面白いなあ。それで、なぜその話を?」


敏い、という表現は適切ではないのだろうが目を細めて見透かしたようにこちらを見てくる夕顔の前では各仕事もできずに自然と胸の内が言葉として紡がれる。これも神の権能なのかと思いながら口は開かれた。


「明確な理由があるわけではないんです。ただ人間でも似たものがあるんじゃないかっていうだけの思い付きがありまして」

「へえ、どんなものかな?」

「『人間が先か嘘が先か』、です」


夕顔は片眉を跳ね上げて声に出さず口を動かして続けて、と促す。興味を引いたことに幾分かの満足感を覚えながら私は語る。ちょっといろいろ拗らせているティーンの話を面白がって聞いてくれる神様が愛おしくて仕方がなかった。


「私は人間はなにがしかの嘘をつかないと生きていけないと思ってるんです。それが良いものにせよ、悪いものにせよ人間は嘘を抱えている。お世辞を言ったり、先のない病人にきっと治ると呼びかけるのはいい嘘かもしれないけれど、きっと罪悪感やしこりが心に残る。犯罪や保身のための嘘はきっと悪いものでしょう、だけど開き直った下衆ならきっと罪悪感なんて覚えないしさっさと忘れ去ってしまう。古今東西嘘をつかずに生きている人間なんてきっとどこにもいないと思うんです。つかない人がいたらそれは狂人か聖人か、いずれにせよ普通の人間より外側にいるものでしょう」


一つ息をついて空を見上げる。雨の中来たはずなのに神域の中は穏やかな日差しが差し込んでいた。


「嘘は人間の形をしているように思うんです。人間が嘘をつくのではなく嘘そのものが人の業であり人間たる所以なんじゃないか、と。それこそキリスト教でイヴが禁じられた果実であるリンゴを食べてしまって胸につかえさせたように今の人間と様々な神話で語られる原初の人間に変わらない部分があるとしたらそれは嘘をつくこと、罪を犯すことだと思うんです」

「ふむ、興味深い意見だ。誰しも自分の心に嘘をつくことはあるからね。素直でいすぎると感情が高ぶるままに相手を呪ってしまったり生きたまま鬼になってしまうかもしれない。とはいえ、君の話を聞いたり人を見て得た知識からするとそれこそ人間の語る物語で悪く言われるのは蛇や狐だし卑怯だったり嘘つきだったりする人間をそれで比喩して指し示す事もあるだろう。確かイヴをそそのかしたのもまた蛇だっただろう?」

「創世記の真偽がわからないのでそこは置いといて童話や説話において語るなら、人間は一番卑怯だから自分達では語らないのだろうと思います。自分たちにとって害のあるもの、農作物を荒らす狐やもともと思考回路の根底に据えられたキリスト教の経典において悪魔のように扱われる蛇など、他のものに究極的な部分の責任を押し付けて被害者面をしているのでは?日本では稲荷信仰がありますし神使として蛇や狐、カラスは語られますがあちらでは基本的に悪魔に連なっていたりしますからね」

「ふふ、なるほど。性悪説のようなものなのかもしれないね。まあ確かに人間の悪性というか獣性は拭い去れないものだ。神としてここで見ているとつくづくそう思うよ。


にまにまと妖しく笑っていた表情から一転人好きのするような笑みにころりと表情を変えると夕顔はすぐに眉を寄せてつぶやいた。


「そういえば、今のひのもとは自殺する人が多いとは言うけど何人くらいかしっているかい?短い命を投げ捨てるのは私は好きじゃないからねえ。贄やら切腹やら特攻やらも好きではないんだ」

「ああ、確かにそうでしょうね、あなたは異様に人にやさしくしているように短い期間でもかなり感じます。去年ギリギリ二万人下回ったとかなんかで見ましたね。うろ覚えですが」


夕顔の要求にこたえてうろ覚えの知識をぽん、と口に出せば目の前のやたら綺麗な顔は眼球が転がり出そうなほどに目を見開いてしまう。そんな顔をしていても可愛らしく見えるのだから、本当に人じゃないレベルで整った顔ってズルいものだ。私にもその美しさの欠片でもあったのなら人生はだいぶイージーモードだったのだろうと思う。そんな不服さが表に出てるのを自覚しつつもつん、と頬を人差し指で軽くつついた。つつかれるままに夕顔は頭を揺らしながら何事か言おうとするかのように口をもにょもにょさせている。


「何かいいたいことでも?」


軽く問えばゆっくりと言葉を選ぶようにして夕顔はつぶやくように話し始めた。


「それだけの人間が思い詰めて、死んでしまうのかい?乱世で忠義を尽くすでもなく、神や妖に捧げるでもなく、自らの意思で?……確か今のひのもとの人口は一億二千万人くらいだっただろう?」

「うん、そうですね」


平然と肯定の返事をしたが以前話した事を覚えていてくれた、ただそれだけの事が少し嬉しかった。


「六千分の一、かあ。きっとこういうと少なく思えるんだろうけど、多いね、とっても」

「ずーっと数え切れないくらいの人を見ててもそう思います?」

「まぁ思うよ、確か縄文時代、今呼ばれる時代の早い頃はそのくらいしか人口が居なかった筈だしね」

「いっそそのくらいなら人がぶつかり合って戦わなくても日本人は発展していけたかもしれませんね」

「それこそ無理な話だ、満足な食事をとって広々と暮らしていればいずれ子供が出来る。それに子供が死にやすい時代は今と違ってどんどん産んでたから仮に二万人の男女のうち五千組の夫婦が出来て3人ずつ産んだら一万五千人人口が増える。そうして直ぐに場所や食料が足りなくなって戦を始めてしまうんだ」


そうして呆れたような表情をしてその美しい神様はそれでも、と続けた。


「それでも私は人の子が好きだ」


そう言って浮かべた微笑をたたえる横顔が綺麗で思わず黙り込んだ。顔の美醜だとか表情の作り方なんて言う問題ではなく、ただその在り方のようなものに惹かれてしまった。沈黙を取り繕うようにいつもの呆れた顔を作って小生意気なことを言って見せる。


「そんなに愚かで馬鹿なものが好きなんて正気ですか?」

「正気だとも、だって人の子の信仰があってこそ今の私たちは存在を許されるわけだし、完璧でないからこそ愛おしいのさ」

「うわあ、趣味が悪いですね」

「まぁなりぞこないとはいえ神でありかつては人だった。道真公のように死ぬこともなく生きたまま、ともなれば多少ゆがむことはあるだろうよ」

「人が生きたまま神になるなんて世も末ですねえ」

「それならこの国はずっと末だよ、妖怪も神も境がないから八百万も神がいるんだ」

「まあそれはそうなのですけど」


なんとなくの苛立ちをぶつけるべく人だ、という割にいつも白すぎるほどに白いその手を摘まんでやった、ところで払い落とすように手放す。


「いたっ、抓っておいて払い落とすなんて酷いじゃないか!」

「え?ああ、すみません……」


ただ、抓っただけだ。だが彼の手を抓った指先が凍り付くかと思うほどに冷たくて、冷たくて払い落としてしまった。まだ冷えている気がする指先をこすり、じっと見つめていれば頭にふと浮かんだ言葉があって口から例のごとく漏れだした。


「まさか天然物のコールドスリープ……?」


その言葉に目の前の冷え狐は首をかしげる。


「こおるどすりいぷ、ってなんだい?」

「ああ、ええと日本語にすると冷凍睡眠って表すのですが、瞬間的に冷却してその体を生かし続けることができる技術です。もっとも生きた人間に実用化されてはいないはず、ですけど」

「なるほど、眠らせることで若いまま何年も先を見れるというわけか。人間は不思議なことを考えるね。それでそれが何で僕に関係が?」


理解していないような顔の夕顔が暑さを苦手として神域内の体感温度を下げているのもこれが無意識的に作用しているのかもしれない、とおもいつつ私は語った。


「夕顔が人間のままの体で死なずに生き続けるなら体が変質する過程でコールドスリープにほど近い状態になって一定の時間で固定されてもおかしくないなと思いまして。あと、あくまで物語でよくあるパターンですがコールドスリープが不完全なものだったりすると目覚めた後急速に老いて老衰で死んだりするんですよね。生きたまま神になったのなら神でなくなったとき、そうなるかもしれませんね、と思いまして」


そう言ってちらりと夕顔をうかがうとぽかんとした顔をしていた。


「夕顔?どうしました?」

「ああ、いや。それは的を射ているかもしれない」

「え?」


想定外の言葉に目を瞬かせる。


「私が人間のころ住んでいた村はね、とあるものが数年、あるいは数十年単位で現れるんだ。それを食べると不老不死になれる、しかしそれを食べずに一定期間が過ぎると一気に止まっていた時間が進むようにして死んでしまうんだ。私もそれを食べたことをきっかけに神になった。……確かに納得はいくね。老いれば人は病に罹りやすくなり、しまいには老衰で死ぬ。なんの代償もなく傷一つつかない不老不死に人間の手が届くはずがない。そんなのは神の領域だし、単に傷や病を治したり長命になるにしたって鬼や妖の領域に片足を突っ込むことになる。人のままで、と考えるなら肉体が進まないようにするのは一番簡単な方法だね」

「なるほど、でもそう考えるととあるものとやらを食べ続けるメリットこそあれ食べないメリットがないですよね。なんで村の人たちは食べなくなったんです?」

「さあ。もう覚えていないよ。このしらがをみてわかるとおりもう爺さんだからね」


ほけほけと笑う顔はどう考えても二十代、盛っても三十代の美丈夫だからそんなことを言っても説得力のかけらもない。なにかそのとあるものについて調べてやろう、と頭の片隅にメモをした。


「そういえばなんで私は夕顔なんだい?名前の由来があるなら教えてくれ」


私がぼんやりしているうちに夕顔は話題を変えようとしたのか質問を投げかけてきた。


「その白い髪といい、神様なのに怪異に捕まったら即死しそうな雰囲気といい、夕顔以外の選択肢はあってないようなものでしょう。もしあなたにとって怖い存在があるなら宛ら六条とでも名付けなくてはなりませんね」

「ひどいなあ、怪異の一つくらいどうにかできるよ。それに私にとっての怖いものは私と同じ実力だからねえ」


ぼんやりとした笑顔を浮かべる夕顔は綺麗なのにどこかかわいらしく見えて頭を振って必死にその考えを打ち消した。そろそろ帰ろうと荷物をもって立ち上がると夕顔は呼び止めてきた。珍しい、と思い顔を向ければ能面のような無表情で端的に一言だけ告げた。


「怖いものがくるから明日はここに来てはいけないよ」


その一言を最後に神域が閉じて、夕顔も、あたたかな陽気も消えて雨上がりの匂いがする境内に私は立っていた。困った、明日はどうしてもここに来たかったから、ああいわれても来ない選択肢は作れない。境内で本を読むだけで神域に行かないように呼びかけなければいいか、と決めて私は石段を下り始めながら考え事をする。


わたしはきっともし彼に出会ってなかったら私は年間二万人前後の一人になっていた。ただそれが恋なんてものに変化すると誰が思うだろう。つい先日彼に思いの欠片を吐き出した日のことを思い出す。


「神隠しってあるでしょう?できないんですか、私このままこの神域にいたいです」


夕顔は目を見開いてから伏せて、呟くように言った。


「……大人になんてならないで、って私が力をつかって願ったりするのは凄く簡単だ。九尾なんて持ち合わせてないし偉くもないけどこれでもここに住まう以上はカミサマだから、大人にならないまま一緒にいることは出来る。だけど私は人間が好きだからそうしたくない」

「酷い、希望持たせて捨てるんですか?」


からかい混じりにそんなことを言えば夕顔はきゅう、と眉根を寄せる。


「……攫ったら、きっと君が後悔するから」

「しません、一緒にいたいって心から思います」

「……死んでも?」

「死んでも」


目を合わせれば悲しそうな顔をした。


「もしかしたら今見せているのは偽りの姿かもしれない」

「ふふ、黄泉の國で死体そのものの姿を見せられても私は逃げません。だっていくところなんてどこにもないですからね」

「私の心はきっと疵を残したままだからここにある。君のことは好きだけど巻き込むのは嫌だ」

「……そうですか。わかりました。でも気が変わったら言ってくださいね」

「ああ」


言葉ではそういっても困ったような顔で笑うばかりで何度なげかけても違う言葉を返してはくれなかった。嘘でも言ってくれたら私は救われるのに。だけどそういう言葉を誤魔化しに使わないところこそ私が好きになった部分だった。


「僕も好きとか言ってくれないんですね」

「そういう意味で君を好きになることは無いからね」

「……嘘つき」

「狐が人の形を取ってるんだから当たり前だろう?」

「……本っ当に最低な嘘つきですね」


その本質が誰よりも人らしいと、そして私を見る目が前と変わっていることを私が一番知っている。

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桃を食べた夏 @Ringoame-kuroiwa

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