推理小説に異常が起きた
くろくろぐろ
1話
目を開けてしまったことに、後悔をした。しかし二度閉じたら変わる訳もなく、残念ながら瞼はこじ開けられる。
最初に、視界に入ったのは茶色一色のレンガの壁、壁、壁、壁、壁。最初というよりは、壁一色しか無かったので次なんてものは無い。
そんなことより、自分が何故座り込んでいたのか、何故こんな路地裏みたいな薄暗い場所に居たのかが分からない。
あまりにも突飛過ぎて、もしかしてこれは夢なのでは、と右手で頬をつねってみる。しかし痛みは無く、代わりに右手の小指以外がピリついただけだった。そこで夢なのだと悟った。
自分は何をやっているのやら。苦い顔をしながら青い空を見上げた。青い絵の具をベタ塗りしたような雲一つない空の中に、一羽だけ声高らかに叫ぶ鳥が自由に感じられる。
先程夢とは言ったものの、薄々現実なんじゃないかと、心の隅では思っていたりする。ただ、夢じゃなければいいのにと漠然に思っていた。
しかし、そうは思ってもハッキリしないのがある意味現実だ。動くぞー、と宥めるように自分を奮いたたせる。
いくらか己の膝に心の中で声援を送り、その場に立ち上がる。また手首から指先までの右手がピリピリとしてきた。
右手に意識を取られていると、ふと耳にザワザワと喧騒が大きくなるのが聞こえてきた。横を振り向けば、大人が両手を広げたくらいの小さな出口から人が疎らに歩くのが見えた。意識は既に音の方へと向いている。
色んな声の合唱で、嫌な音ではあるものの好奇心を擽られた。そんな音に惹かれるようにして路地裏から抜け出すと、そこは知らない人間達がごった返しに溢れかえっていた。
赤い公衆電話ボックスがちらほらあったり、舗装された石畳の地面や、木の枠組みが沢山ある素敵な細長い家が連なっている。その奥には、舟が蟻みたいに小さく見えてしまうくらい、ゆったりと流れる広い河が見えた。
素敵な町並みに見惚れていると、耳に入ってくるのは綺麗な音の、英語とはまた違った言語だった。
そこで頭の中で該当する国が1つ。____イギリスだ。イギリスには来たことが無かったような気がする。はて、GBPは持っていただろうか? 今頃になってお金の心配をする自分が情けなくもポツンと居た。不安になりつつ、私は恐る恐る一歩踏み出したのだ。
最初は知らない町並みにドキドキしていたものの、歩き出せば歩き出すほど、違和感は慣れに変わっていく。
初めて都会に来た田舎者のように、顔を上げながら、多種多様な店をジロジロと舐めるように見ていた。
あるとき、ウィンドーショッピングをしていると、ただでさえ人が多い通りなのに、人だかりが出来ているところを見つけた。大きな通りなので、人だかりが出来ても車一台は通れそうだった。それより、ウズウズしている好奇心は既に、その人だかりに飛びかかりそうであった。物珍しそうに踵を上げ、背伸びをする。しかし見えない。
ふと、耳にキンキン声で「殺人事件だって!!」と興味深い単語が聞こえてきた。人がガヤガヤと騒ぎ囲んでいた原因は事件が起きた故にらしい。
声を掛けなくても、自然と外野から情報が耳に入ってきた。
「また殺人事件だとよ」
"また"という言葉に首を傾げる。野太い声が聞こえてきた。耳を大きくする必要もなく、その大きな声は自ら耳に入ってきた。
「これで何人目だ。ったく、感染症が治まったばかりなのによ」
「えーと? 今週は12人だな」
「……多いなぁ。いくら最近の警察が検挙率高くても数が多かったら意味が無いじゃねーか」
それはそうだ、と心の中で思いつつ、ぴょんぴょんと跳ねながら人だかりの中に混じる。
幾分か押されたり引っ張られたりした。つんのめった足に力を入れ、地に足を縫い付ける。両手は自らぶつからないように少しだけ周囲を押しのけた。抜け出した先は、ぽっかりと空間が空いていた。その中に倒れている老人と、その近くに凛として立つ高身長な人物が見えた。もっと近くで見たいと思って1歩右足を前に出す。ぐぐっと眉間に力を入れた。その人物は若かった。色素の薄い髪を隠すようにキャスケットを被る青年がいた。淡い蒼色の瞳がキラリと光っている。目鼻立ちが整った青年だ。何を考えているのか分からない表情だった。イケメン、なんて言葉がピッタリ合う男である。
なるほど、だから人混みで時々甲高い声が聞こえたのか。一人で納得しながら再度青年へと目を向ける。
青年は屈み込み、仰向けになっている老人の死体を手袋をした細い指であちこち調べているところだった。それと同時に警察官らしき人達も青年と一緒になって死体をくまなく調べている。
まるで推理小説の中に居るかのようだった。今の時代、探偵は主に人探しや不倫調査などが一般的だ。だから珍しい。唯一探偵小説と違う点と言えば、探偵が事件現場を汚さないようにヘアーネットやらマスクやらゴーグルやらと、現場保存を優先にしている点だろう。
じっと眺めていると、青年は立ち上がって後ろに居た警察官の方に歩いた。そしてその警察官に近づいた一瞬、何かをコソッと耳打ちした。
するとその警察官が次第に眉をひそめていく。「おい!!」という怒鳴った掛け声を出し、他の警察官達がどんどん集まり始めた。何故かみんな怖い顔をしていた。そして数十人という警察官達がおっかない顔で一気にこちらを振り向く。ドキリと心臓に悪いそれは、一種のホラーかと疑った。現場に居る警察官に一斉に振り向かれるなんて、早々あるシーンではない。せめて恋愛シチュエーションだったら怖くないかもしれない。そう思うも、そんなことは絶対ある筈もなく、嫌な予感が蠢くように背筋を駆け巡った。
ちらっと元凶の青年を見れば、終始何を考えているのか分からない真顔だった。そんな青年が薄い唇を開く。
『い、け』
読唇術なんていらなかった。簡単な言葉だからこそ直ぐに読み解けた瞬間、気づけば警察官達は私めがけて全力で走ってきていた。
心臓が飛び跳ねて脈が早くなっていく。バクバクと太鼓を叩いて動いている心臓をよそに、体は石化したかのように動かない。その間にも警察官達は迫ってきていた。
怖くなって目を瞑りかけた時だった。
警察官達は真っ二つに私を避けて後ろに走っていくではないか。その不思議な光景に目が点になった。
警察官達の「待てー!!」という声は薬となって、波を打っていたドキドキを落ち着かせ始める。
勢いよく後ろを振り返れば、警察官達は私の後ろに居た男を腕を後ろに回して捕まえていた。痛がる男を呆然として見ていると、横から大きな影がニュッと差してきた。
「嬢ちゃん、心臓に悪かったな」
「え? ええ、まあ……はい」
急に話しかけてきた見知らぬ男性に返事をしつつ、私は青年の方を見つめていた。バチッと青年と目が合う。透き通った淡い蒼色の瞳は綺麗だった。
「おい、嬢ちゃん」と横から心配する声が聞こえてくるも、同じく見つめてくる青年から何故か目を離せない。いや、目を離してはいけない気がした。青年が手袋以外の重装備を外しながらゆっくりとこちらに近づいてくる。
気づけば、人だかりは退いていた。心配してくれた男性もどこかに消えてしまっていた。きっと赤の他人なのと、事件が解決したから興味を失ったのだろう。薄情者とは言わないが何だかモヤモヤした。ハッとしたとき、青年は手を伸ばせば触れられる位置に着いていた。青年の目からは逃げられない。
「……エイダン・ハウルだ。名前は?」
青年の静かな声はスッと頭に入ってきた。真っ直ぐな視線で挨拶が交わされる。そういえばイギリス式の挨拶は目で挨拶をするか、女性から手を出すんだっけ。そんなことを思ったものの、咄嗟に出来たのは目線を返すことだけだった。
「ルイーズ・パルヴァー、です」
所詮夢は夢だ。未だに夢と捉える自分を自分で恨めしく思った。名前と聞かれてすぐに思いついた名前を言うと、青年はジロジロと私のことを見始める。その視線に居た堪れなくなって自然と私の視線も浮遊し始めた。
我慢できなくなり、居心地が悪くて1つ咳をすると、それに気づいた青年は「すまない」と眉をハの字にして謝った。なぜジロジロと見たのかと聞けば、私を見ても全く持って情報が得られなかったと言う。
その言葉を聞いて不思議でいっぱいになった。見るだけで情報が分かるなんて、かのシャーロック・ホームズ以外居るわけがない。ホームズは握手をしただけでワトソンが軍医でアフガニスタンに行ったことを当ててみせた。だが、フィクションはフィクションなのだ。
そのことを言うと青年はクツクツと笑って肩を震わせた。その動作が意外で目を見張る。探偵ならホームズを馬鹿にしたのでムッとするような言葉なのに笑うとは思わなかった。驚いてまたあの淡い蒼色をじっと見つめると、青年は隠すように目を細めた。
「面白いことを言うな。だが分かったことが1つある」
「えっ、なんですか」
慌てて聞き返すと青年は微笑んだ。青年はコロコロと新しい表情を魅せてくる。それに少しだけじんわりと胸が温かくなった。
と思うが否や、その温かさは消え、代わりにまたあの冷や汗の感覚が舞い戻った。
「君、泊まるところがないだろう」
ニヤリと笑いながら首を傾げた青年は、あまりにも直球なデスボールを投げてきた。
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