第2話

▼嘉永7年(西暦1854年)2月頭 日本橋浮世小路 料亭・百川


【老中・阿部正弘からじきじきに饗応の指令がここ料亭・百川にくだったのち、一月の終わりから今の二月頭まで、この日本橋浮世小路界隈はひっそりと静まり返っています。いつもならこの店へ足しげく通う通人たちの影も、今では一切ありません。それもそのはず、この間ずっと百川は玄関も表の戸も閉め切っています。にもかかわらず、百川の店内に一歩入ると、店の者総がかりで上を下への大わらわ。ペルリ、ペルリ、横浜、横浜、の大合唱のよう】


年増の女中  「お花ちゃん、お花ちゃん。お花担当のお花ちゃんはいる?」

若い女中   「はいはい、ただいま」

年増の女中  「さっき言った、菊と紫蘇と蕗の用意、もういいね?」

若い女中   「え、えっと。すみません。菊はあちらの蔵に、蕗はまだ。あとは」

年増の女中  「紫蘇、紫蘇は?どれも今日の午後には横浜に持ってくって話だったろう?」

若い女中   「え、ええ、えっと」

年増の女中  「まったく、ああ、もどかしい。どうなの?もういいわ、私がやる。あなたは向こうの包丁を手伝ってちょうだい。鯛を一生分さばけるから」

若い女中   「すみません。椿は向こうで採るともおっしゃってました」

年増の女中  「誰が?」

若い女中   「え、えっと、誰かというと」

年増の女中  「わかった、もういい。それなら早く言ってほしかったわ。小石川の問屋に椿を買いに行くって、さっき新助さんが出かけちゃったわ。止めればよかった」

若い女中   「すみません」

年増の女中  「いいから、ぼおっとしてないで。鯛のほうへ、行った行った。それが終わったら平茸だよ」

若い女中   「はい、ただいま」

番頭     「いやぁ、これは大いくさのようじゃ。お上にペルリご一行、あわせて五百人もの饗応。それも場所は江戸じゃなく田舎の横浜村ってとこの野天だってんだから大変だ」

年増の女中  「なにをぶつくさ言ってんだい。あんたも邪魔だよ、どいたどいた」

番頭     「な、なに、忙しくてあたしの顔も忘れちゃったかい?」

年増の女中  「あはははは。これはこれは、お帰りなさい」

番頭     「じきに旦那も帰ってくるよ。旦那は品川で野暮用がおありだってんで、あたしは一足早く横浜村から帰ってきたよ」


【そこから一刻ののち】


当主     「おうい、今帰ったよ。おうい、誰かある。みな忙しいか。ああ、疲れた疲れた」

年増の女中  「これは旦那様。お帰りなさいませ。横浜村はどうでした?上々でしたでしょうか?ささ、お荷物はこちらへ」

当主     「ありがとう。いや、はや、とんでもない。場所も御厨も急造で粗末なものだった。大変なことになるに違いないわ、あれは。にもかかわらず、我が邦とアメリカ国との一大事に仕出す料理を作れとは」

番頭     「旦那様、一足早く、お待ちしておりました。みなへはいったん落ち着いてから」

当主     「うむ、まずは旅姿を解いて、落ち着きたいのう。そのあとで皆の者にも伝えよう。ただ」

年増の女中  「ただ?」

当主     「ああ、いや、大変だということだ。と言っても、もうあと十日もない。やるしかあるまい」

番頭     「まずはお帰りのひとっ風呂」

当主     「そうするよ。横浜での仕事は、きちんとしてきたからな、休む間もなかった」

若い女中   「向こうの地の物はどうでした?」

年増の女中  「お前さんは、もう。旦那様、これからお風呂だってのに。鯛は終わったのかい?」

若い女中   「ええ。それで、地の物は?」

当主     「うむ、得れるものは何でもあるだけ、魚でも野菜でも花でも何でも確保してきた。これが大変な仕事だった。ただ」

番頭     「まさにそうです。ささ、旦那様、こちらへ」

当主     「おう」

若い女中   「ただ、ただ、なんです?」

年増の女中  「こら、いい加減におし。次は早く鱸を」

若い女中   「平茸終わったら。ただ、なんです?」

当主     「はは、休ませてはくれぬわ。よい、大丈夫だ。ただな、別の問題がわかったのじゃ。器じゃ。五百人に仕出す料理をいま血眼になって準備しておるが、その料理が載る器もしかるべきものじゃないと面目が立たん」

番頭     「漆器も、木の器も、焼き物もギヤマンも、北から南までさまざまな名物があろう。それを五百人の一皿一皿分を名品で揃えねば」

当主     「なんと頭の痛い。だが、お花、お前さんのおかげで決心がここでついた。これは江戸から持っていくしかあるまい。器の江戸中の総ざらいとは、まことに大仕事になるだろうが」

番頭     「阿部様にもお伝えして、ご協力を」

当主     「うむ、なんとしても融通してもらわねば」

若い女中   「でも」

番頭     「でも、なんじゃ?まだ何かあるのか?」

若い女中   「ペルリさんたちは、漆器も、木の器も、焼き物もギヤマンも、わかるのですかね?」

年増の女中  「(三者そろって)わからん」

番頭     「(三者そろって)わからん」

当主     「(三者そろって)わからん」


【ここまでのやり取りから察するに、どうやら料理のほうは江戸で用意したもの、横浜の地の物から作るもの、というふうな準備が整っているようであります。ただし、それらが鎮座する器が問題になっているとのこと。善は急げで翌日には当主と老中の面会が叶います。この国難(?)に身分の差も越えて、すぐさま面会可となります】


当主     「謹んで申し上げます。昨日のうちに文にてお伝えしました通り」

老中・阿部  「わかっておる。その先はよい。内容は了解しておる。いかんせん、時間がない。前置きはさておいて、準備を進めねば」

当主     「ありがとうございます。では」

老中・阿部  「で、どのような器がどれだけあればよい?」

当主     「紙と筆を」

家の者    「これを」

当主     「ありがとうございます。では」

老中・阿部  「書いたか。どれどれ。まず漆器は、津軽、能代、川連、秀衡、浄法寺、正法寺、鳴子、仙台、村上、新潟、会津、粟野、日光、芝山、鎌倉、小田原、木曽、飛騨、名古屋、輪島、金沢、山中、高岡、城端、越前、若狭、伊勢、日野、京、根来、黒江、郷原、一国斎高盛絵、八雲、大内、香川、桜井、久留米籃胎、長崎、琉球。・・・・うむ、焼き物は後で見ておこう」


【このあと、老中の鶴の一声が江戸中に響き渡りまして、漆器も木の器も焼き物もギヤマンも、大名・旗本・御家人の蔵という蔵の総ざらいが始まりました。それを終えてもなお、足りないことがわかり、豪商に、天領地の豪農に、蔵という蔵を総ざらい。それに三日余分に費やしたそうで。ようやくペルリ饗応の前日夜に横浜に届いたといったありさま。続くお話は次回にて】

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