中
その日の公演が、二度目の終わりを迎えた頃──だから、二〇時を少し過ぎたあたりだったろうか。
「…………」
彼女がいない。テントのどこにも、移動車のトラックのどこにも、キャンプ地としたこの周辺に姿が見えない。
おかしい。
彼女は、サーカス団長の一人娘。レーヴ・サーカスのことを愛している。しかも、公演が終わると演者全員に必ず声をかけて廻る。なのに、今終わったときはそれがなかった。
こんなこと、初めてだ。おかしい、どう考えても。
「キャアッ!」
「……ん?」
なんだ、今の。胸のざわめきが、ぼくの聴覚を研ぎ澄ます。
「クソアマ、静かにしろっ」
「おい、ちゃんと押さえつけとけ!」
彼女の悲鳴に、やさぐれた男二人のひそひそ声。それが向こうの林から聴こえた。
考えなくともわかる。彼女の身の安全が
「あっちだ」
ぼくは、彼女の声がした方へと走り出す。
「助っ、た──んんんっ!」
「ッラァ!」
「おい殴るな、顔に傷は価値が下がる」
「チッ。忘れてたぜ。うるせぇからつい」
「ん、んんっ」
「このアマ、この期に及んでまだ……」
「おい、コイツ義足だぞ」
「なんだよ劣等品じゃねぇか、ダメだ。これじゃ買われねぇ」
「クソ、フツーの
「んん、んーっ」
「チッ、こうなりゃやることヤってから処分し──」
ドズン。
鈍い音がした。
「──え」
崩れ落ちる、太った男。あまり良さそうな服は着ていないが、宝飾品として高価そうなものをところどころに着けている。
そいつが、草原にうつ伏せに崩れ落ちた。
「はあ、はぁ、はあっ」
手にしていた、抱えるほどの大きな石。それをぼくは、ドザ、とその辺に放る。
「な、誰だテメェ!」
向けられるは、ダガー状のナイフ。コイツは細い男。頬が痩け、隙間だらけの汚ない歯が覗く。暗がりでもわかる、コイツのギラついたまなざしは、何人か人間を殺ったことのあるそれだと
「はあっ、はぁ、返せ、はぁ」
格好悪く、呼吸が調わない。
「ぐっ、見られたからにゃテメェも殺してやるッ!」
ミシ、ミシ、草原をそうして踏み込んでくる細い男。
「──返せ」
でも、ぼくは怖い気持ちと怒りの気持ちが混在していて、興奮していたんだ。
「ウラァ!」
「っぐ!」
ダガーナイフが左腕をかする。右に避けて、草原に転がされた彼女をかばうように動いたためだ。
「逃げろアサミ」
短く小さく伝えて、ガチガチと震えている彼女を立たせる。
「は、はう、あ」
「逃げろッ!」
「背中がら空きだぜー!」
細い男の声。投げつけられたナイフ。速い。避けられない。
「アサミっ」
ぼくは彼女を抱いて草原を転がり避けた。
ザグッ。
ダガーナイフが地に突き刺さった。細い男はその身ひとつになる。
「なっ。チッ!」
「走って!」
転がったことで、彼女はなんとか立ち上がることが出来たようだ。ぼくがそう叫ぶと、テントの方へヨロヨロと足を動かした。
「クソがっ」
細い男はダガーナイフを掴んで、引き抜き、林の奥へと逃げていこうとする。
「…………」
許さない。そう思った。ぼくは、アイツを許せない。
知らぬ間に、さっき捨てた石を両腕で持ち上げ、駆け出していた。あっという間に追い付いて、細い男へ体当たりをかます。
「ぐっおぁ!」
草原に、顔から突っ込み横たわる細い男。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
「なっ、なんだテメェ! もう用はねぇ!」
「はあ、許、さない、はぁ」
振りかざす、大きな石。
「や、やめっ」
歪む、細い男の顔。醜い。なんて醜い。
「ゴミ掃除」
ぼくは石を、その醜い顔面へと振り落とした。
ズシュア。
「…………」
持ち上げる、その石。
もう一度、振り上げて落とす。
ズシュア
グチュア
グヂュ
「…………」
終わり。
掃除、終わった。
「フ、フフ」
彼女に恐怖を植え付けたゴミなんて、死んで当然だから。ぼくが片付ける。彼女から笑顔を奪うものはぼくが全部片付ける。
さっきの太った男も、もう息はなかった。だって、ちゃんと後頭部が陥没するようにザックリと石を圧し込んだんだから。
大丈夫、起き上がらない。このクズ二人は、ちゃんとゴミになったよ。
ゴミはゴミ箱へ棄てにいかなくちゃ。
明日にはサーカス団ごと、ここを離れる。
これからこのふたつのゴミを、棄てにいかなくちゃ。
「…………」
ゴミを触るのは
「よいしょ」
臭いゴミ。生臭い。錆び鉄の臭いがする。イヤだ、鼻につく。
それでも、ぼくが出したゴミだから。ゴミの腕を引き摺って、林を抜けたそっちの
「洗ったら落ちるかな」
ぼくの体に付いてしまった返り血。イヤだなぁ、クズの血なんて。
草原を戻るぼく。太った男、一人で運べるかなぁ。
「──ガクヒト?」
ぼくを呼ぶこの声。彼女だ。
「アサ、アサミ……アサミ!」
駆け寄るぼくを見て、彼女はヨロヨロと二歩だけ前へ出て、だけど、止まった。
「怪我、してるの?」
「怪我じゃないよ、大丈夫。なんとかやっつけといたよ」
駆け寄って、手を伸ばそうとして、ぼくもピタリと動きを止めた。
「あ」
手が、血まみれだ。
おかしいな、そんなに血、浴びたような感覚なかったのにな。
「殺したの?」
震える声で、問われるぼく。彼女のまなざしが、恐怖を語る。
「違うよ、死んでしまったんだ」
「違わないわ! ガクヒト、あの石持って追っかけてったじゃない!」
「武器だよ、武器。護衛武器さ」
「そんなに血まみれになる護衛って、なによ?!」
身を縮める、彼女。
「まだ怖いの? もういないよ、大丈夫。悪いことするやつらは、もういない」
「あなたが殺したからいなくなったのよ!」
「アサミ、ごめんね。怖いものはもう──」「やだっ!」
え?
目を見開くぼく。現状把握ができない。
手を、払い除けられたようだ。払われた手を、ぼくは見つめる。
「人を、殺して、愉しそうな人に、触られたくないっ!」
「愉し、そう?」
彼女をぼうっと眺めるぼく。
ガタガタと震えて肩を縮めている彼女。
どうして、ぼくの手を払い除けるの?
どうして、ぼくを怖がるの?
ぼくは、きみを助けて、きみを恐怖に陥れようとしていたやつらに仕返しをしただけだ。
「もう、ガクヒトと一緒にいられないわ、私……」
「どうして? アサミ、どこかへ行くの?」
「違うわ」
ピシャッとした返答。ぼくを悲しく睨む、彼女のまなざし。
あぁ、なんて鋭利なんだ。
ぼくは初めて罪悪感を胸に抱く。
「じゃあ、どういう……」
「あなたが出ていくのよ、ガクヒト」
◇ ◆
太った男の遺体も、やっとのことで引き摺って川縁へ投げ棄てた。棄てる前に、高価そうな宝石の類いを全部頂戴して懐へしまった。
「すぐ、骨になってくれたらいいのに」
あり得ないんだけどさ、と、心の中でひとりごちて。
「体、どこかで洗いたいな」
川の上流の方で、洗えないかな。ぼくはそうして川縁をただまっすぐに辿り歩いた。
悲しみは、歩きながら沸々と湧いてきた。
彼女が放った、最後通告。あれほどぼくの心を砕き散らす文言はない。
彼女は、ぼくのことを好きじゃなかった。
ぼくは彼女のこと、すごく好きなのに。
危険から護ったのは、ぼくなのに。
それでもぼくへ、ありがとうなんて言ってくれなくて。
「『ガクヒト、ありがとう』、『私を助けてくれて』、『あなたは命の恩人ね』」
自分で言ってみたって、虚しいだけだった。表情筋は、やっぱり死んだままだ。
「『ガクヒト、愛してるわ』」
言ってもらいたかった、たったひとつの言葉を口にしてみる。
「…………」
足に力が入らない。ぼくはその草原に横たわった。
「なんの意味もない。アサミが愛してくれないんじゃ、ぼくは、なんの意味もない……」
あぁそうか、だから団長は、ぼくに
面白おかしく、ご主人さまを笑わせるだけの役割──それが
ぼくのご主人さまは、彼女だったから。
「フフ、フハハ……」
おかしくて、泣けてきた。笑ってるのに、両目から涙が流れるんだ。
どうして? ぼくが
教えてよ、アサミ。
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