見たくなかった光景
早歩きで進む。迷いがなく、彼らの行く場所を予知しているかのようだ。何故分かるのかと問えば、周りの反応とだけ返ってくる。
突き進む際に、通り過ぎる生徒たちは、こそこそと噂話に花を咲かせていた。なるほど、騒ぎが起きているのを目印に、方向を決めているのか。
琴梨は有名人だ。お淑やかで、声を荒らげるタイプではない。そんな彼女がなりふり構わずに叫んでいれば目立つ。話題に餓えた生徒には美味しい餌だろう。そしてそれを追いかける雨子たちも。
「……いたよ」
しばらくして。昇降口に辿り着いた。そっと柱の陰に隠れ、しゃがみ込む。しぃ、と人差し指を唇に当てる友人に習って黙ると、教師の大声が響いた。
「何しているんだ! もう授業始まるぞ」
うそだろ。
そういえばチャイムが鳴っていた気がする。当然雨子は食事はしていない。
「ねぇ、授業に、むぐ!」
「良いから。今日ぐらい抜け出そう。問題ない、次は数学だ」
問題ありまくりである。
特別優等生ではないが、授業をサボるなど避けたい事態だ。後々教師に理由説明を求められたとき困る。知り合いの内緒話を盗み聞き、なんて間抜けで悪趣味な答えを、ぬけぬけと答える度胸はない。
「ほら、始まったぞ、走れ! いや廊下は走るなよ!」
ざわついていたオーディエンスは散り散りになる。しっしっと手で払う教師も、見届けてから職員室のある方向へと歩いて行った。一気に静まった空間で、友人が半目になる。
「……琴梨お嬢様も、葵も。随分と不良になったものだね」
「人のこと言えないからね、私たち」
覗き込めば、靴箱の影から二人出てきた。彼らも隠れていたらしい。どうやら死角にいる雨子たちには気がついていないようだ。
これで、完全に四人だけ。
静かだ。しとしと、雨音が響く。雨の香りがする。雨子の心臓が、騒ぎ出す。嫌な予感、いつだって雨子にとって嫌なことが起きるときは、雨が降る。だからこそ、雨は疎ましく憎むべきものだった。雨子という名も厭わしくてたまらない。
それでも日向と一緒にいられる時間になって。少しずつ気に入って。でも。
――日向と一緒に帰る。
雨の日は二人だけの時間。それすら、なくなった。完全に引き裂かれたような感覚がした。
「あのね、日向。聞いてちょうだい」
ずくずくと痛み出す。雨子は顔を俯かせる。浅い呼吸、息苦しい。やはり授業に参加すべきだった。これは目撃してはならなかった。特に、雨子は。これは琴梨にも失礼だ。
「私、ずっと好きなの」
頭を殴られた衝撃。ぐわん、視界が歪んで明滅した。身体から力が抜けて、地面に手をついた。冷たい感触がする。
「最近、別の女の子と話してて。寂しくて。ようやく気が付いたの。お願い、私とこれからも、一緒にいて」
「琴梨、それは」
それは恋ではない。日向の否定に、はっと、雨子は顔をあげた。
あげて、しまった。
見てしまった。その状況を。
琴梨が、今にも泣き出しそうな顔で、悲痛な声で縋る。日向に、ぎゅうと抱きついて頬に手を添えた。見つめ合って。
「約束したじゃない。私とずっと守るって。日向だって私のこと好き。そうでしょう?」
――キスを、した。
「あめこっ!」
声がする。誰かが、後ろから必死に呼び止める。身体が勝手に動き出して、その場から逃れるように飛び出した。
ばしゃりと水が跳ねて、頬に雨粒が当たる。一秒だっていたくもなくて。
雨子は、逃げ出した。
ひたすらに。どこまでも。彼と歩いた道をがむしゃらに走り出す。
重たい。水分を吸った制服が纏わり付いて邪魔になる。ぐちゃぐちゃにな思考に溺れたくなくて、足掻く。必死に走り続けた。
喉が、肺が焼ける。荒い呼吸音が遠くに聞こえて、自分の身に起きているのが他人事のようで。
「――ッ!」
感覚すらなくなる足が、もつれた。ぐらりと身体が傾き、滑る。制御が効かなくなり、地面が迫った。衝撃に耐えるため、目をぎゅっと瞑る。だめ、だ。転ける。
「雨子!」
ぐんと後ろから腕を強く引っ張られる。目を目を白黒させると、ぽすんと背中からぶつかる。抱きすくめられ身を強ばらせた雨子に耳元に、吐息が触れた。
「あぶ、なかった」
焦りが滲んだ声に、雨子は気付く。忘れられない、恋した人の。
瞬間、雨子は腕を動かし振りほどこうとした。今一番会いたくなかった。焼きついた光景が離れない、黒く醜い感情があふれかえって口から出てきそうになる。
ぶつけたくない、こんな汚い女の子だって知られたくない。
「大丈夫か、靴はける?」
彼がしゃがむのを眺めて、自分が靴が脱げたのを知った。
初めて会ったときの記憶と重なる。いやだ、いやだ。大切な思い出と、重ねたくない。
だけれど勝手に脳は、宝物を取り出して悪趣味に比べてくる。同じだろう、嘲笑う。身体から一気に力が抜けて、視界が暗くなる。恋は人を狂わせる、その通りだ。こんなことで、雨子の心は脆く崩れてしまいそうになっていた。
「ごめん、ごめんね。聞いちゃって。ほんと、邪魔だったよね」
口が止まらない。自分自身を傷つける刃が、次々と溢れる。この場を丸く収めようとする、弱虫がを泣き叫んで暴れて。
「俺は」
「ごめん、今は、ひどいこと言っちゃいそうで。だから、冷静になりたいから、ごめん」
日向を遮った。駄目だ、嫌な子になっている。追いかけてきてくれたのに、拒絶している。またひとつ、黒く染まる。
「――放っとけない」
ぽつりと、こぼれた。日向が一度身体を離すと、制服のジャケットを脱ぐと雨子の肩にかけて、包む。そのまま正面から抱きしめた。かき抱くように、強く。
「俺の話を聞きたくないなら、喋らない。でも、傍にいさせてくれ」
雨で奪われた体温。彼のぬくもりが心地良い。ふわりと彼の香りがした。
優しくしないで。
泣き叫びたいのを、嗚咽と共に噛み殺した。
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