【落語台本】ペルリ
紀瀬川 沙
第1話
▼嘉永7年(西暦1854年)1月末 老中・阿部正弘邸
【江戸の町にはゆうべ遅い初雪が降り、今朝には一年ぶりの辺り一面の冬景色となっております。ただ、そんな風流な外の情景にも目もくれず、大きな屋敷の奥深くでは昨夜から夜を徹して悩み続けのお侍が、赤い目をしながら何やら相談しております。湿気の多い座敷にこもる三人のお侍。皆が皆、眉間には深いしわ。その理由は、どうやら遅い初雪よりも珍しい、今この時も江戸の沖に浮かぶ黒々としたアメリカ国の蒸気船のようで】
老中・阿部 「さて、と、もう日も昇りつつあるが」
町奉行・井戸 「むむう。伊沢殿、浦賀の管轄として、いかがか?」
浦賀奉行・伊沢 「むう。悩ましいところ。かく言う井戸殿、江戸の町奉行としては、いかんすべきかと?」
町奉行・井戸 「ううん。いまだ得体の知れぬ脅威に対して、まずは、上様のお膝元である江戸からなるべく遠ざけたいというがありますな。昨年同様、浦賀に回ってもらうようには」
浦賀奉行・伊沢 「それは伝えたが、一向に黒船は動かぬ」
町奉行・井戸 「いま一度、言ってみては?」
浦賀奉行・伊沢 「同じことかとは思うが。それでも本当の解決には到底」
町奉行・井戸 「まあ、江戸からは遠ざかる」
浦賀奉行・伊沢 「・・・・」
町奉行・井戸 「いやなに、遠ければいざ戦うとなった折にも、準備のしよう、ひいては戦いようもあるということだ」
老中・阿部 「待て待て待て。あの大筒を見たことがあるのはわしだけか。いま戦うなどはない。いくさは最後じゃ」
浦賀奉行・伊沢 「もっとも、アメリカ国の軍師が、陸戦隊を浦賀から上陸して攻め上るわけがないかと。正攻法で考えれば、蒸気船のまま、そうですな、品川とかへ」
町奉行・井戸 「おっと、困る、困る、それは困るぞ」
老中・阿部 「ゆめゆめ、いくさなどと申すな」
町奉行・井戸 「申し訳ござりませぬ。ものの例えのひとつで」
浦賀奉行・伊沢 「アメリカ国は和親、話し合いを一貫して求めておる。応えないわけには」
老中・阿部 「古来からの清国、オランダ国との付き合いと同様であろう。まず饗応じゃ」
浦賀奉行・伊沢 「御意。それでは、長崎へ行ってもらって、長崎奉行へ」
町奉行・井戸 「そうじゃ、いい考えじゃな、伊沢殿」
老中・阿部 「浦賀にもゆかぬのじゃ、長崎へ回るわけなかろう」
浦賀奉行・伊沢 「・・・・」
町奉行・井戸 「・・・・。では、どう致しますか?」
浦賀奉行・伊沢 「黒船は金沢の沖から動かない」
町奉行・井戸 「いくさはない。されど帰ってもくれず」
老中・阿部 「ううむ。去年は帰ってくれたが、今年はもう無理であろう。場所はともかく、陸にて場を設けるのはやむなし。でよいか?」
町奉行・井戸 「しからば御意」
浦賀奉行・伊沢 「しからば御意」
老中・阿部 「しからば」
【話から分かる通り、この三人、あの黒船ペリーとの交渉役を命ぜられて、こうまで悩んでいる次第。アメリカの態度は変わらない、求めることも変わらない、海の向こうへ帰ってくれることもない。結論は饗応・和親に行き着くこと必定なのですが、それをどう決断するか、三人の間を行ったり来たり。初雪の江戸の曇天が徐々に明るく暖かくなってゆくだけ】
町奉行・井戸 「失敬。そろそろ奉行所へ」
浦賀奉行・伊沢 「いやいや、日々の奉公も大事なれど今は」
町奉行・井戸 「伊沢殿は江戸のぼりということで浦賀は下の者に任せきりかもしれぬが、それがしのほうは日々この江戸の町をだな」
浦賀奉行・伊沢 「任せきりになど。こちらは今日が期日なれば。ペルリ達への沙汰を上様へ上奏するのは」
町奉行・井戸 「わかっておる。だからこうして阿部様のお屋敷に伺っておる。されど、されどじゃ、今日この日も大江戸は」
浦賀奉行・伊沢 「ひっきょう、お役目を避けたい魂胆であろう?」
町奉行・井戸 「なんと無礼なことを。いくら伊沢殿とて」
老中・阿部 「そこまでにせい。話が逸れる。本題は、アメリカ国への応接じゃ」
浦賀奉行・伊沢 「・・・・」
町奉行・井戸 「・・・・」
老中・阿部 「さりとて何をどう・・・・」
【雪の降る音が聞こえるのではないかというくらいの沈黙。そこへ、主人に用事を伝える阿部邸の家の者の声が響きます】
家の者 「おはようございます。本日の庶事をお伝えしても?」
老中・阿部 「おう、おはよう。入れ」
家の者 「本日は申の上刻、江戸城にて」
老中・阿部 「ああ、わかっておる。上様にペルリのことを。だからこうして夜通し」
家の者 「はっ、さようでござります。では続けて。その後、林大学頭と日本橋『百川』にて夕の会食」
町奉行・井戸 「『百川』、奉行所の公務を片づけたのち、拙者も参会致します。林殿の知恵も借りて、ペルリのこと、煮詰めましょう。おっと、伊沢殿は」
浦賀奉行・伊沢 「・・・・このあとすぐに浦賀へと取って返し、岸の防備でござる」
老中・阿部 「いや、伊沢殿にはお伝えせずにおって失礼仕った。いやなにも我々も『百川』へは遊びにゆくのではない。のう?井戸殿」
町奉行・井戸 「ええ、むろん」
老中・阿部 「こたびのやむを得ぬペルリ一行への饗応、やむなしということがやむなく決まった。仕出しに関し、『百川』の主に一任したく、そのための下向じゃ」
浦賀奉行・伊沢 「はぁ、かしこまってそうろう」
【なんともチグハグで曖昧なまつりごと。これにはいつの世も大差はないようで。嘉永も令和も、おっと、これ以上は舌を滑らすことはできません。さっさと嘉永の世に戻って、続きは次回のお話にて】
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