柳の下の夫婦

水棲サラマンダー

別れ

 村外れの川沿いの道を、一人の男がうつむきながら歩いていた。


 ちょうど日が沈んだところで、これからみるみる暗くなって行くだろう。

 今はまだ、薄明かりが道を照らしていた。


 小川と虫が奏でる音の中に、男の足音が混じった。

 たまに草が風に揺られて、しゃあしゃあと音を立てる。


 いつもなら、この辺りは村人の声が聞こえてもおかしくない。

 けれど、今日は皆、寺に集まっていた。男はそこから抜け出してきたのだ。


 別に、どこかに向かっているわけではなかった。ただ宛もなくふらふらしていた。


 気づけばこの川辺にやって来ていたのだ。

 思い出深いこの場所に。


 男はふいに顔を上げた。


 そこに立っているのは、柳の木。

 垂れた枝が風に揺られて、さらさらと小さな音が鳴った。

 この木は男が小さい頃から立っている。


 川で溺れかけた時も、悪さをして家に入れてもらえなかった時も……今の嫁さんに思いを告げた時も、変わらずここに立っていた。


 よろよろと木に近づいた男は、ゴツゴツとした幹に触れた。

 あの日の嫁さんの笑顔が思い出される。

 あの時は幸せだった。


 けれど……一生忘れないだろうと思っていた喜びも、今となってはどうでも良かった。

 柳はまだ、隣村の寺のものとは比べものにならないほど小さかった。


 幹を思いきり殴ってから痛みに顔をしかめ、また歩き始めた。


 ここから先は村の外。思い出は少ない。


「待って」


 聞き慣れた声に、バッと振り返る。


 柳の下に赤ん坊を抱いた女がいた。


「えっ……」


 小さな声を漏らしたきり、男の目は女に釘付けになった。


 真っ白な着物を着たその女が、男の嫁さんである。


 嫁さんが嫁いできたのは三年前。ついに子供を授かったばかりだ。

 腕の中ですやすや眠っている赤ん坊が二人の子供である。この子ができた時は夫婦揃って大喜びしたものだ。


 男は嫁さんを見つめたまま、動くことができなかった。

 嫁さんが何かしたわけではなく、彼女はただ微笑んでいるだけである。


 男が固まってしまうのも無理はない。

 数日前、嫁さんは子供を連れて旅に出たはずなのだから。

 もう二度と、会うことは叶わないと思っていたのだから。


 男が目を擦っても、瞬きを繰り返しても嫁さんはそこにいた。

 自分の頭を叩いても消えることはなかった。


 男がよろよろと歩み寄る。

 一歩進むごとに速くなり、木の下に来たときにはほとんど駆け足になっていた。


「あなた」


 嫁さんは赤ん坊を男に差し出した。


「抱いてあげてくださいな」


 男はしばらく戸惑っていたが、やがてお包みを受け取った。

 腕にずっしりと重みがかかる。

 驚きながらも首を支え、男は自分の子供を抱くことができた。


 赤ん坊はすやすやと気持ち良さそうに眠り続けている。それを見つめていると、男の口の端が上がった。


 男は体を揺らしながら、子守唄を歌い始めた。


 村に昔から伝わる、子供の成長を願う歌。

 歌の中で、子供はすくすくと成長していく。

 ハイハイをしていたかと思えば辺りを駆け回るようになり、親の手伝いをし始め、やがて立派な大人になる。


 歌っている男の目には涙が溢れ、だんだんとこぼれてお包みが濡れた。

 歌い終わる頃には、歌詞なんて聞き取れなくなっていた。


 男は子供を抱きしめて子供のように大泣きする。人気のない河原に泣き叫ぶ声が響く。

 嫁さんは男の背中を優しく、優しく撫でていた。


 男が落ち着くには時間がかかった。


 やっと涙が収まり始めると、赤ん坊の髪を一撫でしてから、男は嫁さんに赤ん坊を返した。


 二人は柳の根本に座る。


 嫁さんが話しかければ、男はうんうんと頷く。男が話せば嫁さんが笑う。

 笑いながら、たまに涙を流しながら、二人はひたすら話していた。


 かつて、結ばれる前はこうして話すことも多かった。農作業の合間を縫ってはここで談笑していたものだ。

 しかし、最近は延々と話している余裕など無かった。

 二人の時間は少年少女の頃へと戻っていた。


 話題が途切れることはない。いつものように、誰かに怒られるまではずっと続くと思われた。


 けれど、男も嫁さんも分かっていた。

 この幸せな時間はそう長くは続かない。

 柳が隣村のより大きくなるまでどころか、夜明けまでも続かない。


 男はふと、真剣な表情になった。

 それを見て、嫁さんも笑い声を止めた。


「頼む。俺も一緒に連れていってくれ」


 嫁さんの旅についていけば、二人がここで別れる必要もない。

 夜が明けても、柳が大きくなっても、いつまでも一緒にいられるのだ。


 嫁さんは目線をスッと下げると、自分の手の平を見つめた。

 悩むように手の平から赤ん坊、自分の胸元へと視線を動かしていく。


 お包みを隣に置くと、嫁さんは男の右手を両手で包み込んだ。

 男は驚いてビクッと肩を震わせたが、嫁さんは離さなかった。


「ダメです」


 男は左手で嫁さんの手を掴む。

 嫁さんの言葉には決意が宿っていたが、それでも譲るわけにはいかなかった。


「お前がいなかったら、俺が生きていく意味なんてないんだよ!」


 男が叫ぶと、嫁さんは泣きながら笑い出した。


「知ってますよ……知ってるよ、何回も聞いたから」


 嫁さんの口調が変わった。二人が少年と少女だった時の話し方。


 嫁さんは男の背中に手を回す。

 子供にするように、ポンポンと背中を叩いた。


「私がここに来たのは、一緒にいたかったから。一緒にいきたかったから」

「なら!」

「でもね、ダメなの」


 嫁さんはギュッと男を抱き締める。

 男の手は背中に回されることなく、ただ震えていた。


「顔見たら、やっぱり連れていけないよ」


 嫁さんが離れ、再び男の目に嫁さんの瞳が映る。

 涙と決意を湛えて、いつものように輝いていた。


 嫁さんの決意が堅いことは、男が誰よりも知っている。諦めるしかないのだと理解した。


「……でも」

「私と、それからこの子の分、しっかり頑張ってね。見守ってるから」


 嫁さんは赤ん坊を抱き抱えて立ち上がる。


 一緒に立ち上がった男の肩に、柔らかい手が置かれた。

 その手からぬくもりが感じられることはなかったが、じんわりと伝わってくる温かさがあった。


「……分かった」

「ふふっ……。頼むよ!」

「ああ、任せろ」


 男は赤ん坊ごと、嫁さんを抱き締める。長く、長く。


「もうお寺に戻って。振り返らないでね」


 嫁さんは、男が歩いてきた方向を指す。

 男はなかなか足を動かせないでいたが、嫁さんに背中を押されると歩き始めた。


 振り返りかけて、やめる。


 嫁さんとの最後の約束だ。


 虫の声や風の音の中で、ちゃぽんと水の音がした。

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柳の下の夫婦 水棲サラマンダー @rupa_witch

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