2話

 チュンチュンと朝を知らせる鳥の鳴き声が聞こえてくる。

 要塞になっている布団を拳ひとつ分だけ穴を作り、そこから窓を覗き見た。朝だと思いきや、窓を見れば明るさはそれほど無い。早めに起きてしまったことに、勿体無い感覚が心を支配する。拳ひとつ分の柔らかな穴からひんやりと冷たさが襲ってきた。寒くて身動ぐと、布団の擦れる音がする。

 そういえば昨日はハウルさんさんが善意でこのホテルに金を払い、そのままどこかに行ってしまったんだった。

 ぼうっとした頭でハウルさんの感謝を唱えながら、布団に沈みそうになる体を起こす。するっと、あくびが出てきた。

 落ちそうな瞼を開ける為に、洗面所に行って冷水を顔に掛ける。鏡を見ればそこには起きた自分が居た。珍しくもないヘーゼルの瞳が、逆にあのハウルさんの珍しい瞳を連想させる。淡い蒼色の瞳はイギリスの海を思わせる。横に伸びた広大な丘と、切り下ろしたかのような断崖に静かに打ち寄せる、ブライトンブルーの海だ。

 鏡を見始めて数分が過ぎた。流石に自分の顔で時間を潰すのも可笑しい話である。ハハ、と乾いた笑みを最後にキッチンへと足を運んだ。

 キッチンに入って、冷蔵庫に常備されてあった卵と野菜を使って簡単に朝食を作る。そうして出来た分厚いサンドイッチを無心で頬張りながら、私は今日の1日についてぼんやりと考えた。

 考え事は夢のことだった。夢の中で眠るなんてあるのだろうか。右手で再度つねってみるが、やはり痛みはない。昨日と違うのはその右手が痺れた感覚があるだけ。それと少しの痛み。せめてもっと痛ければ良かったのに。マゾではなく、単純に現実なのか夢なのか知りたくてそう願う。

 もしも夢じゃなかったら。そんなことを考えれば考えるほど、底のない穴の中に入り込んでしまった感覚に陥った。

 現実かも、と思うのは何度もあった。

 しかし夢だと思ってしまうことが幾つもあるのもまた事実だった。例えばつねっても痛くなかったり、持ち物を何も持たずに知らない街に居たり、探偵が殺人事件に出るというフィクションでしかお目に掛かれない事があったり。

 不安と安心がごちゃ混ぜになってきたところで、頭を横に振る。駄目だ。これ以上考えると動きたくなくなる。そうなる前に気分転換に出かけようと思った。

 チェックアウトは2日後の10時まで。3日間も泊めてくれるハウルさんには感謝しかない。夢だとしてもお礼がしたいものである。


 赤一色の高級感が漂うロビーをこっそりと抜け、自動ドアの前まで忍び足で駆け寄った。音を鳴らしながら開いた先は、月も太陽も消してしまった暗闇に感じた。外の空気をめいいっぱい吸うと、鼻と肺が氷を直接触れたように寒くなった。この夢は秋が始まった頃らしい。昨日、半袖の人と長袖の人が半々居たのもそのせいだろう。持ってきた少し厚めの羽織りを着ると丁度良くなった。その羽織りに首を埋める。風が少しでも吹けばブルブルと鳥肌が立った。

 すぐ側には街灯が並んだ道があり、ぼんやりと石畳の道をオレンジ色に照らしていた。暗くてよく見えないが、かろうじて『庭園』と見えたので自由に歩いていいのだろう。

 庭園には花は無く、公園とさぞ変わらない原っぱが広がっている。黄緑のカーペットを敷いたみたいで手入れが隅から隅へと施されていた。犬と散歩するのに適してそうだ。何もペットを飼っていないくせに下を眺めてぼんやりと思う。ふと顔を上げた。奥には昨日の昼間に目撃した大きな河が見え、向かいの街の光が人魂のようにボヤッと見える。明かりがあんなにも小さいと街はちっぽけだった。そんな綺麗で暗い道をボーッとしながら歩いていた。

 河沿いの細長い道に近づくと、丁度いい具合でオレンジ色の街灯の光が当たっていた。細道には飛び込み防止の腰ぐらいの黒い手すりが遠くまで連なっている。その手すりを掴みながら河を上から覗きこんだ。

 自分の顔が映りこんだ拍子に、ビクリと肩が跳ねた。目は虚ろで、人形のように何を考えているのか分からない。鏡で見た自分とは全くの別人に見えた。恐らく暗いせいだろうが、驚かせ屋な光の反射である。


 そんなとき頭に蘇った言葉はありきたりな言葉だった。夢はいつかは覚めるものだ。どうしてこの言葉を思い出したのかは思い当たりが今出来たからである。

 どうやらこの夢は悪夢だったらしい。

 突如として、水面に映っていた私の肩の上に手が現れた。ついでに言っておくと、私の両手は自身の横にある。

 つまりは自分以外の誰かが私の肩に手を近づけながら後ろに立っている訳で____。

 そう認識した瞬間、背中に衝撃が加わった。手すりは腰の高さまでしかないので、鉄棒みたいに腹にぐっと押し込まれて1回転してしまう。空中に放り込まれたとき、驚いてすぐに近くの手すりを掴もうとするも、右手が痺れていたが為にするりと抜けていった。途端に、ああ死ぬんだな、と絶望が襲ってきた。

 露出していた肌にピシャン! と叩かれた痛みが走る。冷たい水が服に染み込んできて、寒さで自分を襲ってきた。せめて犯人でも見ようと私は目をこじ開ける。目は犯人の姿を焼き付け、体は必死にもがいた。

 水を含んだ服が重りになっているせいで、上手いことに身動きが取れない。季節のせいで着込んでいるのもそうで、完全に運が悪かった。

 もがいている内に鼻や口の中に水が入り込む。汚いと思って吐き出そうとしたら、また空気が無くなって苦しくなった。何故あの人が私を殺そうとするのだろう。気づかなかった自分が悔しくて仕様がない。歯痒い思いを抱きながら必死にもがき続ける。

 しかし四肢は鉛みたいに段々と動かなくなってきた。誰かが来たという幻覚が見えてくる。その幻覚のおかげで束の間に出来た安心感に、私はあっさりと意識を手放したのであった。




 誰かが話している声が聞こえてくる。聞き覚えがある声に目を開けそうになったが、逆にその声のせいでピタリと止めてしまった。

 嫌な汗がダラダラと出てくるので意気込んで必死に止める。バレたらアカン、の一心だった。

 「じゃあ殺したのは誰なんだ!?」

 「さあ? まだ証拠も揃っていないからな」

 「クソッ!!」

 犯人の張り叫ぶような声がする。そして何故か私が死んだことにされている。第三者の立場だったら面白そうな展開にやめてくれと思うも、その願いは叶わずに儚く散った。

 「しかし犯人は分かった」

 「なっ、本当か!!」

 「ああ。だからみんな、ソイツを捕まえてくれ」

 と言った瞬間にダチョウが走り出したような地響きが頭に響いた。ザワザワとより一層騒がしくなる。男の悲鳴が聞こえてきたので、警察官達が捕まえたのだろう。目は未だに開けづらい状況ではあるが。もちろん鼻をすする音を出すのは許されない。

 「何故俺が犯人なんだ!!」

 「何故かだと? 自宅から発見されたこの人型の紙切れで貴方のアリバイが崩せたんだよ」

 そう言ったハウルさんの言葉には力が篭っていた。自分の為に怒ってくれているのだろうか。そんな淡い希望を抱きながらハウルさんの言葉に耳を傾ける。

 「昨年、男女関わらず若い人に性的暴行を加えたことによって警察にマークされていた貴方は、それを逆に利用した。まず自宅にこの紙切れを貼り、明かりを灯すことによって影を作って外にいた監視官に居たと錯覚させる。そして事前に録音していた音声を友人に繋がった電話に流した。まるで、そこに居たかのように。その間に貴方はパルヴァーさんに着いていき……彼女を突き落とした」

 圧巻だった。ペラペラと出てくるのはどれもしっくり来るもので、さらには証拠入手も「あとは時間の問題だ」と言う。警察官の1人に頼んで、ホテルの方に連絡を取っているようだった。心の中でスタンディングオベーションをしながら、どうにかして現状況を打開出来ないか自分の方で探る。薄目を開けたらバレるだろうか。

 「待、待てよ。そしたら移動距離もあって時間的に無理があるじゃないか!! それに俺とこの嬢ちゃんは面識が初めてだぜ!?」

 ガミガミと噛み付く犯人の遠吠えは負け犬っぷりを表していて虚しかった。それを窘めるように言葉を紡ぐハウルさんはやはり探偵だったのだと思わせる。

 「初めて、か。彼女の記憶を奪い、さらには記憶を本当に失くしたのか確認する為だけに声を掛けた癖によく言うな?」

 その言葉で思わず声が出そうになったが、喉に引っかかりを覚えて留まる。不運が積み重なって胃の中がキリキリと痛み出した。記憶を……失くした? 初めての単語に頭が真っ白になる。憤りさえも出てきた。

 「それに移動距離なら問題ない。今さっき頼んだことが分かってな。彼女と同じホテルに他人名義で泊まっていたんだろう? ホテル以外では器用だったのに三星ホテルの監視カメラとなると不器用になるんだな」

 しかし、頭が真っ白になったことはどこかに吹き飛んでいった。最後の言葉で吹き出しそうになった。腹筋に力を込めて頑張って堪えていると、さらに追い打ちを掛けるように青年が呟く。

 「ちなみにパルヴァーさんは生きている」

 もうその言葉で駄目だった。フハッと口から息が漏れて目を開ける。周囲を取り囲んでいた警察官達はギョッとした目で私を見た。あのとき「嬢ちゃん」と呼びかけてきた犯人も捕まりながら驚いた顔をしていた。

 笑ってしまったのは、ハウルさんの語気が段々と愉快な感じになってきたからだ。楽しそうな雰囲気の時点で「ああ、この人気付いているな」と思っていた。

 しかし何故、死亡確定された私が死んでいないと分かったのか。頭上にハテナを浮かべているとハウルさんが近づいてくる。私の横にしゃがみこんだ。

 「狸寝入りさせてすまない。犯人の顔を知っている君を犯人が分かる前に起こせば守れないからな」

 そう告げながら、茶目っ気たっぷりの顔で覗き込んでくるハウルさんに疑問になったことを伝えてみた。

「だって君、少し動いたじゃないか」とキョトン顔された。意外にも分かりやすい仕草をしていたようだった。なんとなく推理を望んでいたのでちょっぴり恥ずかしくなった。

 だけど死人が実は生きていました、だなんて驚かない訳がない。

 驚いてなさそうなハウルさんにまた問い詰めた。ハウルさんは、ぱちくりと瞬きをして「そりゃあビビったさ」と1言置いた。

 「……以前、感染症が流行っていたのは知っているか? そのせいで検察官はまだビクビクしていてね。確かな調査をしなくなっているんだ」

 それは検察官側の事情だった。今だけだとは思うが、全く酷いものだ。そう言って溜め息をつくハウルさんに釣られて自分も溜め息をつきそうになった。

 感染したくないのは分かるが、だからといって杜撰な調査をしていい訳ではない。

 ハウルさん曰く、ショック状態になったことで低体温になった時に、運が良いのか悪いのか検死官が到着し、勝手に死亡と誤診をしたのではないかと。

 「なるほ、……」

 くちゅん!! とくしゃみが出て、自分の体に今一度感覚が戻ってくる。ついでに言うと、寒さや痺れも戻ってきた。

 右手が痺れているので、左手でハウルさんから渡された毛布を受け取る。警察官が一度来たが、ハウルさんが「事情聴取は後にしてくれないか?」と言ったおかげで、少し落ち着いた。

 溺れたときのあの暗い感覚を今はまだ思い出したくなかった。落ち着いたおかげで、先程の犯人とハウルさんとの会話が頭の中で蘇る。

 「私、記憶を失ってたんですね……」

 ぽつり、と言葉に出すと塞き止めていた感情が一気に溢れだした。お金も電話も知り合いも、この知らない土地にはない。息が苦しいという痛みが『現実だよ』と教えてくれたせいで、次の行き先を考えなければいけなくなった。未来を考えなくていいという甘い夢の中にもう少し居たかった。

 それが甘い考えなんだと落ち込んでいると、ハウルさんは何を思ったのか私の左手を攫った。右手ではなく左手なことに優しさを感じる。右手は、たまたま溺れた時に検査した際、手根幹症候群と言われたことであまり使いたくは無かった。

 それを言葉に出さずともハウルさんは読み取って、こうして優しさを与えてくれている。

 いや、ほとんどの人はこうしてくれるのだろう。でも今はハウルさんだけが優しい人に思えた。他は全部真っ暗で、ハウルさんだけが光のような。ちらりと上を見上げれば、ハウルさんはまた見たことのない新しい表情を出していた。

 その表情は寂しい感情をさらけ出した、反応に困る顔だった。他人の為に痛い顔を出来るハウルさんが、ちょっとだけ眩しく感じた。

 「記憶を喪って悲しいのは君だけじゃない」

 きっと私の家族のことを言っているのだろう。ハウルさんは左手の親指を撫でるようにして、再度私の手を覆う。左手の親指の意味は何だったかと思い出しながら、その日、手を繋いであのホテルへと帰った。

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